第十三話 蛇の嫁と狐の社の街
ゆかりの父は、一晩泊まったその翌朝、姿を消していた。客間の布団はきっちりたたまれ、その横にははずしたシーツやカバーの類がエンから借りた浴衣とまとめて置いてある。
「もー! 何で挨拶もなしに行っちゃうの! せっかく久しぶりに会えたのに!」
憤るゆかりに押し入れの襖を開けながらエンが苦笑いする。
「急に仕事が入ったらしくてな、朝方発ったんだ」
嘘である。夜明け前、気配を感じて玄関を覗きに行ったら、何も言わぬまま軽く頭を下げて出て行ってしまったのだ。きっと引き止めたところで無駄だっただろう。
「まぁ、娘の居所も知ったことだし、またそのうち会いに来るさ」
持ち上げた布団から、何かがひらりと落ちる。洗濯物をまとめて抱えようとしていたゆかりは手を止め、それを拾った。
「何だこりゃ、レシート…………ん? 何か書いてある」
「どうした」
掛け布団と敷き布団をまとめて布団を押し入れにしまってエンが振り向くと、ゆかりは不機嫌そうな顔で拾ったレシートの裏をエンに見せつけた。
「何これどういう意味」
『かみさまへ ゆかりに全部話しとけ』
ボールペンで、意外ときれいな字でそう書かれている。
「んっ……」
全部というと、ゆかりが人外のものに狙われやすくなってしまったということ、そしてゆかりの父がエンにゆかりの身柄を「できるだけ長く」――一度出てしまった能力がなくなるかどうかの保証はないから、おそらくは、約束の三年以上――任せたことを、か。
どう説明すればいいものかと思考を巡らせるエンの様子に、もっと詰め寄ってくるかと思われたゆかりは、
「そんなに込み入った話したの? お父さんに何か変なこと言われなかった? 大丈夫?」
むしろ心配するようなことを言うものだから、エンは吹き出してしまった。気丈で言葉がきついことはあるが他者を気遣うことができる――娘のように可愛がっていたあの子に本当によく似ている。
「いや、全然。お前さんのことを頼むと任されただけだよ。お前さんが持ってしまった力がなかなか厄介だからな」
「ちから…………あっ! そう! 束早さんに言われた! 声に力があるって!」
「当主に教えられていたか。なら話は早いな」
エンがシーツと布団カバーをまとめて持ち上げると、ゆかりも浴衣と枕カバーを持ち、ふたりで洗濯機のある洗面所へ向かう。台所から漂ってきた白飯の炊ける匂いが空腹を刺激し、同時に腹の虫が鳴った。
「……お父さん、朝ごはん食べてから行けばよかったのにね」
「そうだなぁ。握り飯でも持たせるべきだったか」
ゆかりはアルバイトをしていた頃に持たされていたものと、昨日朝食にと置いてあったものを思い出す。昨日の朝食分は、二つあったうちの片方を父にあげてしまったが。
「いやそれはちょっと……あんたが作るのでかいんだよ甘夏ぐらいあるじゃん」
「でかい方がいいのでは?」
極めて真剣な顔で言うエン。きっと「子どもたち(この場合、エンにとって自分よりも歳若い人間たちを指す)にはたくさん食べさせ健やかで大きく育ってほしい」という昔の感覚そのままなのだろうとゆかりは悟った。
「たくさん食わせりゃいいってもんじゃないのよおじいちゃん。さ、さっさと洗濯機回してごはんにしよ!」
朝食時、昨夜エンが父と話した内容を説明された梛木ゆかりは目をつむって、
「うーん?」
思案した。咀嚼していた炊きたての白飯を飲み込んでから、目を開ける。
「つまり、私の身が危ないってこと? どのくらい?」
「まぁ、お前さんは強い力がダダ漏れってわけじゃないからなぁ。消費税程度といったところか」
「それって結構じゃない? 十回に一回は狙われるってことじゃん」
「八乙女――乙女とはいうが実際男もいるから、定義上の名称だと思ってくれ――は、わんさかいるわけじゃあないが、稀少というほど珍しい能力者でもない。大体その者が住んでいる土地神が護って……というか本人の意思に関係なく囲っているから、よその神に狙われることはほとんどないだろうさ」
「囲っている」と言い直された意味を悟り、思わず顔を顰める。
「勝手に吸ってんのかよ」
「吸う、って…………ああ、いや、そうだな、『吸う』が言い方としては一番合ってはいるかな。でも俺が知る限りはそんなに頻繁にではないよ。ずっと吸っていたら八乙女が死んでしまうし、必要でもないのに力を付けすぎても暴走して逆に討伐される対象になってしまう」
エンは苦笑しながら昨夜の残りのマカロニサラダの入った小鉢を持つ。
「討伐……昔は、そういう神様もいた?」
「最近はあまり聞かないけどな。悪い妖怪が退治されたり封じられる話があるだろう? あれの中には神格にあったものだっている」
