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116 彼と彼女の祈り

匣の外へ吐き出された瞬間、床の冷たさが現実として戻ってきた。


「……なんという……」

目の前にいるマリウス所長の声が震えた。驚愕の響きが先に立ち、次いで、歓喜の色が混じる。

「まさか、この箱から出てくるとは!あなたは、私の想像を超えた存在です……!」


マリウスは匣へ半歩近づき、霜の膜へ手を伸ばしかけて止めた。近づけば近づくほど、見えない圧が増すのだろう。彼はその圧を恐れるのではなく――愉しむように目を細めた。


「自らを犠牲にしてまで、あなたを助けるとは……あなたの義兄は、よほど狂信的な黎明星信者のようですね」


“犠牲にして”。


その言葉が、私に刺さった。違う。真実は、私が一番よく知っている。――でも、今はそれを議論している場合じゃない。


「……あなたは、私たちをおもちゃにして、遊んで、楽しいですか?」

私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。


マリウスの口元が動く。反論の形を取りかけ、しかし止まる。それでも彼は、優しさの仮面を被り直すように言った。

「誤解です。私はあなたを救うために――」


「救う?」

私は首を傾けた。

「あなたの言う“救い”は、私を役目から解放することじゃない。私を別の役目へ据え直すだけです。私を縛るのが帝国ではなく、あなたに代わるだけのこと」


マリウスの瞳が細くなる。

「国はあなたたち乙女を縛ってきた。だから私は、あなたを解放しようと――」


「いいえ。あなたのやろうとしていることは、帝国と同じです」


言い切った瞬間、マリウスが息を呑む。今、言い切らなければいけない。ここで曖昧にしたら、彼はまた自分の言葉で私を包み直そうとする。


「確かに帝国は、黎明星の乙女を“国家の機構”として扱ってきた。でも、あなたはそれを批判するふりをして、機構を入れ替えるだけ。国の道具から、あなたの道具へ。宿る場所を変えるだけです」

「私は人々を救おうと――」

「人々、という言葉で誤魔化さないでください」


マリウスの眉が寄る。

「私は騙されただけだ。武器など、作るつもりはなかった。ヴァンデル商会が――」

「戦争と金儲けの道具にされる危険があると分かっていながら、渡したのはあなたです」


沈黙が落ちる。

観測器具の脈動だけが、室内の空気を細かく切る。


私は深く息を吸った。

「あなたは星脈を“力”だと思っている。でも、違う。なぜ、この箱に、暗器に、星脈が宿らないとお思いですか。星を動かせるのは、ひとの祈りだからです」


マリウスは、美しい眉を歪めた。

「……そんなのは、綺麗ごとだ……」


「綺麗ごとじゃありません。真実です」


私は横目で匣を見た。匣は静かにそこに佇んでいる。静かであるほど、彼が内側で耐えていることが分かる。


私は、ようやく刺さったままだった言葉を抜き取った。

「……マリウス様。先ほど、あなたは言いましたね。『義兄が自らを犠牲にして』と。……でも、それは違います。彼は犠牲になったのではありません。そして――彼は、義兄ではなく、私の愛する人です」


言い切って、息を吸う。祈りの形を作る。私は、黎明星ではなく、エルヴィンに向けて祈った。


「戻ってきて、エルヴィン」

名を呼ぶ。霜の奥で、薄い気配がかすかに震えた。

「あなたなら、戻ってこられるでしょう。あなたが、私を一人にするわけ無いんだから」


霜が、きい、と鳴った。淡い青の光が匣のまわりに満ち、青白い膜がわずかに緩む。匣の蓋が開くように開き、側面が外へ倒れる。


まるで、閉じられていた世界が“息を吐く”ように。光の中から、人の形が現れた。白い礼装の肩口には霜がまとわりつき、紫の髪には細かな氷片が残っている。彼の掌は床を押さえ、重力を確かめるように息が吐かれた。


マリウスが、震えるように呟く。

「まさか……こんなこと、ありえない」


「星を動かすのは、――ひとの祈りだけです」

私は、マリウスに言うでもなく、呟いた。


彼が立ち上がったその瞬間――目が吸い寄せられた。エルヴィンの胸元。衣服の下から、淡い光が滲んでいた。獅子の紋。第三星(アウストル)


私の守護星。


この時を、私はどこかでずっと待っていた気がする。


エルヴィンが、自分の胸へ掌を当てた。そしてゆっくり顔を上げ、私を見た。


私は、彼へと手を伸ばした。彼の手が伸び、指先が触れ、掌が重なる。生きている。熱がある。


「戻ってきてくれると、信じていました」


「ああ。私もおまえが私を呼んでくれると、信じていた」


夜空のような碧の瞳が優しく揺れ、彼の腕がしっかりと、私を抱きしめた。


「――ただいま、アリア」

「――おかえり、エルヴィン」

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

最終話まで残り10話となりました。

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