愛される少女
二度目となるドラマのオーディション会場で、天城玲奈は母と並んで順番を待っていた。今回受けるのは、現代の一般家庭を舞台にした家族ドラマに登場する小川ひなた役で、主人公一家の次女として物語の最初から最後まで何度も登場する役だった。
小川ひなた、六歳。元気でおしゃべりが好きで、家の中を走り回っては母親に叱られ、姉のお菓子を勝手に食べて喧嘩する。近所の公園で転べば大声で泣くくせに、友達が転んだときには自分の痛みを忘れて駆け寄るような、明るく人懐っこい少女である。
九条美月とは、何もかもが違っていた。
玲奈は膝の上に置いた台本を読みながら、ひなたという少女について考える。美月を演じたときには、自分の中に役を理解するための材料がいくらでもあった。幼いころから家の期待を背負い、礼儀作法や音楽を学び、大人たちに囲まれながら自分の感情を抑える少女。その生き方は、セレスティアだったころの自分とよく似ていた。
けれど、ひなたは違う。嬉しければ笑い、悲しければ泣き、嫌なことがあれば頬を膨らませる。母親に叱られれば反省するものの、いつまでも落ち込んではいない。初めて会った相手ともすぐ仲良くなり、多少の失敗なら最後には笑って許されてしまう。
玲奈自身には、あまりない性質だった。
前世のセレスティアにもない。
だから最初は、自分から遠い役なのだと思っていた。しかし台本を何度も読み返し、ひなたが家族や友人と話している場面を追っているうちに、玲奈はある少女を思い出していた。
天真爛漫で、人懐っこい笑顔を浮かべ、身分の高い相手にも物怖じせず話しかける。失敗すれば申し訳なさそうに眉を下げるのに、許された次の瞬間には嬉しそうに笑う。いつの間にか相手との距離を縮め、周囲の人間から自然と可愛がられていた少女。
――リリア。
前世で自分を陥れ、最後には処刑台まで追いやった少女だった。
玲奈は台本へ向けていた視線をわずかに細めた。彼女がしたことを許したわけではないし、今さら美しい思い出へ変えるつもりもない。それでも、リリアが人から好かれることに長けていたのは紛れもない事実だった。
彼女は、自分が他人からどう見えるのかを驚くほどよく理解していた。
嬉しいときには身体全体で喜び、困ったときには少し眉を下げる。誰かに助けてもらえば相手の目を見て礼を言い、失敗したときには長々と言い訳するより先に謝る。そして相手が許してくれれば、いつまでも申し訳なさそうな顔を続けることなく、今度は心から安心したように笑ってみせる。
その笑顔を向けられれば、許した側まで良いことをしたような気分になる。
セレスティアだったころの玲奈は、それをリリア自身の性格なのだと思っていた。もちろん生来の性質もあったのだろうが、最後にすべてを明かされた今なら、彼女が自分の表情や声、仕草をかなり意識して使っていたことも理解できる。
正しいことと、正しく見えることは違う。
リリアはそれを知っていた。
玲奈は再び台本へ視線を落とし、ひなたの台詞を読み返した。
小川ひなたはリリアではない。誰かを陥れようともしていないし、周囲を操ろうともしていない。ただ、生まれつき人との距離を縮めることが得意で、家族からたっぷり愛されて育った明るい少女である。
それでも、表向きのリリアは参考になる。
嫌いな相手から学んではいけないという決まりなどない。
前世の自分なら、そんな考え方はしなかったかもしれない。けれど今の玲奈にとって、演技は誰かから命じられた義務ではなく、自分からやりたいと望んで始めたものだった。ならば自分が見てきたものも、学んだことも、失敗した記憶さえも、使えるものなら使えばいい。
「玲奈、そろそろ呼ばれそうよ。台本はもう大丈夫?」
母から声をかけられ、玲奈は意識を現代へ戻した。台本を閉じながら「うん。たぶん大丈夫」と答えると、母は緊張していないかと心配そうに尋ねてくる。
「少しは緊張してるよ。でも、美月とは全然違うから楽しみ」
「楽しめるなら大丈夫そうね。結果は気にしすぎないで、玲奈がやりたいようにやってきなさい」
