119 乙女の答え
エルヴィンとキスするなんて。
とんでもない夢を見てしまった。
深層心理?欲求不満?ろくに恋愛したことない元社畜だから、あんな夢見ちゃったら、しばらくエルヴィンの顔を、直視できないかも。わー、恥ずかしい。
両手で顔をおさえたあと、思い切り、枕に突っ伏す。しばし悶えたあと、ふと、違和感に気づく。
ん?この部屋、なんだか……
ゆっくりと視線を横へ向けると、すぐ傍に人影があった。椅子に腰掛けて、こちらを見ている。
「気づいたか」
うそ。
なんで、エルヴィンがいるの。
というか、ここ、エルヴィンの寝室だ。よく見たら、私、寝間着じゃなくて、服着てる。え。どういうこと。
彼の手が、自然に肩を支えた。
「無理に動くな。少しの間、気を失っていた」
そう呟くと、ごく自然な仕草で私の額に唇を落とした。ほんの一瞬。やわらかな感触が触れて、すぐ離れる。
もしかして。
さっきのって、夢じゃなかった……?
「え……!?」
私が声を上げると、彼が不思議そうにこちらを見た。
「どうした」
胸の前で手を握りしめる。顔が熱くなっているのが、自分でも分かった。
「なんでもありません」
エルヴィンは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、いつもの冷静な顔へと戻る。
「少し、顔が赤いな」
そう言うと、彼は自らの額を、私の額にあてた。
「熱は、無いようだが……」
ち、近い。
顔が近い。
美しすぎて眼が潰れそう。
私、ほんとに、この綺麗な人とキスしたの?めちゃくちゃ恥ずかしい。いや、恥ずかしくなってきた。思わず、目をぎゅっとつぶる。落ち着けアリア。落ち着くのよ。冷静に。冷静に。
そのとき、唇に柔らかな感触がした。
ん。
柔らかな感触が離れたと思ったら、上唇にまた同じ感触がした。
恐る恐る眼を開けると、陶器のような白が目に入った。彼のまつ毛が肌に触れてくすぐったい。
唇が、離れない。息をするタイミングが分からない。苦しくなって口を開くと、柔らかな感触が口の中に入ってきた。
「……は」
思わず、声がでる。それが合図のように、口づけが荒くなった。耐えきれなくなって、彼の胸を押し返す。
唇が離れた隙に、こわごわ、上を向くと、彼が心配そうに見つめていた。
「すまない。嫌だったか」
「い、いえ。でも、びっくりして……」
そう言うと、エルヴィンは露骨にほっとした顔をした。
「あの……私、慣れていないので……もう少し、お手柔らかに」
本当に。恋人いない歴=年齢の元社畜には、刺激が強すぎるんです。
しかし、意外なことに、彼は手を口元にあてると眉をひそめた。
「それは、酷な願いだな」
「そんな……」
「愛する女性を前にして、冷静でいられるほど、私はできた人間ではない」
「開き直らないで下さい!」
「善処する」
エルヴィンが、軽く笑った。つられて私も、笑ってしまう。
それだけで暗い部屋に、明かりが灯ったようだった。
◇◇◇
エルヴィンが「おまえは、もう少し休んでいると良い」と言って執務室に戻ろうとしたので、私は慌てて寝台から立ち上がった。
「私、アレクセイ殿下と話をします」
エルヴィンの肩がわずかに動いた。
「ちゃんと、自分の言葉で伝えたいのです」
エルヴィンは静かに頷いた。
「……分かった」
それだけだった。
けれど、その一言には多くのものが込められているようだった。
◇◇◇
アレクセイに「会って話がしたい」と便りを出した数日後。
私は、帝都別邸の白薔薇の庭にいた。
庭は、あのときと同じように静かだった。柔らかな石畳の小径の両側に、白い花が静かに連なっている。風が通るたび、花弁がわずかに揺れた。
夕暮れの光が、庭に落ちていた。柔らかな光、なのに、どこか胸が刺されるようだった。
石畳を踏む足音が聞こえた。小径の向こうから、黒と金の影が歩いてくる。夕暮れの光を背に受けて、ゆっくりと近づいてくるその姿は、いつもと変わらなかった。無駄のない歩み。背筋の伸びた立ち姿。
そして――
その手には、一輪の赤薔薇。
アレクセイは私を見つけると足を止め、わずかに口元を緩める。
「おまえに、呼び出されるとは思わなかった」
そう言って、手にしていた薔薇を差し出した。
私はその薔薇を受け取った。近づけると、ほのかな香りが漂った。棘はすべて取り除かれていた。
その様子を見てから、アレクセイが言う。
「マリウス所長の件は、エルヴィンから聞いた。顛末はすべてな。……だから、今日は、おまえの話なのだろう?」
黒曜の瞳が、まっすぐに私を見る。私は彼を見つめたまま、棘のない茎を、静かに指でなぞった。
「……アレクセイ殿下。殿下のお気持ちは、嬉しく思いました。殿下に幸せになってほしいと思う気持ちも、嘘ではありません。私にそのお手伝いができれば、どんなに良かったか」
それは本当だった。
けれど――
私はゆっくり息を吸った。
「でも、私が共に生きたいと願うのは、ただ一人なのです」
白薔薇の庭に、静けさが落ちた。風が吹く。白い花びらが、かすかに揺れる。アレクセイは何も言わなかった。ただ、静かに私を見ている。
その視線を受け止めながら、私は赤薔薇へ目を落とした。
「あなたがくれる薔薇には、棘がありません。それは、あなたの優しさなのだと思います」
そう言ってから、私は庭の白薔薇を見た。静かに咲いている花々。夕暮れの光を受けて、淡く輝いている。
「でも、私が愛するのは――棘のついたまま咲いている、この白薔薇なのです」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
アレクセイはしばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと息を吐く。その顔に浮かんだのは、苦笑だった。
「……そうか」
低い声だった。
そして、ほんのわずかに――辛そうな表情。
「美しい薔薇を手折ろうとしたのが、間違いだったのかもしれんな」
そう言って、アレクセイは空を見上げた。夕焼けの色が、瞳の奥に映り込む。やがてゆっくりと、こちらを見た。左耳の黄金のカフに手が添えられていた。
「アリア、私が皇子でなければ……少しは私のことを想ってくれていたか?」
夕焼けに照らされた彼の顔は、泣きそうに見えた。思わず、彼に手を伸ばしそうになるのを、ぐっと堪える。アレクセイと私の未来は交わらない。そう、決めたのは私なんだから。これ以上、彼に期待を持たせてはいけない。
「……いや、こんな話に意味はない。忘れてくれ」
少し下を向いてから、また顔を上げたときには、彼はいつもの皇子に戻っていた。
「おまえの気持ちは、よく分かった」
それだけ言うと、彼は踵を返した。黒い外套が、ふわりと翻る。白薔薇の庭の小径を、ゆっくりと歩いていく。その背中は、いつも通り真っ直ぐだった。
私は、その姿を見送った。やがて、姿が庭の奥に消える。残ったのは、風と、白い花の揺れる音だけだった。
手の中には、棘のない赤薔薇。
私はそれをしばらく見つめていた。
むせかえるような白薔薇の香りが、夕暮れに漂った。




