第十一話 蛇の嫁の父、来襲
「じゃあちょっと行ってくる」
使い古されたつばの広い麦わら帽子を被り、首にはタオル、両手に厚手のゴム手袋、そして足元はゴム長靴。しかし、
「かっこいいジャージ着てんじゃん」
「ふっふふ、いいだろう。一昨年りつ子が買ってくれたんだ」
上下は有名ブランドのスタイリッシュなスポーツウェア――ゆかりは、この片田舎に似合わない農作業スタイルだな、とエンを見て思った。隣の家の畑仕事の手伝いに行くらしい。
「私も行かなくてよかった?」
「まだ眠いだろう、体が慣れるまでは無理はしない方がいい。睡眠不足は重労働の大敵だ」
午前五時半前。今までだったら、ゆかりはまだ寝ていた時間帯だ。エンに合わせて起きたはいいが、まぶたは重そうだし言葉にもいつものキレがない。
「十時には戻るから風呂を沸かしておいてくれると助かる」
「元の姿に戻って水張ったタライに入った方が手軽じゃない?」
「まあそれはそうなんだけどな、長く生きていると風呂に入りたいときだってある」
「冗談だよ、ちゃんと入れとく。いってら」
「朝飯はテーブルの上にあるからな」
エンが出て行くと、ゆかりは台所に行って水切りカゴに入っていたマグカップを取り、水を入れて飲んだ。言われた通り、テーブルにはラップフィルムのかけられた大きなおにぎりが二つと大きな卵焼きが二切れ乗った皿と、「味噌汁有 コンロ」と簡潔に書かれたメモが置いてある。
「……食べ盛りの息子じゃねーっての、全く」
ふと、母のことを思い出す。
ゆかりに不自由させないようにと一生懸命働いていた母も、仕事が遅くなる日にはよく「手間をかけずにすぐに食べられるもの」を用意してくれていた。インスタント食品や冷凍食品や買ってきた弁当、パンのときもあり、手作りのおにぎりや炒飯やサンドイッチ、おかずが置かれていたときもあり。
(……うん。お母さんのおにぎりも、なんかでかかったな)
きっと母も、エンが作った大きなおにぎりを食べたのだろう。祖母もそうだったのかもしれない。
「ふふ。でっけー愛情だ」
もう一眠りしたら食べよう。ゆかりはラップの上からおにぎりを少し撫でると、マグカップをすすいで水切りカゴに戻し、自分の部屋へ戻った。
そんな梛木ゆかりの安眠が妨げられたのは、午前九時半にセットしてあったスマートフォンのアラームが鳴る直前のことであった。
「ごめんッ、くださああぁぁぁーいッ!! すんません誰かいますかァーッ!?」
玄関の引き戸がガンガンと叩かれる音と共に、男の叫ぶ声が聞こえる。この家には呼び鈴がないから来た客は門扉か玄関の戸を叩くことになるのだが、巳埜谷町の住民も宅配業者もこんなに激しい在宅の確認はしない。もちろんエンが帰ってきたわけでもない。声が全然違う。
「すんませえぇーん!!」
と、いうか、聞き覚えが、ある。
ここにはいないはずの存在の声。
何故、とゆかりは一瞬思ったが、その驚きはすぐに引っ込める。そういえば、以前アルバイトをしていた居酒屋のオーナーに頼んでおいたのだ――「お父さんが来たら巳埜谷町に引っ越したって伝えて」と。心配かけさせまいと連絡をしようにも通信機器を持たない人だから、こうして親しい人にお願いしておくしかない。
布団から出て、まだ眠い目を擦りながら玄関へ向かう。すり硝子の向こうには、想像していた通りまっ黒な塊が見えた。間違いない。彼はいつも、春夏秋冬、黒い服を着ている。
「はいはーい」
土間に下りて鍵を開け、戸を引くと、
「ゆかりッ!!」