「うん。行ってくるね」
ちょうどスタッフから名前を呼ばれ、玲奈は母へ小さく手を振ってから審査室へ入った。
室内には五人ほどの大人が座っていた。そのうち一人は玲奈のプロフィールを確認しながら、先日放送された九条美月の幼少期を見たと教えてくれる。
「天城玲奈です。六歳です。本日はよろしくお願いします」
玲奈は自然に背筋を伸ばし、相手を見てから丁寧に頭を下げた。その姿を見た審査員の一人が、隣に座っている人物と小さく視線を交わす。
「やっぱり落ち着いてるね。九条美月のときは、その雰囲気が役にすごく合ってた。でも今日のひなたは、美月とはかなり違う子だよ。その辺りはどう考えてる?」
「違うからやってみたいと思いました。美月と同じように演じたら、ひなたにはならないと思うので」
「なるほど。じゃあ、その違うところを見せてもらおうか」
今回の相手役は、スタッフの女性が担当することになった。指定された場面は、ひなたが姉のために残してあったプリンを勝手に食べ、それが本人に見つかってしまうという日常的な場面である。
玲奈は指定された立ち位置へ移動し、演技開始の合図を待った。
「ひなた! ちょっとこっち来て!」
姉役の女性から名前を呼ばれた瞬間、玲奈の肩が小さく跳ねた。恐る恐る振り返ると、何も知らないような顔を作りながら相手へ近づいていく。
「な、なに?」
「冷蔵庫にあったプリン知らない?」
「プリン? ……どのプリン?」
「私が名前を書いて残してたやつ!」
玲奈は一度だけ視線を横へ逸らした。それから何も知らない顔を作ろうとしたものの、隠し事が得意ではない六歳児らしく、口元がわずかに引きつってしまう。
「知らない?」
「……知ってるかもしれない」
「食べたでしょ!」
「半分しか食べてないよ?」
「全部なくなってる!」
玲奈は困ったように眉を下げると、両手を身体の前で合わせた。
「最初は半分だったの。でも半分食べたらおいしかったから、残りの半分も食べちゃったの」
「それを全部食べたって言うの!」
「……そうなの?」
「そうなの!」
玲奈は初めて知ったように目を丸くしたあと、姉の表情をそっと窺った。言葉では怒っていても、本当にどれほど怒っているのかを確かめようとするような仕草だった。
「お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってるよ!」
「すっごく?」
「すっごく怒ってる!」
「そっかぁ……ごめんなさい」
そこで玲奈は素直に頭を下げた。しかし、姉がまだ怒っていることに気づくと、少し考えてから一歩だけ近づく。
「今度、私のアイス半分あげるから。それで仲直りしよ?」
「なんで半分なの? 私のプリンは全部食べたでしょ!」
姉役の女性が予定より強い口調で返した。
玲奈は驚いたように目を丸くしたあと、本気で悩むように少し首を傾げる。
「……じゃあ、いっぱいの方あげる」
審査員席から小さな笑い声が漏れた。
それでも玲奈は審査員を見ない。今の自分にとって大切なのは、目の前で怒っている姉だった。
「本当にくれるの?」
「うん。いっぱいの方あげる。だから、ごめんなさい」
今度は誤魔化さず、相手の目を見て謝る。
姉役の女性が少しだけ表情を緩めた。
「もう勝手に食べない?」
「食べない。ちゃんと名前が書いてあったら食べないよ」
「書いてなくても、人のものは勝手に食べないの!」
玲奈は一瞬だけ考え、それから何かを理解したように大きく頷いた。
「そっか! じゃあ今度から聞いてから食べる!」
審査員たちから、今度ははっきりと笑い声が上がった。
「はい、そこまで。ありがとう」
演技終了の声がかかり、玲奈は小さく息を吐いた。肩から余計な力を抜き、先ほどまでとは違う落ち着いた姿勢に戻ってから「ありがとうございました」と頭を下げる。
審査員席が少しだけ静かになった。
「……ずいぶん変わるね。九条美月を見たあとだから、もっと大人しい芝居をする子なのかと思ってたよ」
