125 プロポーズ
魔導院から帰ってきて、数日が過ぎた。
侯爵邸での日々は、忙しくも穏やかだった。朝は庭を散歩して、午前中はリュシアンから押しつけられた魔導書を読み、午後は聖女候補の少女たちに力の使い方を教えに転移陣で魔導院へ向かう。イリヤに乞われて、黎明星研究の手伝いをすることもあった。充実していると言えば、充実している。
でも——どこか、落ち着かなかった。
ロウお父様は、このところずっと忙しそうにしていた。執務室に篭もる時間が長くなり、食事の席でも「絡まった糸をほどいているところでね」と言うばかりで、詳しくは話してくれない。何かが動いているのは分かるが、何なのかが分からない。
そしてエルヴィンが——ぴたりと、来なくなった。
毎日のように転移殿をくぐってきていたのに、あの日を境に、ぱったりと姿を見せなくなった。手紙も、ない。使いも、ない。
最初の二日は、忙しいのだろうと思っていた。
三日目には、何かあったのだろうかと心配になった。
五日目には、もしかして私が何かしてしまったのだろうかと考え始めた。
……元社畜には、「待つ」という行為が、どうも苦手だ。
「アリア様、またぼんやりされていますよ」
侍女のサラサが、苦笑しながらお茶を置いた。
「……少し、考え事をしていたの」
「エルヴィン様のことですか?」
図星すぎて、何も言えなかった。
「エルヴィン様は、お忙しいのだと思います。アリア様のことで」
部屋の隅で控えていた護衛騎士のドゥーニアが、珍しく声を発した。
二人とも、私の都合で住み慣れた公爵邸を離れてここにいるというのに……。気を使わせてしまったと、私は少し落ち込んだ。
◇◇◇
八日目の朝のことだった。
侯爵邸の執事が、小さな封書を持ってきた。
差出人の名はエルヴィン=ナムタリウス=アザル。
封を開けると、短い文章が書かれていた。
『明日の午後、公爵邸へ来てほしい。——エルヴィン』
それだけだった。
理由も、何も書いていない。
この人は本当に、こういうところが相変わらずだ。
でも、わざわざ正式な書面で呼び出しなんて、珍しい。
何かあったのかと、嫌な予感で胸がざらついた。
「アリア様、とことん磨き上げますわよ!」
私の不安を吹き飛ばすように、サラサが、目を爛々とさせて言った。
◇◇◇
翌日。
転移殿をくぐると、アザル公爵邸の空気が迎えた。
石造りの回廊、冷えた空気、遠くに見える白薔薇の庭。ここにいた日々が、昨日のことのように思い出される。
出迎えた執事のクラウスが、深く一礼した。
「アリア様、お待ちしておりました」
「エルヴィンは?」
「白薔薇の庭に。先ほどからアリア様をお待ちです」
◇◇◇
一歩進むにつれ、白薔薇の庭が大きく見えてきた。
白く輝く花が、零れ落ちんばかりに咲いている。
その緑と白だけの空間に、エルヴィンがいた。
紫の髪を結いあげた彼は、紫紺の外套に黒の礼装、黒革の手袋という最上級の礼装だった。一瞬、ここが舞踏会の会場なのかと錯覚してしまう。
白薔薇の前に立ち、彼はどこか遠くを見ていた。私の足音を聞いたのか、ゆっくりと振り返る。碧い瞳が、私を見た。
「……アリア、わざわざ呼び出してすまない」
「いえ。公爵邸に久しぶりに来られて、良かったです」
「来てもらったのは、伝えねばならぬことがあったからだ」
それだけ言って、彼は静かに息を吐く。
私は、小さく頷いた。
「先日、皇帝陛下から正式な書簡が届いた。私とおまえの婚約を、正式に認める——という内容だ」
「え……」
小さく、声が出た。
「なぜ……」
「聖女候補達が十分な力を見せたことで、状況が変わった。加えて……ロウが、動いていたようだ」
「お父様が……?」
