第十二話 蛇と黒い覡(かんなぎ)
「いや、いや、すまない、待たせたな」
サッとシャワーを浴びてきた土地神代理エンは、さっぱりした顔でグラスに注いだサイダーを実においしそうに一気に半分ほど飲むと、
「はあぁ~! たまらんなこのひと仕事の後の一杯!」
ダイニングテーブルの定位置の椅子にどかりと座った。ゆかりの父は、僅かに顔を顰める。
「そんな、風呂上がりのビールみたいな」
一方のゆかりは見慣れたもので、冷静に返す。
「意外と酒飲まないのよ。蛇だし九百歳弱のおじいちゃんだから」
「お神酒くらいやるだろ神サマだろ」
「エンは代理だから正確には神様じゃないよ」
父と娘の小声のやりとりが聞こえていたか、神様のようで神様でない蛇はふんにゃり笑う。
「ああ、そうだよ、俺は代理。元の土地神から力を送られているだけの、ただの長生きな蛇。巳埜谷の民に愛玩されて、のんべんだらりと暮らしてきただけの蛇だ」
明るい、しかし深い緑色の目が、真っ直ぐゆかりの父を見据える。
「お前さん、俺を初めて見た瞬間に、そんなの見抜いていたはずだろう?」
表情も変えず、答えもしない父の顔を、ゆかりは思わず見た。
「そうなの? わかってたの? 束早さんから聞いた?」
「…………それも、あるけど」
「あるけど何」
黙り込むゆかりの父。代わりにとでも言うように、エンが続ける。
「本家の当主の兄というなら、お前さんも長縄憑きだろう。だから蛇に詳しい」
「長縄憑き……お父さん、蛇が、憑いてる、の?」
ゆかりの問い掛けに、父は腕組みをし更に顔を顰め、そっぽを向く。するとその袖口から、真っ黒くて細長いものがにゅるりと出てきた。
「然り」
「わぁ! へびしゃべった!」
椅子ごと後退するゆかりにエンは苦笑する。
「俺やウカミ様という前例を見ていながらまだ驚くのかゆかり」
「だってあんたあれ以来戻ってないじゃん喋る蛇だってまだ三度目だし! 一般的な蛇は喋らないんだよ!」
黒い蛇は、
「然り、然り。それがしは一般的な蛇に非ず。矢刀比古と申しまする。那木の宇香彌比古の影にして分霊。以後お見知りおきを」
テーブルの上に乗りゆかりの前まで進み出た。ウカミヒコと深く関係があるらしいが、それにしてはずいぶんと小さい。全長三十センチぐらいといったところか。
「お初にお目にかかりますな、ゆかりさま。いや、それがしはゆかりさまのお姿は目にしておりましたが、なにぶんぬしさまよりゆかりさまの前には決して出るなと言いつかっておりましたゆえ」
「そうなの?」
再度父に問い掛けるが、やはり答えない。黒い蛇は、収まりよくとぐろを巻いた。
「先ほどぬしさまが申しました通り、ぬしさまとなつみさまはゆかりさまを普通の子としてお育てになられた。それがしのような得体の知れぬものを遠ざけるは道理」
「……お父さんと、ずっと、一緒にいた?」
「永縄の里を出る際よりずっと」
「私が生まれたときも?」
「ぬしさまはそれはもうお喜びで」
「そっか。……ヤツヒコさんも、見守っててくれたんだね」
何故か、少し嬉しい気分になった。手を差し出すと、ヤツヒコはゆかりの手にくるくると巻き付く。締め付けすぎない、優しい力加減。
「ああ、本当に、大きくお美しくなられた」
「わ、ハンドリングってこんな感じなのか」
「蛇に抵抗はございませぬのか?」
「永縄でウカミさんと結構一緒にいたからなぁ。ふふ、ちょっと、慣れたのかもね」
「剛胆な。本当になつみさまによく似ておられる」
その言い方、母とは親しかったのだろうか。もっと聞きたい。ゆかりは、少しだけ、顔をヤツヒコに近づけた。
「お母さんと、話したりした?」
「少しだけ。ぬしさまがなつみさまを独り占めしたがってなかなか」
「へぇ~」
「なつみさまもぬしさまを慈しんでくだされた。ぬしさまは永縄ではお味方が少なかったゆえ」
「え」
それはどういう意味なのか――とゆかりが問う前に、大きな手がヤツヒコをむんずと掴んだ。顰め面の男はそのまま自分のジャケットの袖口にヤツヒコを押し込む。
「余計なこと言うな」
