第十話 蛇の嫁の父
巳埜谷町に引っ越してから一ヶ月半が過ぎ、梛木ゆかりは以前住んでいた町でやっていたアルバイト二つを無事に辞めた。
「これで晴れてニートになっちゃったわけですが……」
最後の出勤を終えて帰宅早々玄関で溜め息をつきながら零すゆかりに、玄関の引き戸を閉めるエンは笑う。
「広報課の手伝いをやるんだろう?」
「って言ったってさぁ、月に何回とかそのくらいっしょ? バイト代もくれるのはありがたいけど子どもの小遣い程度じゃ貯金もできないじゃん。うぅ……巳埜谷にバイトできそうなとこがあったらよかったのにっ……」
「金ならりつ子と喜洋の遺産があるじゃないか、どっちも役場務めの公務員だったし、散財するような子らじゃなかったから結構な額だったはず。なつみだって遺してくれただろう」
「できるだけ手ぇ付けたくないんだよなぁ…………私さ、」
靴を脱いで上がると立ち止まる。
「お母さんが死んでから、まず思ったの、『これから生活どうしよう』だったんだ。悲しいのももちろんあるにはあったし、うちも貧乏じゃなかったし、私もバイトはしてたんだけどさ。でも、お母さんが、私のために必死に働いてくれてたから、その生活があったんだなって。ちゃんと生きていくためには、お金って必要なんだなって。お母さんが倒れて入院して死んじゃって、ちっさいけどお葬式するまで半年ちょっとぐらいだったんだけど、どんどんお金がなくなってくの見ながら思ったの。一部は保険で返ってきたけどね。だから、遺産とかそういうのはさ、もしものときのため、どうしてもお金が必要になったときとかにとっておきたいんだよ。そーゆーのって、本当に自分の力だけじゃどうにもならなくなったときに、遺してくれた人に『助けて下さい』って頼んで使うものだと思うんだ」
背を向けているから、表情は見えない。が、今の己の状況を深刻に受け止めているようだ。
随分と真面目な、とエンは思った。巳埜谷に住むゆかりより少し上の若い衆も、少し下の学生の子らも、もっとのほほんと生きている。もっとも、彼らはみんな親が健在だし、それぞれ特に不安はなく仕事や学業があるからかもしれないが。
それにしたって、もう少し、力を抜いてもいいのに。
「……そうだなぁ」
ゆかりの脱いだ靴を揃えると、エンも式台に上がる。
「なら、遺産はそのままにしておけ。生活費と小遣いくらい俺が出してやる」
「だから祖父ヅラすんなって」
振り返ったゆかりのいつも通りの顔に安堵する。よかった、泣いてない。
「そもそもそういう約束だったじゃないか、こっちが無茶なことを頼んだんだからな。安心しろ、お前さんを養える稼ぎと蓄えくらいはあるよ」
「でも」
「こう言えばいいか」
ゆかりの肩に手を置いて、にこりと笑う。
「お前さんには俺と巳埜谷に三年間縛られる代わりに俺の財を好きに使う権利がある」
「権利?」
「そうだ。だから本当に、遠慮することはない。……とはいっても、さすがに額に限度はあるけどな。まぁ、そこは、聡いお前さんのことだ。加減くらいは知っているだろう? さし当たっては、」
土間のくたびれたスニーカーを見る。ときどき洗っていたからそこそこきれいではあるが、昼と夜とずっとアルバイトに勤しんでいたから買う暇もなかったか。
「靴でも買うか。探しておきなさい」
また、「でも」と言いかけたゆかりだったが、自身を納得させるように、少し俯く。遠慮の念が完全に消えることはないようだ。
「…………ありがと」
「なに、新たな門出の祝いさ」
「ニートなのに?」
「これからしばらく好きなことができるということだ。めでたいじゃないか」
「すきな、こと……」
「これが終わったら、ちゃんと就職する気なんだろう? 資格を取るもよし、今のうちにやりたい放題するもよし」
「そんな、もんかな」
「ああ、そんなものさ。さて飯だ飯だ、今日は豚汁だぞ。実は俺もまだ食べてないんだ、腹が減った」
「焦がさなかった?」
「いつも鍋を焦がしてばかりの俺だと思うなよ」
促すようにゆかりの肩を軽く叩いたエンは、少し、ゆかりが先ほど言ったことについて思考を巡らせた。
(ああは言ってはいるものの……)
もう成人しているから保護者というほどのものではなくとも、たったひとりになってしまったこの子を――代々の付き合いだった中で、特に親しかったりつ子の孫を、軽く、本当に、ちょっとサポートする程度で、庇護するくらいはしたいものだが。
ゆかりが巳埜谷町に引っ越してきたとき、彼女の荷物は少なかった。元々収集癖もないようだし、母から譲り受けて気に入っているもの以外は無理矢理長く使っているというふうでもないから、「貧乏じゃなかった」というのも事実だろう。母であるなつみも我が子に我慢させるような性格ではなかったはずだ。
(いや、あのなつみと二人だったからこそ?)
