115 匣の蛇
匣の中へ吸い込まれた瞬間、身体が“折り畳まれた”感覚がした。
暗い、というより――ここでは、光そのものが拒まれている。
足裏に触れたものは床ではなかった。硬いのに、踏み込むと沈む。息を吸うたび、喉の内側が乾いていく。
「アリア、無事か」
エルヴィンの声が近い。闇の中で、彼の輪郭だけが確かだった。指先を伸ばすと、布越しに彼の熱が触れる。私たちの声に呼応するように、青銀の線が足元で光った。
線は束になり、闇が形を持つ。蛇のような、長く巨大な形の何かが、地から這いあがってきた。
“星脈もどき”の次は、“蛇もどき”……?まったく、冗談じゃない。そう思った瞬間、その“蛇もどき”が私の腰へ巻きついた。
「アリア!」
ぞくりとする冷たさが、絡みつく。締め付けが強まると同時に、身体の内側が空洞になるような感覚が走った。吸われている――私の中の“黎明星”の力が。
エルヴィンが蛇もどきを剣で叩き切ろうとする。けれど、刃は空を斬るだけだ。刃が、そもそも届かない。実態が、無い。
視界の端が白む。足先の感覚が遠のき、身体の力が抜けてゆく。その瞬間、エルヴィンが私に叫ぶ。
「見るな。応答するな。おまえが存在を意識するほど、やつは力を増してゆく」
応答すれば――吸われる。そうだ。あれは、匣の機構だ。私をこのまま匣に定着させようとしている。腰に巻きついた蛇もどきは、息をするたび太くなるように膨れ、私の身体はしだいに呑み込まれてゆく。
「エルヴィン……!」
「アリア、考えるな!」
身体に巻き付かれた状態で、考えるなって言う方が無理じゃない!?考えるなって言われれば言われるほど、そのことを考えてしまうのは、心理学的には「皮肉過程理論」と言われてるんだった。大学のゼミで習いましたが。今まさにその状態です。だめだ。こうしている間もやっぱり考えちゃう。よし、何か他のことを考えればいいんだ。でも、どうすれば。どうすれば。眼をつぶったまま、必死に考える。
そのとき、ふに、と唇に柔らかな感触が触れた。
え?
なに?
柔らかな感触は、すっと離れてゆく。眼を開けると、碧色の光。エルヴィンの顔が目の前にあった。闇が深いのに、彼の瞳だけははっきりと見える。
「……え?いまのは?」
自分でも、あまりに素っ頓狂な声だと思った。
「不意打ちが過ぎたか」
考え込むように言ったあと、彼の指が私の顎をすくう。端正な顔が近づき、再び唇に柔らかな熱が触れた。先ほどとは違う。唇から熱がそのまま伝わるような、濃い気配。やがて、熱はゆっくりと――名残を置くように離れた。
なんで?どうして?
これって──?
思わず口元を押さえると、エルヴィンは口の端を上げた。
「これぐらいは、許してもらおう」
場違いに、愉しむような眼つきだった。
「エルヴィンっ……!こんな時に、何を……!」
叫びかけて、私は気づく。蛇もどきの拘束が弱まっていた。太さも先ほどの半分になっている。
すかさず、彼の掌が光を宿す。
「理を開き、我が願いを聞け。――霜律封刻」
次の瞬間、青白い霧が降り注ぎ、蛇もどきの動きが止まった。
そうか、エルヴィンの狙いはこれだったのか。さっきのはいわば、応急処置。大して意味はないのよね。意識しちゃいけない。そう思えば思うほど、さっきの感触を思い出してしまう。頭の中が彼のことでいっぱいになっているから、ある意味、企みは成功だ。
彼は、私に巻きつく蛇もどきを見据えた。
「アリア、今から、おまえと私の間で魔力を循環させる。私の魔力がおまえに満ちれば、蛇もどきはおまえを黎明星の乙女ではない、と認識するだろう。おまえを“吐き戻す”はずだ」
ぎりぎり、と。蛇もどきが、動き出す気配がした。
「蛇もどきが離れた瞬間に、匣の出口をこじ開けろ。この匣に宿るのが星脈もどきなら、おまえの祈りに応えるだろう。出口が見えたら、私の合図で外へと出ろ」
「……分かりました」
エルヴィンは私の右手に左手を、左手に右手を重ねた。互いの両手が結ばれて、その輪の中で光の路が生まれる。私の魔力が彼に流れ、代わりに彼の魔力が私に満ちてゆく。これは……あの拷問部屋でリュシアンと行った“魔力循環”と同じ……?
「力を抜いて、息を合わせろ」
深く呼吸すると、体内の脈がエルヴィンの魔力の波になじんでゆく。温かくて、心地よい光が奔流のように流れ込んできた。すると――蛇もどきの身体が波を打つ。吐き戻しだ。巻きつく圧がほどけ、身体の自由が戻る。
「今だ!祈れ!」
私は手を解き、素早く黎明星に祈った。
『私たちを、外の世界へ還して』
そのとき、なにかが、きい、と軋む音を立てた。薄い裂け目の向こうに、光が覗く。あれが出口だ。
「エルヴィン、手を!」
私は、彼へと手を伸ばした。
しかし――彼の身体は、蛇もどきに絡めとられていた。
彼の唇が静かに動いた。音は届かないのに、言葉だけが分かる。
「ゆけ」
その瞬間、分かってしまった。
彼は、最初から、こうするつもりだったんだ。きっと、この箱の中に落ちたときから、彼は――決めていたんだ。
彼のもう片方の手から光が満ち、私を勢いよく押し出した。身体が、出口へと吸い込まれていく。
「待って!エルヴィン……!待って!」
蛇に巻き付かれたエルヴィンの身体は小さくなり、やがて暗闇に吸い込まれた。
冷たい石の感触。
戻ってきた重力。
肺に入る空気の薄い埃。
気づけば私は、床へ転がり出ていた。
からん、と何かが床に落ちる音がした。
さっきまで私が入っていた匣だった。
青白い霜に覆われて、沈黙している。
ただ――氷星の気配が、薄く、薄く残っていた。