「ちょっと、お父さん、そんな雑に」
「ヤツヒコは一般的な蛇じゃねえから平気だよ。……で? お前、自分は神サマじゃねえからゆかりを嫁にしても大丈夫だとか言いたいわけ?」
改めて、エンを睨む。信用できないという感情が溢れ出ている、が――
「まぁ大丈夫なんじゃないか?」
あっけらかんとエンは返して、サイダーを飲み干した。
父と娘は顔を歪めて、
「はあぁ!?」
「適当だなジジイ!」
同時に叫んで、はっとして、向き合った。
「こらゆかり! ジジイだなんて口汚い! なつみちゃんに似て可愛い顔してるんだからもっときれいな言葉を使え!」
「それお父さんが言う!?」
そんな二人を見ながら席を立ったエンはというと、
「ふふ、ふ、懐かしい。喜洋となつみもこんなだったなぁ」
冷蔵庫を開けサイダーのペットボトルを取り出し、お替わりをグラスに注いで笑うだけだった。
結局ゆかりの父は、エンに対して毒づきながらもそのエンにはもてなされ、そしてゆかりには宥められ、そんなことをしている間に時間はどんどん過ぎて、そのまま泊まっていくことになった。
「寝ないのか」
深夜、唯一明かりがついている部屋に、ゆかりの父は入った。古い文机の上のノートパソコンで作業をしていたエンは、座ったままで、ゆっくり、振り返る。
「それはこっちの台詞。俺は人間じゃないから何日か寝なくても問題ないけどな、お前さんは寝た方がいいぞ。若く見えるがゆかりほどの娘の父、それなりの年齢だろう」
「うるせえなまだギリ三十代だよ。何、して…………ぅわっ何だそれ何語だ」
「大陸の言葉だよ。これで仕事をしている。稼がないと食っていけない。……どれ、茶でもいれようか」
立ち上がろうとしたエンを、
「いや、いい」
制しながら、ゆかりの父はそのまま部屋の入り口近くに胡座をかく。エンも、向き合うように座った。
彼は、自分と話をしに来たのだ。
ゆかりが一緒にいてはつい感情的になってしまうから、ゆかりが寝入っただろうこんな時間に。
「俺が知っていて答えられる範囲でなら何でも答えよう。あまり多くは知らないが」
「いいのか」
「構わんよ。娘が心配だものな」
「何をわかったふうに」
「長くこの梛木の家に世話になっている。家のことも、子育ても手伝ってきた。なつみだって俺が育てた、親が共働きだったからな。あの子は梛木の娘たちの中でもいっとうお転婆でなぁ、よく裏の山の」
「待て!」
制止が入った。
「大変興味深い話だけど! 今聞きたいのはそういう感じのそれじゃなくて!」
ニヤつきそうなのを、必死に堪えているのがわかる。ああ、この子は今でもなつみが好きなのか――エンは、へにゃ、と笑う。
「そうか」
「昼間、言ってたことだけど。お前、ゆかりを一生縛り付ける気はないのかって」
「そもそも俺にはそんな力はないよ、ただ長生きなだけの蛇だと言っただろう。何百年と生きているのもミナギの傍にいる影響だろうしなぁ。俺とゆかりを夫婦たらしめているのは必要最低限のちょっとした呪い。ありがたいことに、なつみの母も、その祖母も、その前の何代かも、そうして力を貸してくれた。本来の土地神が戻れば俺の役目は終わる。それがあと三年だというだけの話さ」
「本当に?」
向けられるのは疑いの眼差し。さもありなん、と思いつつも、エンは頷く。
「大丈夫だよ。ゆかりがミナギに三年で帰ると約束させた。ミナギはときどき突拍子もないが根が真面目なお嬢様だからな、俺はともかくミナギは信用していい。神は約束を違えない――神を扱う家の出のお前さんだ、よく知っているだろう?」
「……まぁ、なぁ。ウカミの娘じゃ信用してもいいんだろうけど」
エンから借りたために丈も袖も少し短い浴衣の袖から、ヤツヒコがにゅっと顔を出す。
「ぬしさま。エンどのもヒメの加護を受けしもの。信じてもよいのではありませぬか」
「う~」
理解はしているが納得はできない、といったところか。
「何か、なんかもうさぁ~! わかってるんだけどさぁ~! 全然邪気とか感じないんだもんこいつ! でもやっぱゆかりの父ちゃんとしてさぁ~!」