突然の来訪者は、対面するなりゆかりを強く抱き締めた。鼻を啜る音が聞こえた。
「も~……何やってんだよぉ…………」
それまでの勢いがすっかり失せた、今にも泣き出してしまいそうな声に、苦笑しながら彼の背に手を添える。
「ごめんねお父さん。久しぶり」
「おう」
ゆかりを抱き締める腕に、少し、力が入った。
茶を出しながら、ゆかりは大きなおにぎりのひとつを夢中で食べる父に声をかけた。
「落ち着いた?」
「ん」
先ほど涙ぐんで擦った目が少し赤い。自分ほどの娘がいる割にかなり若く見えるのは、家庭に縛られず一人でふらふらしているのもあるが、精神的に幼いところがあるからかもしれないとゆかりは思う。
「懐かしい味がする……お前作ったの?」
目を閉じ、咀嚼していたおにぎりの一口を飲み込む。おそらく、ゆかりが感じたのと同じことを思っている。
「お母さんが作ったのと同じ味?」
目を開けた、が、俯く。
「…………なつみちゃん…………もう、いないんだよなぁ……」
また涙ぐんでしまったか、声が揺れる。
「ごめんな、葬式、ちゃんと出られなくて。なんかさ、堪えられなくて」
「わかってるよ。お父さん、ギリギリまで泣くの我慢してたでしょ。ずーっと表情硬かったもん。……お金、ありがとね。助かった」
「ごめん、俺、金出すことしかできないからさ。ほんとは、もっとちゃんと、したいんだけどさ、できないから」
二人が最後に会ったのは、一年と少し前のことだ。
そのとき出てきたのも、謝罪の言葉。「ごめん」と、まず一言。
分厚い札束が入った封筒をゆかりに渡した後、棺の蓋にある小さな窓の透明なフィルムの上で、故人の頬に触れるように指先を滑らせると、何も言わずに立ち去った。
梛木なつみの棺が、炉に入る直前のたった数分間。
「謝ってばっかりだなー」
自分のマグカップに茶を注ぎ、ゆかりは笑う。
「お母さんだって、全部わかっててお父さんとそういうふうになったんでしょ。そういう人だったでしょ。私も散々聞かされてきてるんだから。こういう家庭だったってだけの話じゃん」
「恨んでない?」
「何でよ。私別に不幸じゃなかったし。お母さんだって全然そんなふうに見えなかったし」
「なつみちゃん逝った後とかさぁ、大変だったろ」
「正祥さんちと葬儀会社のお姉さんに手続きとか手伝ってもらったし。お母さんの口座凍結されてちょっと焦ったけど銀行の人も助けてくれたし。お父さんがくれた分もあったの、ほんと助かったんだよ。何もできなかったわけじゃないよ」
「…………そっか。それならいい。それならいいんだけどさ、それはそれとして、」
顔を上げ、気合いを入れるように己の両頬を二回、叩くと、
「ゆかり」
真顔で娘を見る。
(あれ)
目が合ったゆかりは、既視感をおぼえた。
おかしい。父の顔なんて、見慣れているはず。何故だろうか、どこかで――そう、少し前に、どこかで。
「お前結婚したってほんとか」
「えっ」
父の言葉に我に返る。今何て訊かれた?
「え、えぇと、あの、」
「しかも! よりによって! 人間じゃないものと!」
「ふぁ」
どうしてそのことを。ついさっきまでじんわりあたたかかった体の芯が、ひゅう、と冷える。
「え、やっ、……あっ、のっ…………」
引っ越したのはともかく、何故父がそのことを知っているのか。土地神の代理をしている蛇の妖怪の嫁になっただなんて、そんな到底信じられないようなことは元バイト先の居酒屋のオーナーにも話していない。ここに来るまでに巳埜谷の誰かに聞いたのか?
どこから、どう説明したらいい?