なつみにその気がなくとも、ゆかり本人が抑え込んでしまっていた可能性もある。甘えるのが苦手なのだろうか。
(……ん?)
そういえば、父親はどうしたのだろう?
名前を知らないと言っていたが、「死んだ」というようなことは言っていなかった。養育費を入れたりしていたのなら、「貧乏じゃなかった」というのも合点がいくが。
「う~ん?」
思わず台所の前で立ち止まり、腕組みをして考え込むと、コンロに乗った大きな金色のアルマイトの鍋を火にかけたゆかりが振り返った。
「なに、どしたの」
「……なぁ、ゆかりよ。お前さん、父親の名を知らんと言っていたが、顔は知らないのか?」
少し踏み込みすぎだろうかとも思いつつ疑問を投げかけると、ゆかりは体勢はそのままで、視線を一瞬天井に向け、またエンを見た。
「知ってるよ。前は年に一回か二回くらい会ってたし」
「は?」
「でも名前は聞いたことないんだよね。訊いても教えてくれないからお父さんとしか呼んだことない。『やべー仕事してるから知らない方がいい』って。お母さんとも結婚はしてなかったみたい。お葬式のときも火葬直前には来たけど焼き上がる前にどっか行っちゃって、それ以来会ってない」
思ってもみなかったあっさりさとその返答内容に、エンは思い切り、顔を顰めた。
「はあぁ?」
賑わう街中の路地をひとつ入り込むと、古くからある喫茶店がある。今ならレトロ、とか何とか、そういう方向で人気が出そうなものだが、この店の客の出入りがそう多くないのは、高いビルに囲まれて日の光が入らないため、どこか陰気さを感じるからかもしれない。
そんな店の片隅の席でオムライスを食べていた和服姿の男に、影のようなものが近付いていく。
男は、食べようとしていた一口分の乗ったスプーンをぴたりと止めると、
「久しぶり」
見上げる。影――では、ない。影のように黒く見えるのは、先に着席している男が、対照的に髪も肌も真っ白だからだ――黒い髪と黒いジャケット、そして黒いパンツに黒いブーツの男は、白い男の正面の席に座る。
「一人とか珍し。白菊ちゃんは?」
白い男――那木束早は、掬ってあった一口をぱくりと食べると笑う。
「白菊なら僕をここに送ってくれたと思ったら牡丹とみずきと泰司くんにお土産買うってウキウキでどこか行っちゃった」
「大丈夫かよ一応護衛だろ白菊ちゃん」
「那木の当主の命を狙うなんて危ないことする奴いやしないよ、ウカミ怖いんだから。それに僕にとって白菊は『那木の当主の妻』じゃなくて『那木白菊』なんだしね、自由であってほしいんだ」
「ははは、相変わらずお熱いのぅ。ババアがうるせえんじゃねえか」
「おばあさまが逝ってからは好きにやらせてもらってるよ。永縄はもう僕の天下だ。あんな因習村みたいなの今時流行らない、ナギの一族の性質自体はどうしようもないけど、ああいうのは僕の代でおしまいにしなきゃ」
「ババアが死んだ? いつ」
「言ってなかったっけ? 今年の初めに」
「ふぅん、そっか」
「うん」
そのまま、一口、二口、食べ進める。
束早は、また、一口分掬って手を止めた。
「……邪魔な奴はもういない、戻ってきなよ兄さん」
「って、言ってもな」
メニューを手に取りぱらぱらとめくると、お冷やの入ったグラスを持ってきたアルバイトだろう青年に、クリームソーダを二つ注文。一つは自分の分だと察した束早は苦笑する。
「兄さん、僕もういい歳なんだけど」
「お前と同い年の俺もいい歳なんだけど? いいだろちょっと遅くなったけど那木束早自由化記念のお祝いだ」
「兄さんだって自由だよ」
「いやァ~ババアいなくなっても周囲が許さねえだろ~すぐには変わんねえだろ~そういうとこだろ永縄は~。…………あれ」
黒い装いの男は、テーブルに頬杖をつくと、正面の顔を、じ、と見た。
色彩は正反対なので気づきにくいが、よく見るとふたりは作りがほぼ同じである。
「束早お前もしかしてゆかりに会った?」
「えっ?」
聞いたことのある名前に思わず薄いブルーグレーの目を見開く。ゆかりといえば、先月訪ねてきた分家の娘がそう名乗っていたような。
黒い方の男のジャケットの袖口から、これまた影のような細長いものがしゅるりと出てきた。束早が食べるオムライスの皿の横にとぐろを巻いて様子を窺うように鎌首をもたげる。
「坊ちゃまには、微かにぬしさまに似た、しかし少し華やかな匂いが残っておりまする」
「え、ヤツヒコ? なに? ゆかりって、え? どうして」
「ゆかりさまに、お会いしましたな?」
あの娘、兄の知り合いだったのか――しかしそんな話題は出なかったし、これまで兄からも一度も名前を聞いたことがない。