エンは思わず声を出して笑ってしまった。
「それを言うならだけどな、俺にとってもお前さんは可愛い娘を奪った男のようなものだぞ?」
「う、ぐぅ」
「ふふ、冗談、冗談だよ。お前さんを見ていればわかる、なつみもお前さんがそんなふうに素直でいい子だから愛おしんだんだろう。あれは世話焼きだったしなぁ」
くふふ、とヤツヒコも笑う。
「ぬしさま。勝ち目はございませぬ。観念してゆかりさまのことはお任せになっては」
「うぅ……うん……」
す、と表情が変わった。胡座のままだが、背筋も伸びる。
ああ、ここからが本題だ。
エンも真っ直ぐ、ずっと年下の義父を見る。
少しの沈黙ののち、彼は口を開いた。
「あのさ」
「うん?」
「ゆかりの力のことなんだけど」
「力?」
エンの反応にゆかりの父は意外そうな顔をした。
「あれ……知らない……?」
「あの子は何か持っているのか?」
「…………」
考え込んでしまう主に、ヤツヒコが、ぬしさま、と促す。
「知らぬのならお話して差し上げなされ」
「んん……」
悩んでいる。エンは声をかけた。
「あの子が何であれ俺のスタンスは変わらんよ、無理に話さなくても」
「いや! 知っていてもらう必要がある!」
「そうか?」
「ゆかりは八乙女だ」
「八乙女? あの子が?」
八乙女。
神に歌舞や音曲、また古くは食事を捧げる役目を負う巫女のことを差す。
「確かに父親がお前さんならある意味神に仕える血筋だが、育ちは町の一般家庭だろう」
「そういうことができる能力がある、って意味だよ。ゆかりは声に人間じゃないものに力を与えたり、逆に鎮めたりできる力がある」
「なに?」
「ナギはウカミヒコという神蛇を祀る一族であり、同時にそのウカミヒコの子孫。能力の種類はランダムだし、強い弱い、生まれつき出る後から出てくる、いろいろあるけど、異能の力を持つのが本家にときどき生まれるらしい。束早も俺もそうだ、俺たちの親父さまは何も出なかったけどな。束早が言うには、ゆかりの場合はウカミの娘とその代理のお前っていう存在に刺激されて出てきたんだろうって話だ」
「それ、は……」
思い返して、はっとする。
玉垣神社の吹雪丸も気に入っていたようだし、陽菜も最初から懐いていた。ウカミヒコにも口説かれたとゆかりが言っていた。
エン自身も、ゆかりと話すのに心地よさを感じていた――つまり、彼女の力の影響を受けていた?
「御饌……」
呟くと、ゆかりの父は安心したように長く息をついた。
「理解が早くて助かる。つまりゆかりは人間じゃないものに狙われやすくなっちまったってこった。食ったりしなくても傍に置いときゃブースターになり得るからな」
「なんと…………いうことだ…………」
エンは両手で顔を覆って俯く。
まさか、自分とミナギのせいで。
しかしゆかりの父は、
「別にあんたが責任感じる必要はねえよ」
存外エンを責めるふうでもなかった。思わず顔を上げる。
「いや、しかし、だな」
「俺となつみちゃんもお互いの家のことなんか最初は知らなかったし、ゆかりもいきさつはどうあれこの町のこと助けたいって考えてお前の嫁になったんだ。結果としてこんなことになっちまったけど、誰が悪いとかはねえ話だろ」
「それは、そうだが」
「そこで折り入って頼みがある」
「えっ」
ゆかりの父は、それまで胡座だったところを流れるような所作で正座に直し、畳に手をつき頭を下げた。
美しい座礼だ。
「ゆかりを守ってほしい。できるだけ、長く」
「エンどの、どうか、どうか、是非に」
ヤツヒコも袖から出てきて畳に添えられた手の横にとぐろを巻くと、礼をするように頭を下げる。それまで己にちょっとした敵意のようなものを向けていたのに(小さな蛇の方はそんなことはなかったが)急に恭しくされて、エンはぎょっとした。
「ちょっ、待て待て頭を上げろ坊主」
「坊主って何だガキ扱いすんな!」
呼ばれ方が気に入らなかったか即座に顔を上げる。しおらしくしていたかと思えばこれだ。反応が早いな、と土地神代理はつい、ちょっとだけ、感心してしまった。