「ひなたは大人しくないと思ったので、美月とは違うようにしました」
「こういう役を演じたことは?」
「ありません。ドラマに出たのは美月が初めてなので、ひなたが二人目です」
審査員たちは改めてプロフィールへ目を落とした。出演歴の欄には、本当に九条美月の幼少期役しか記載されていない。
「じゃあ、今のひなたはどうやって考えたの?」
玲奈は少しだけ考えた。
リリアのことを話す必要はない。
「失敗しても、あんまり嫌われない子だと思いました。勝手にプリンを食べるのは悪いことだけど、ひなたはお姉ちゃんを困らせようとして食べたわけじゃないと思ったので、最初は怒られない方法を探すかなって」
「だから半分しか食べてないって言い訳したんだ?」
「はい。でも、お姉ちゃんが本当に怒ってるって分かったら、ちゃんと謝ると思います。ひなたは悪いことをしたくない子じゃなくて、楽しいこととか欲しいものを先に考えちゃう子なのかなって思いました」
玲奈の答えを聞き、何人かの審査員が資料へ書き込みを加えた。
玲奈はその様子を眺めながら、前世のリリアを思い出していた。
リリアは相手の感情を見ることが上手かった。どこまでなら許されるのか、いつ謝るべきなのか、どの瞬間に笑えば相手との距離が縮まるのか。それを考えていたことさえ周囲へ悟らせず、まるで生まれつきそういう少女であるかのように振る舞っていた。
その技術だけを借りた。
リリアそのものを演じているわけではない。
ひなたという少女を作るための材料の一つにしただけだった。
「天城さん、もう一つお願いしていいかな。今度は台本にない場面をやってもらいたい」
「はい」
「ショッピングモールでお母さんとはぐれたことにしよう。最初は一人でも平気だと思ってる。でも、だんだん怖くなってくる。ひなたならどうすると思う?」
玲奈はすぐには答えず、少しだけ時間をもらった。
ひなたなら、最初から泣き叫ぶだろうか。
おそらく違う。
母親がいなくなったことに気づいても、最初は自分なら大丈夫だと思う気がする。それどころか、自分が迷子になったのではなく、母親の方がどこかへ行ってしまったと考えるかもしれない。
「やってみます」
玲奈が準備できたことを伝えると、演技開始の合図が出た。
玲奈は周囲を見回しながら、最初は普段通りの足取りで歩いた。右を見て、少し進んでから左を見る。母親の姿が見つからなくても、まだ表情には余裕が残っている。
「お母さん? どこ行ったの?」
返事がない。
玲奈は少し先まで歩き、もう一度周囲を見る。
「お母さーん? もう、勝手にいなくなっちゃ駄目なのに」
まるで迷子になったのは母親の方だと言わんばかりだった。
しかし、いくら探しても見つからない。
歩く速度が少しずつ遅くなる。
先ほどまでは大きく動いていた視線も、次第に落ち着かなくなっていく。
「……お母さん?」
今度の声は少し小さかった。
玲奈は唇を結び、もう一度歩き出そうとする。しかし数歩進んだところで足を止め、誰もいない場所で自分自身へ言い聞かせるように口を開いた。
「別に怖くないもん。ひなた、一人でも大丈夫だもん」
強がるように胸を張る。
それでも目元には少しずつ涙が溜まり、何度瞬きをしても消えてくれない。玲奈は袖で目元を拭うような仕草をすると、最後には先ほどまでの元気な声を維持できなくなった。
「だから……早く来てよぉ……」
「はい、そこまで。ありがとう」
演技終了の声がかかると、玲奈は一度大きく瞬きをした。それから息を整え、審査員へ向き直って丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございました」
審査員たちはすぐには次の質問をしなかった。何人かが手元の資料へ書き込み、監督らしい男性は玲奈を見ながら何かを考えている。
「今日はこれで大丈夫です。二つとも面白かったよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