ゆかりは、以前聞いたエンの言葉を思い出した。
『信仰されなくなった神は力を失う。力がなくなれば神ではなくなる。神という存在が消えるんだ』
信仰されなくなる――物理的に信じてくれる人間がいなくなってしまうというのもあるが、周囲に人間がいたとしても「祀るに値しない」と断じられることもあるのだろう。
そうやって消えていって、地元の昔話にすら残されなかった神が、きっとたくさんいるのだ。
いずれ、ミナギも、エンも、そうなってしまうのだろうか。
「どうした」
声をかけられ、我に返る。一瞬、エンを見て、すぐに目を逸らす。
「うん……」
「ミナギも俺も、お前さんに力をよこせだなんて強いたりしないよ。これでも節度というものは知っているつもりだ」
少しだけ沈んでしまった表情に、心配ないと言うように、へにゃ、と笑う。
「や、そういうんじゃ、ないんだけど」
正確にはエンは神ではなく妖怪だ。
しかし、やっぱり、土地神でもないのにこれまでずっと巳埜谷に貢献してきた彼が忘れ去られてしまうのはちょっと納得がいかないとゆかりは考えてしまうのであるが――そんなことを言えば、きっと「そういうものさ」とか何とか言って、同じように笑うのだろう。
「……いろいろ知ってんね。よその神様のこととか」
「昔はどこそこふらふらしていたからねアオは」
突然の、若い男の声――エンのものではない。
聞き覚えのあるこれは。
ふわ、と光るように、純白の大きな狐が台所と隣り合う居間に降り立った。
「やあおはよう。爽やかな朝だね」
触り心地のよさそうな尾が揺れたかと思うと、美しい優男に変わる。エンの顔が一転、不愉快そうに歪んだ。
「帰れ!」
「いきなりひどいな。ああ、ゆかり、今日も愛らしい。私の妻にならないか」
相変わらずの女好きの白い神狐にゆかりも目を細めながらニラと卵の味噌汁の入った汁椀を手に取る。
「またそんなこと言って。陽菜ちゃん聞いたら泣いちゃうよ」
「ふふふ、その冷たい当たり。それもまた心をくすぐる」
「どうしたんすか朝っぱらから」
「うん、ちょっとね」
吹雪丸はゆかりの隣の椅子に腰を下ろすと、
「アオ。ちょっとゆかりを貸してくれないか」
にこりと微笑んだ。エンの顔が益々歪む。
「断る」
「別にきみから奪おうっていうんじゃない。困ってるから頼んでいるんだ」
マグカップに入ったまだ手のつけられていない茶を吹雪丸に飲まれ、ゆかりは、あ、と声を出した。
「吹雪さんそれ私の」
「あ、すまないね、つい」
「……いいよ、あげるよお茶は。カップは返してね。そんで、何で私が必要なの?」
「えぇと、ね、」
吹雪丸はマグカップを片手に漬物の器に手を伸ばし、一切れ口に運ぶ。エンの眉間に更に皺が寄る。
「行儀が悪いぞ玉垣の」
「だっておいしそうだったから……そう、そう、用件だね。今週末うちで式年祭があるんだけど、人手が足りなくてさ。手伝ってくれないかな? バイト代出すよ」
隣町の土地神のあまりにも気軽で意外な申し出に、
「え?」
「は?」
ゆかりとエンは、思わずそれぞれ汁椀と小鉢を同時に置いた。
玉垣神社式年祭。
前の祭神である神狐・玉垣晴吉の鎮座日を祝う日であるという。
「父は今はもう引退してしまっているのだけどね、それでも玉垣神社……玉垣狐の祖だから、そう、『玉垣神社できておめでとう』とか、『玉垣晴吉祀られ記念日』、みたいな感じかな。だからそれなりの規模の祭りになるんだ」
「祀られ記念日」
午前中に洗濯と掃除を済ませ、昼食をとった後、ゆかりは着物に羽織を重ねた姿に化け土地神というよりもどこかの若旦那のようになった吹雪丸に連れられて電車に乗り、玉垣神社の最寄り駅に降り立った。
「ゆかり! よくきたな!」
迎えに来ていた陽菜が抱き付いてくる。花飾りのついた白い帽子に薄桃色のワンピースというちょっといいところのお嬢さんのようななりだが、残念ながらやっぱりふさふさの尻尾は隠しきれていない。
「陽菜ちゃ~んこんにちは~。お饅頭持ってきたから後で食べようね」
「おまんじゅう!? やったぁ!」
吹雪丸がぴょんぴょん飛び跳ねる大はしゃぎの陽菜の手を取り引く。
「陽菜。ゆかりは遊びに来たんじゃないよ。今度のお祭りでお手伝いしてくれるからその打ち合わせに」
「おまつりのおてつだい」
「陽菜が小さいときに叔父様おめでとうって大きいお祭りを一回やっただろう?」
「………………おー!」
わかったような顔をしているが、おそらく、絶対、わかっていない。吹雪丸は嘆息した。ゆかりも苦笑いする。
「覚えてないやつだね」
「仕方がない。前にやったの二十年前だからね」