「お前さんが名乗らんからだろうに。…………いや、そうか、」
立ち上がり、ゆかりの父の前までくるとしゃがんで、手を肩に置く。彼の中に、“空虚”のようなものがあるのを感じた。
「名がないのか」
髪と同じように黯い目の男は、観念したかのように、溜め息をつく。
「ゆかりのとは全然違う愉快な能力のおかげで、生まれたときから本家のトップのクソババアに嫌われててな。戸籍もない。だから俺がゆかりにしてやれることには限りがある。昼間勢いでゆかりにここから出ろ住むとこは何とかしてやるなんて言ったけど、実際無理なんだよ。金ならある、逆に言えば金出すことしかできない。俺は生きてるけど、存在してない。ゆかりの父ちゃんだけど、何の繋がりもない。俺自身も仕事の関係上狙われることあるし、どうせならなつみちゃんの実家で手前の家にも関わりある神サマに守ってもらった方が安心できる。だから、その………………」
名を持たない男は、再度頭を深く下げる。
「おねがい、します」
きっと、葛藤しながらも考えて、考えて、出した結論なのだろう。
これが「最善」なのだと。
本当は、娘には普通の子であってほしかったのだろうに。
「……そう言うがな、やっぱり責任を感じずにはおれないものさ」
肩に置いたままだった手をそろりと動かし、頭を撫でる。
「俺は、何とか力を保つために何度も梛木の娘を縛り付けてしまった、せめてこの子はとなつみを逃したのに、結局その娘にすがることになってしまった。建前とはいえな。全部、というわけではないにしても、一端はあるよ。本当に、すまないな」
「だからそうなっちまったもんはもうしょうがねえだろ、いいからうんわかったそうしますって言えよクソ蛇」
「お前さん遅れてきた反抗期か?」
がしゃがしゃと髪をかき混ぜると、ゆかりの父はエンの手を払いながら顔を上げた。
「うるせえなぁ!」
「ふふ」
懲りずにまた撫でる。今度は、幼子にするように、ふんわりと。
「ゆかりの父、なつみの夫であることを差し引いても、お前さんのようないい子に頼まれれば、ミナギヒメの代理としては断るわけにもいかんなぁ。……信じてくれるか?」
ヤツヒコが、にゅう、と首を伸ばした。
「ええ、ええ、信じましょうぞ。ですな、ぬしさま」
応えない、が、目には力が込められている。
ずっと無事であってほしいという祈りが。
ずっと穏やかに暮らせるようにという願いが。
「俺はただの長生きなだけの蛇。ミナギの力がなければ本当に何もできない」
両手で、ゆかりの父の頬を包んで優しくさする。
「お前さんに添うヤツヒコどののようにはいかないだろうけど、できる限りのことはしよう」
「本当に、任せていいんだよな?」
「まぁ大丈夫なんじゃないか?」
「おいジジイ適当言うな!」
「あっはっはっは。…………我慢強い子だ、ゆかりとよく似ている」
黯い目は、少しだけ、潤んでいた。
ゆかりの父が客間に戻り布団に入ったのは、もうすぐ夜が明けてくるような時間帯であった。
「……どう思う?」
問い掛けると、小さな黒い蛇は枕元にうずくまったまま応じる。
「エンどのは、無自覚でありますな。何が長生きなだけの蛇か。己も神に近付いているというのに」
「九百年弱って言ってたな、生きてるの」
「この里の民は、エンどのを慕っておりまする。いずれはヒメにも等しくなりましょう。その先もあのように、人間と共に歩もうとする姿勢であれば、ウカミヒコにも引けを取らぬ強き土地神となるやもしれませぬ。そういう器のあるお方」
「自覚がなければ、妖怪のままかな」
くくっ、とヤツヒコは笑った。
「ご心配なさらずとも、ぬしさまやゆかりさまが生きている間は妖怪のまま。いずれと申しましても、百年、二百年も先のことですからな。ゆかりさまは神の餌ではあっても神の嫁にはなり得ませぬ」
「そっか。ならいっか」
「ええ、ならいっか、でございますとも」
「ヤツヒコ」
「はいぬしさま」
人差し指の先が、小さな頭を撫でる。
「ありがと。お前は俺のいいマネージャーだ」
「恐悦至極」
細い尾の先が、小指に絡んだ。