玲奈は最後にもう一度頭を下げ、審査室を出た。
廊下では母が待っていた。
「お疲れさま。どうだった?」
「楽しかったよ。台本にない演技もやった」
「難しくなかった?」
「ちょっと考えたけど、ひなたならどうするかなって考えるのが面白かった。受かったかどうかは分からないけど、やりたいことはできたと思う」
玲奈が満足そうに話しているのを見て、母も安心したように笑った。
帰り道、玲奈は電車の窓から流れていく景色を眺めながら、先ほど演じたひなたについて考えていた。
リリアを真似して演技をする日が来るとは、セレスティアだったころには想像もしなかった。
不思議な気分ではある。
けれど、不快ではなかった。
彼女にされたことを忘れる必要はないし、許す必要もない。それでも、リリアが持っていた才能まで否定する必要はないのだと、今の玲奈は思える。
人を観察する力も、人との距離を縮める技術も、誰かから愛される振る舞いも、間違いなくリリア自身が持っていたものだった。
そして今、その記憶さえ自分のために使っている。
前世では、自分の持っているものを誰かのために使うことばかり考えていた。それなのに今世では、自分を破滅させた相手から得た記憶まで、自分がやりたいことのために使っている。
玲奈はその違いを少しだけ可笑しく感じた。
三日後、学校から帰宅した玲奈が自室へランドセルを置いたところで、母からリビングへ呼ばれた。降りてみると、母がスマートフォンを持ったまま嬉しそうな顔をしている。
「玲奈、佐伯さんから電話よ。この前のオーディションのことで、玲奈に直接話したいって」
「結果が出たの?」
「それは自分で聞きなさい。はい」
玲奈は母からスマートフォンを受け取ると、少しだけ緊張しながら耳へ当てた。
「もしもし、天城玲奈です」
『玲奈ちゃん、お疲れさま。学校から帰ったところだった?』
「はい。今帰ってきました」
『じゃあ手短に伝えるね。この前受けた小川ひなた役なんだけど、玲奈ちゃんに決まりました。監督から、ぜひお願いしたいって連絡が来たわ』
「本当ですか? ありがとうございます!」
思わず声が大きくなった。
母が玲奈の表情だけで結果を察し、向かい側で嬉しそうに笑っている。
『それと、監督から伝言も預かってるの。九条美月を見ていたから、もっと大人しくて落ち着いた演技をする子だと思っていた。でも、いい意味で完全に予想を裏切られたって』
「ちゃんとひなたに見えたってことですか?」
『そういうことだと思う。今回は美月よりずっと出番が多いから、撮影期間も長くなるわ。学校との調整も必要になるし、詳しい話はご両親も一緒に事務所で説明するね』
「はい。頑張ります」
電話を終えて母へスマートフォンを返すと、改めて合格したことを伝えた。母は「おめでとう」と玲奈の頭を撫で、それから今度はどんな役なのかと尋ねる。
「美月とは全然違うよ。すごく元気で、おしゃべりで、お姉ちゃんのプリンを勝手に食べて怒られるような子」
「玲奈とは結構違うわね。家の中を走り回る玲奈なんて、あんまり想像できないもの」
「だから面白いんだよ。美月と同じだったら、別の役をやる意味がないもん」
「それもそうね。でも、本当に家でプリンを勝手に食べる練習はしないでよ?」
「それはしないよ。お母さん絶対怒るでしょ」
「もちろん怒ります」
二人は顔を見合わせて笑った。
九条美月とはまったく違う、小川ひなた。
上品で落ち着いた財閥令嬢の次は、笑って、怒って、泣いて、家族へ甘えながら毎日を駆け回る普通の少女になる。
まだ二つ目の役にすぎない。
それでも玲奈は、一人の人物を演じ終えるたびに、次はもっと違う誰かになってみたいと思うようになっていた。
そして今回、そのために使ったものは、前世で自分を破滅させた少女の記憶だった。
かつてセレスティアを追い詰めるために使われたリリアの愛嬌を、今度は天城玲奈が自分の夢のために使う。
そんな未来が待っているとは、処刑台へ向かったあの日の自分には想像すらできなかっただろう。