前回の式年祭が二十年前で、その頃陽菜は小さかった――ということは。
「えっ……陽菜ちゃん、私より年上!?」
「陽菜はきみの倍以上生きているよ」
「えっ!?」
「私の伯母――父の姉の娘だからね。神格にある獣の血筋だから、きみたち人間が考える狐とは全然別物だ」
「へ、へぇ……」
自分の倍以上、ということは、自分の父よりも年上なのか。ゆかりは複雑な気分になった。察した吹雪丸は笑う。
「時の流れが人間とは違うから、驚くのも無理はないけれど。ちゃんと、まだまだ子どもだよ。だからそういうふうに扱ってくれていい。これからも、仲良くしてあげてくれるかな」
「そう……そう、なんだ……はい、わかりました」
ちら、と陽菜を見ると、目が合った陽菜はにこーっ、と笑った。愛らしい。
「ゆかり、ともだち。ヒナはうれしいぞ」
「うん。私も、陽菜ちゃんが仲良くしてくれて嬉しいよ。……そういや、陽菜ちゃんにとって先代さんは叔父さんなんだね」
「おじさまは、でっかくて、つよくて、つよい!」
「そっかぁつよつよかぁ~、頼り甲斐があるねぇ」
「でもこしがいたいってゆってる」
「腰が痛いかぁ~……それは引退やむなしだねぇ……」
吹雪丸が、また笑った。
「伯母や一族のみんなによく働き過ぎと言われていて、ようやく隠居したんだ。頼られると応じてしまうたちでね。……さて、うちの人間たちも待っている、行こうか。話なら歩きながらでもできるしね」
「いこ」
吹雪丸から離れた陽菜が、ゆかりと手を繋いで引いた。
駅の高架式ロータリーの階段を下りるとバスとタクシーの発着所になっていた。駅前から延びる大通りには、商店と洒落たデザインの街灯が並ぶ。人も多い。通りの奥の方に、大きく立派な鳥居が見える。あれが玉垣神社か――家の裏の山姫社とは大違いだ。
(街、だなぁ)
電車でほんの数駅、移動時間にして三十分と少し。離れたのはたったそれだけの距離なのに。
ただ、共通するところはあった。
吹雪丸と陽菜を見かけた人々が、声をかけてくるのである。エンに対する巳埜谷の住民ほどの馴れ馴れしさはないが、挨拶をして、軽く頭を下げる。そして吹雪丸と陽菜も返事をしたり、手を振ったり。この一帯を守護するものとして認知されているようだ。
(巳埜谷もこのくらい栄えてくれれば…………や、でも、そんな人もお金もないか巳埜谷……)
あまりきょろきょろ見回さないように気を付けながら、それでも視線だけで様子を窺っていると、吹雪丸が歩む速さを落としてゆかりに並んだ。
「この通りは元々参道なんだ。昔から茶屋や土産物屋が並んでいてね。一応、観光ガイドにも載っているんだよ」
「強いなぁ……そうだよなぁ、観光地……」
「だから祭りもやりやすい」
「あ~……立地……そうだよなぁ、ミナギのお社、うちの裏山だもんなぁ……アクセス悪いんだよきれいにしてるけど……」
「ふふ。きみは、あの小さな町が大事なんだね。故郷でもないのに」
ふるさとでもない。
それは、そうなのだが。
「……何か。もうちょっと、何とかできないのかなって思ってさ。私一人で考えてても、どうにもならないんだろうけど」
「そうやって、きみみたいな若い子が、そういうふうに真剣に考えてくれている。きっと嬉しいだろうねアオも」
そう言って微笑む表情は、雰囲気が少しだけ、巳埜谷のことを話すエンに似ている――土地神の顔だ、とゆかりは思った。
「何だろうね。引っ越して、ちょっとしか経ってないのにね」
「きみの母の故郷だし、きみの中の血が懐かしさみたいなものを感じているのかもしれない」
「そういうもんかな?」
「なつみが巳埜谷にいた頃の話は聞いている?」
「うん」
「そう。だから、アオと暮らして、それを通して、なつみが昔見たもの、感じたものを受け取っているんだよ」
「そっか。…………ん?」
そういえば、吹雪丸は、母を呼び捨てにしている?
ということは。
「吹雪さん、エンにちょくちょく会いに来てるよね。うちのお母さんのこと知ってるの?」
「きれいな子だった」
「やっぱり口説いた?」
きょとん、とした後、崩れるように苦笑いする。
「いや……なつみは、伯母上にちょっと似ていたからね。とてもそういう気には」
ああいうのはタイプではないのか――気が強くさっぱりしていた母を思い出す。
「吹雪さんでも口説かない女いるんだ。誰でもイケると思ってた」
「それは偏見だよゆかり。私にだって好みはある。そう、きみとかね」
陽菜が空いている方の手で吹雪丸の袖を引いた。
「ふぶきさま。ゆかりはミドリのつまだぞ。そういうのはよくない」
「はい」
ゆかりは笑ってしまった。