「これまで頑なに反対していた帝国議会が、手のひらを返した。さすがはおまえの父というべきか」
一拍置いて、彼は続けた。
「……自分の無力さが、嫌になるがな」
彼はそれ以上、語らなかった。どんな根回しをしたのか。誰に何を言ったのか。エルヴィンも、きっと全ては知らないのだろう。あのお父様のことだから、決して明かさないに違いない。
エルヴィンはそれから——
ゆっくりと、膝を折った。
片膝をついたまま、
碧い瞳が、まっすぐに私を見上げていた。
懐から、小さな白い箱が取り出される。開かれると、淡い青の石がついた細い銀の指輪だった。サファイアが五つ、花弁のように広がって並んでいる。
——氷花だ。
アザル家の紋章を、そのまま指輪に落とし込んだものだと、すぐに分かった。
「アリア」
その声には、確かな熱が宿っていた。
「私と、結婚してほしい」
心臓が、どくんと脈打った。
「私、エルヴィン=ナムタリウス=アザルは、アリア=ハルシュタインを妻とし、生涯をかけてその星を守り、愛し、慈しむと誓う」
胸が苦しくて温かい。思わず、涙がじわりと出てきた。
「……はい。喜んで」
エルヴィンは、穏やかな笑みを見せると、台座から指輪を持ち上げた。
そして、氷花の指輪を、私の薬指にそっと嵌めた。
その瞬間。
ぱちり。
「……っ」
静電気のようなものが指先に走った。びっくりして、足元がよろめく。エルヴィンが立ち上がりながら手を伸ばし、抱きとめようとする。私たち二人は、そのまま地面の芝に、ぐらりと倒れ込んだ。花びらが、ふわりと舞った。
気づけば、エルヴィンが、私の下にいた。クッション代わりになって。
「ご、ごめんなさい!」
「アリア、怪我はしていないか」
私のすぐ耳元で、柔らかい声がする。ぞくぞくして、身体がこわばった。
「私は大丈夫です!すぐにどきますので!」
そう言って立ち上がろうとすると、彼の腕が私の動きを制した。
「エルヴィン?」
「もう少し、このままで」
「え…?」
「もう少し。このままで」
優しい声なのに、なぜか抗えなかった。
どくんどくんという彼の心臓の音が聞こえてくる。あたたかな腕の中で、なぜか泣いてしまいそうになった。
しばらく経ったのち、彼は私ごとゆっくり身を起こした。そして、私の服の汚れを落とす。裾についた花びらに、ゆっくりと手を伸ばした。白薔薇の花びらを指先が、そっと払う。
あのときと、同じだった。初めてエルヴィンの部屋を訪ねたときと。帰り際に呼び止められて、あのときも、服についた白薔薇の花びらを彼に払ってもらったんだった。
エルヴィンの目が、わずかに細くなった。
「私の婚約者は、ずいぶんとお転婆のようだ」
「覚えてらっしゃいましたか」
「忘れるはずがない」
彼は、静かに言った。
「あのときから、決まっていたのかもしれないな。——私が、おまえを愛することは」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
彼が、そっと私に手を伸ばした。
私は、彼の手をとった。
薬指の氷花が、白薔薇の光を静かに返していた。
風が吹き、白薔薇の花びらが、私たちを祝福するように舞った。
私たちは、しばらくそのまま、白薔薇を眺めていた。
やがて、あることに気づく。
「……エルヴィン」
「なんだ」
「お世話になったみなさんをご招待して、婚約のご報告をしたいのです」
エルヴィンの手に、かすかに力が入った。
「……必要か」
「はい。お願いです」
低いため息が落ちた。
「……分かった」
その渋々とした返事に、私は思わず笑ってしまった。
——まあ、誰が来るかを想像すれば、気持ちは分からなくもなかったけれど。
次回、最終話です。