「あ、会ったけど…………確か、巳埜谷の分家の子で……」
「そうそうそれそれ。……あ、早いなもう来た」
クリームソーダが運ばれてきたので、黒い男は慌ててテーブルの上にいる小さな黒い蛇を雑に掴んで雑に袖口に押し込み、小声でごめんなヤツヒコ、と謝った。しまい終えると束早の前に置かれた方に自分のグラスをこつんとぶつける。
「まぁ、その、ゆかりっての。俺の娘なんだわ」
「…………は!?」
那木束早は呆然とした。
二十数年前に永縄の里を出た兄とは、厳しかった祖母の目を何とか誤魔化して、これまで何度も、何十回も、こっそり会っている。そして毎回、少しどころか何時間も話をしている。物心ついた頃から周囲は兄弟の仲を引き裂こうとしてきたが、束早は兄が大好きだったし、兄も自分とは待遇が違った束早を憎むことなく唯一の身内だと心を許してくれていた。
自分たち双子の間には、強い強い絆があって、隠し事なんてもちろんない。
と、思っていた。
まさか、妻子がいただなんて。
いや、そうだ、そもそも兄はそういう奴だった。
どうしてか肝心なことはうっかり言い忘れる。
永縄の里を出て行ったときもそうだった。何とかして後から居所を突き止め会ったら、「ごめん」と軽く謝られた。そういう奴だ。
「…………兄さん」
「ん?」
言いたいことは山ほどある。しかしどうにも、上手い具合にまとまらない。束早はスプーンを置いた。逆の手で目元を覆って俯いて、ようやく出てきたのは、
「結婚してたの?」
ごくありきたりな質問だった。しかし兄はというと、
「いや結婚はしてないよ。できないの束早だって知ってるじゃんか」
特に意に介することなく答える。
「それはそうだけどそうじゃなくて! 何で今初めて言うのっていう話!」
束早が拳でテーブルを叩いたので、皿とカトラリーががちゃんと音を立てた。彼ら以外に客のいない店内では目立つ。黒ずくめの男は普段穏やかな弟が珍しく怒っているのを見てきょとんとした。アルバイトの青年も不安そうな顔でこちらを窺っている。
「言ってなかったっけ?」
「言ってなかったねぇ! 結婚したとか! 子どもできたとか! 僕も、多分白菊も、そういうの知ってたらちゃんとお祝いしたかったなって! 思うからさぁ! 頼むよ兄さん!」
「そっか、ごめん束早」
「だからスマホ持とうよって言ってるんだよ!」
「だから俺なんも持てないって」
「僕の名義でいいから! 料金も僕が持つから! もう、そういうとこ! そういうとこだよ兄さんは!」
しかし責められている本人はへらへら笑うだけである。
「束早、ゆかりに似てるな。叔父と姪だもんな~そういうこともあるかぁ俺らの母ちゃんに似たのかもな~知らんけど」
「だからねぇ…………あぁ、そうか、だからか。そういうことか」
急に声のトーンが落ち、溜め息をつきながら束早は再び項垂れた。黒の男は弟に注視したままロングスプーンでクリームソーダのアイスを掬い、口に入れる。
「何だよ」
「ゆかりさんがさ。分家の子の割に力が強いなと思ったんだ」
「え、そうなの?」
「声に力がある。カミを宥め、鎮める力。カミを喜ばせ、強める力」
「う~っ……そ……」
スプーンを持ったまま、両手で覆い天を仰ぐ。
「八乙女じゃん!」
「八乙女だね」
「なつみちゃんそんな力全然なかったのに!」
「誰?」
「俺の最愛の女ァ~!」
兄の言葉から察する。ゆかりの母だろう。
「そうだね、でもその人に全然力がなくても、その人が巳埜谷の梛木の末裔で本家嫡流の兄さんとの間に子どもができればそうなってもおかしくはない。…………ウカミヒコ」
束早の着物の袖口から、白い蛇が顔だけ出す。
「なんだ」
「きみ、ほんとは知ってたんじゃないの?」
「いや? あの娘からしたのはミナギとアオ、あとは微かなナギの者の匂いだけ」
那木の守り神の返答は意外なものだった。
「だからあの声には少し驚いた。おそらく元々あの娘もその母と同じくたいした力はなかったのだろうよ」
「エンさんのお嫁さんになって、エンさんを通してヒメの加護を受け続けたことで刺激されて引き出された?」
「一番考えられる線だな。ふふ、アオの妻でなければ儂が欲しいくらいだ」
「ウカミやめてね親戚ともめたくないから。……そっか、なるほど」
と、
「いや『そっかなるほど』じゃねえのよ」
黒い男が、身を乗り出した。その勢いと気迫に束早は少し、仰け反る。
「え」
「『嫁』ってなに!? あいつ結婚したの!?」
束早とウカミヒコは、顔を見合わせた。




