121 アレクセイの警告
「アザル公爵を乙女の婚約者候補に」
陛下は、確かにそう言ったわよね……?
謁見の間を出たあと、私とエルヴィンは、しばらく黙っていた。
石造りの回廊に、二人分の足音だけが響く。
さっきまでの謁見の間でのやりとり。そのひとつひとつが、まだうまく飲み込めていない。エルヴィンが言った言葉。アレクセイが放った言葉。そして、皇帝陛下の最後の御言葉。
『アザル公爵。そなたを乙女の婚約者候補として認める』
それは、つまり——
エルヴィンが不意に立ち止まり、こちらを見る。
「……アリア。おまえとの未来に、ひとつ近づいた」
胸の奥で、何かが音もなく溶けていく。目の奥が、じわりと熱くなる。泣くつもりはないのに、と思いながら、唇をきゅっと結んだ。
彼の碧い瞳が、わずかに揺れていた。
「なぜ、泣く」
彼が私の頬に手を伸ばした。騎士礼装の銀の飾りが、廊下の光を静かに返した。私を心配している。少し不安そうな顔。その顔を見て、気づかされた。
私、どうしようもなく彼を愛している。
いつからだろう。一体いつから、彼への愛が、こんな風に深く降り積もっていたんだろう。ただ今は、この人の隣に立てることが、ただただ、嬉しかった。
「私、嬉しくて」
声が、上ずった。我ながら情けないほどに。
エルヴィンは、しばらく私を見ていた。廊下に差し込む午後の光が、彼の紫の髪を淡く照らしている。やがて、ふっと息を吐くように、その表情がほどけた。
「……不意打ちにも、ほどがある」
どう答えていいか分からなくて思わず固まっていると、そのまま、彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「——っ!」
思わず、両手で彼の胸を押し返した。星冠宮のど真ん中で。どうかしている。
エルヴィンが、ほんのわずかに、口元を歪めた。
「まったく、場が悪いな」
「それは、こちらの台詞です」
私が抗議すると、彼は小さく息をついた。それが降参の合図だったのか、その手がゆっくりと私の頬から離れていく。少し、名残惜しそうに。
——そのときだった。
「……相変わらず余裕がないな」
廊下の奥から、呆れたような声がした。
振り返ると、アレクセイが歩いてくるのが見えた。黒地に金刺繍の騎士礼装。その装いは謁見の間のときと変わらないのに、廊下に出ると、どこか少しだけ肩の力が抜けて見えた。完璧な皇子の顔ではなく、ほんの少しだけ、素の顔が滲んでいる。
エルヴィンが、無言でアレクセイを見た。その視線に、明らかに「なぜここにいる」という意味が込められていた。
アレクセイは、それを意に介さない顔で私へと向き直った。
「良かったな、アリア」
穏やかな声だった。飾りのない、まっすぐな言葉。だからこそ、少し胸が痛んだ。この人はどんな気持ちで、あの言葉を言ってくれたんだろう。それを想うと、簡単に「ありがとうございます」と返せなかった。
「……アレクセイ殿下。私……」
しばらくしてから、ようやくそれだけ言った。
アレクセイは静かに微笑んでから、私へとゆっくり歩み寄った。その足取りに、迷いはなかった。
「まあ——まだ婚約者、しかも候補だ」
そう言って、彼は私の手をそっと取った。
「嫌になったら、いつでも私のもとへ戻ってくるが良い」
手の甲に、唇が触れた。
「……っ」
アレクセイの黒曜の瞳が、間近で私を見ている。その奥に宿るものが何なのか、分かっていた。でも、気づかないふりをした。
隣で、エルヴィンの気配が変わった。音はない。言葉もない。ただ——廊下の温度が、はっきりと、下がった。
アレクセイは手を離すと、ゆっくりと顔を上げる。そして、無言で冷気を放つエルヴィンを見て——ふっと笑った。
「しつこい男は、嫌われるぞ」
それだけ言うと、彼は踵を返した。その背中は、いつも通り真っ直ぐだった。一度も振り返らないまま、足音が遠ざかり——やがて、廊下の奥に消えていった。
アレクセイ、本当にありがとう。そう思ったけれど、結局それは言葉にはならなかった。
◇◇◇
エルヴィンはしばらく、アレクセイが消えた廊下の奥を見ていた。
やがて、静かに視線を私へと戻す。
「……手を」
「え?」
「手を、貸せ」
低い声で、それだけ言った。
私が手を差し出すと、彼はそれをしっかりと握った。さっきのアレクセイの口づけを、上書きするかのように。少し、力が強い。
「……少し、痛いです」
「……すまない」
握る力が、わずかに緩む。でも、手は離れなかった。
「戻るぞ」
「……はい」
繋がれたままの手は、さっきより少しだけ強く握られていた。
でも——その温度は、どこまでも温かかった。