「別れろ」
「はっ?」
「引っ越せ。住むとこの金も引っ越し代も全部父ちゃんが出してやる。今すぐここ出ろ」
今まで見せたことのない、真剣で、少し怒っているような表情。ゆかりはびくりとした。
「ま、待ってよ、私がここにいるのは事情が」
「そんなもんどうでもいい! せっかくなつみちゃんとなつみちゃんの母ちゃんがお前をこんなのに触れさせないために遠ざけてたのに何で、なんでこんな」
梛木家とエンの関係を知っている。母が話したのだろう。だったら話が早い。
「だっ……からっ、事情があるっつってんじゃん! 私がエンの嫁さんにならないと巳埜谷の人たちが困るからっ……さ、三年って約束だしっ!」
「三年なんかで済むわけねえって話だ」
眼光が鋭さを増す。怒りのゲージが上がったようだ。
「わかってんのか? いやわかってねえなそうだよな、お前は普通であれとなつみちゃんと俺が育てたんだから。いいかゆかり、神も妖怪も『人間じゃないもの』だ。そんなのと婚姻なんかしたら一生憑いて回るんだぞ。あいつらは一旦自分のものにしたら絶対手放さない、お前が他の誰かを好きになっても」
「なかなか詳しいじゃないか」
突如、家全体が震えるように聞こえた――否、この古い木造家屋はそんな造りではない。どんなに大声で叫んでも、空間全体がびりびりと振動したりはしない。
それはまるで、清浄な空気よりも透き通り、研ぎ澄まされた切っ先よりも鋭い響き。
ゆかりは気付いた。これは、初対面のときに感じたものと同じだ。
「エン」
名を呼ぶと同時に、目の前に白い衣をまとった緑色の髪の土地神代理が現れた。
エンは、目を見張り言葉を失うゆかりの父を一瞥すると、
「何だこいつは。元カレか」
神々しい姿とは裏腹に、普段通りのフランクさでゆかりに問い掛けた。ゆかりは顔を顰めて首を横に振る。
「違うよお父さんだよ」
「おとうさん?」
ふぅん、と興味深そうな顔をしながら、固まったままのゆかりの父に近付いて顔を覗き込む。
「なるほど。そういえば少し似ているな」
急に距離を縮めてきた人外のものの鮮やかな色彩に、ゆかりの父ははっとして飛び退き、距離をとった。
「だっ…………誰がおとうさんだ絶対絶対絶っっっっ対認めねえからな!!」
「いやそういう意味で言ったんじゃ……ああ、でも、そうか、そうなるか」
「ならねえよ!!」
威嚇している父に、ゆかりも席を立って近付き宥めるように背をさする。
「お父さん。落ち着いて」
「お前、蛇か」
愛娘の言葉など耳に入らないのか、エンを睨み続ける。エンはひとつ、溜め息をついた。
「まぁ、蛇だな。エンという。お前さん、名は」
「てめぇに名乗る名なんかねえ」
「名乗ってくれなきゃ困る。お義父さんと呼ぶぞ」
「やめろ認めねえっつってんだろ!」
「俺だって呼びたくはないよ。お前さん、ゆかりの父ということはなつみの夫だろう。娘に等しいなつみの夫を義父と呼ぶのはさすがにちょっと」
ゆかりが呆れた顔をした。
「でも実際ある意味義理の父じゃん私を嫁にしてるんだから」
「うぅん。複雑だなぁ。……まあ、うん、そうだな」
気配は別のものなのに猫のようだな――などと、のんきに考えながら。
「とりあえず落ち着け。まずは座れ、茶を入れ直そう。…………あ、いや、ちょっと待て」
客の対応をしようとしていたエンは、ちらりとゆかりの方を見た。送られた視線の意味を思い出し、ゆかりは手を合わせ頭を下げる。
「ごめん! お風呂入れとくの忘れてた!」
「今はそう化けているからきれいに見えるだろうけどな、これでも汗と泥まみれなんだよ。……すまないな客人、少し時間をもらえるか? サッと水浴びしてくる。ゆかり、身内かもしれんが出すならちゃんとした茶碗と茶托でな。客用の茶と菓子の場所もわかるな?」
「へいぃ」
「頼むぞ」
言い残し、エンは風呂場へ向かった。
残された父と娘は、そのまましばらく立ち尽くしていたが、
「……」
「……」
ゆっくり、顔を見合わせる。
「少し似てるってさ」
にや、と笑い、ゆかりは父の背を叩いた。父は口を尖らせそっぽ向く。
「なに、照れてんの」
「……俺よか束早に似てんだよお前は」
「え?」
聞いたことのある名前――確か、本家の、真っ白な。
「お父さん、束早さん知ってんの?」
「弟。双子の」
答えを聞いた瞬間、父と記憶の中の本家の当主の顔が、ぴったりと重なった。
「はあぁ!?」




