小川ひなたになる
小川ひなた役のオーディションに合格してから約三週間後、天城玲奈は母と一緒に新しい撮影現場を訪れていた。
前回出演した作品では、巨大財閥の令嬢である九条美月の幼少期を演じたため、撮影場所も豪華な邸宅や大きなパーティー会場が中心だった。しかし今回の舞台は、ごく普通の四人家族が暮らす一軒家である。
玄関を入れば少し狭い廊下があり、その先には家族全員が集まるリビングとダイニングがある。冷蔵庫には学校から配られたプリントが磁石で貼られ、棚には家族写真が並び、ソファには子供が使う小さなクッションまで置かれていた。
「本当に誰かが住んでそう……」
玲奈がセットを眺めながら呟くと、隣にいた佐伯が笑った。
「そう思ってもらえるように作ってるんだから、スタッフさんが聞いたら喜ぶわよ。今日からここがひなたちゃんのお家になるんだから、撮影が始まる前にいろいろ見ておいたら?」
「見てもいいんですか?」
「もちろん。ただし、小道具を勝手に動かしちゃ駄目よ」
玲奈は佐伯から許可をもらうと、撮影の邪魔にならない範囲でセットの中を見て回った。
小川家には父と母、十歳の長女である美咲、そして六歳の次女ひなたが暮らしている。棚には家族旅行の写真があり、冷蔵庫にはひなたが描いたことになっている絵が貼られ、リビングの隅には姉妹が共有している玩具箱まで用意されていた。
九条美月のときとは違う。
あの家では、美月のために用意されたものにも一定の秩序があった。物は決められた場所に置かれ、生活感よりも九条家という巨大な家の品格が優先されているように見えた。
しかし小川家では、生活した痕跡そのものがセットの一部になっている。
玲奈はソファの近くに置かれている小さな籠を見つけた。中には色鉛筆や折り紙が雑多に入っており、その隣にはひなたのものらしい子供向けの絵本が数冊重ねられている。
「ひなたって、ここでよく遊んでるのかな」
誰かに尋ねたわけではなく、自然とそんな言葉が出た。
「よく気づいたね」
背後から声をかけられ、玲奈は振り返った。
そこにいたのは、この作品を担当する監督だった。オーディション以来の再会になる。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。今の籠は美術さんが、ひなたならリビングで遊んだものを毎回きっちり自分の部屋へ戻したりしないだろうって置いてくれたんだよ」
「やっぱり、ひなたのなんですね」
「そう。せっかくだから撮影前に家の中を見ておくといいよ。台本に書いてないものも、役を考える材料になるから」
「はい。ありがとうございます」
玲奈は頭を下げると、もう一度セットを見回した。
知らないものを見る。
そこから、その人がどう暮らしているのかを考える。
それは演技を始める前からできることらしい。
九条美月の撮影では、自分の前世と似ている部分を探すことから役を理解した。しかし今回は、自分とは違う小川ひなたが普段どんな生活をしているのかを、周囲にあるものから少しずつ組み立てていく。
玲奈はそれが面白かった。
撮影開始前には、家族役の出演者との顔合わせも行われた。
母親役は三十代の女優である高瀬真紀、父親役は俳優の木村修一。そして姉の美咲を演じるのは、十歳の子役である藤崎菜々だった。
菜々は玲奈より四歳年上で、すでに何本ものドラマや映画に出演している。子役としては玲奈よりずっと先輩だった。
「藤崎菜々です。よろしくね」
「天城玲奈です。よろしくお願いします」
玲奈が丁寧に頭を下げると、菜々も同じように頭を下げた。
「玲奈ちゃんの九条美月、見たよ」
「本当ですか?」
「うん。だから最初、ひなた役って聞いてびっくりした。美月と全然違うじゃん」
「私もそう思いました。だからやってみたかったんです」
「へえ。なんか面白いね」
菜々はそう言って笑った。
玲奈はその笑顔を見ながら、少し安心した。今回は姉妹として一緒にいる場面が多いため、相手役と話しやすい方が演技もしやすそうだった。
最初に撮影するのは、小川家の朝食場面だった。
特別な事件は何も起こらない。
母親が朝食を作り、父親が新聞を読み、美咲が学校の準備を確認している。その横で、ひなたが自分の嫌いなピーマンをどうにかして残そうとするだけの場面である。
撮影前、監督から簡単な説明を受けた。
「ひなたはピーマンが嫌い。でも、お母さんから残しちゃ駄目って言われてる。だから何とか自分が食べないで済む方法を考えてるところから始めよう」
「お母さんに嫌いって言わないんですか?」
「言ってもいいよ。でも、いつも言ってるから、お母さんはもう知ってると思う」
「分かりました」
玲奈は自分の席へ座った。
テーブルの上には朝食が並んでいる。撮影用ではあるが実際に食べられるようになっており、玲奈の皿には小さく切られたピーマンが入っていた。
演技開始の合図が出る。
玲奈は最初に卵を食べた。
次にウインナーへ箸を伸ばす。
ピーマンには触らない。
さらに別のおかずを食べてから、残っているピーマンを見つめた。
「ひなた、ピーマンも食べなさいよ」
母親役の真紀から声をかけられ、玲奈は箸を止めた。
「今から食べようと思ってたよ?」
「じゃあ食べなさい」
「でもね、お母さん。ひなた、昨日ピーマン食べた気がする」
「昨日の夕飯にピーマンは出してません」
「一昨日かも」
「一昨日も出してません」
玲奈は少し考えた。
そして隣に座っている菜々の皿を見る。
「お姉ちゃん、ピーマン好き?」
「普通だけど?」
「じゃあ、あげる」
「いらない」
「遠慮しなくていいよ?」
「遠慮してないから自分で食べなさい」
玲奈は困ったようにピーマンを見つめた。
ここで、前世の記憶にいるリリアならどうするかを考える。
無理に押しつけるより、相手が自分から受け取ってくれる理由を作る。
けれど、ひなたは六歳だ。
そこまで上手く計算してはいけない。
玲奈はピーマンを一つ箸で持ち上げ、姉の皿へ近づけながら笑った。
「一個食べたら、今日お姉ちゃんにいいことあるかも」
「何があるの?」
「分かんない」
「分かんないの!?」
「でも、あるかもしれないよ?」
菜々が思わず笑いそうになり、それを姉の呆れた笑顔へ変える。
「ないよ。早く食べなさい」
「はーい……」
玲奈は諦めたようにピーマンを口へ入れた。
噛んだ瞬間、眉が下がる。
それでも飲み込む。
「食べた!」
「一個だけでしょ。まだあるわよ」
「一個食べたのに!?」
心底信じられないという顔をしたところで、父親役の木村が笑い出す。
「ひなた、一個食べたくらいで偉そうにするな」
「だってピーマンだよ?」
「ピーマンだな」
「お父さん、ひなたの味方じゃないの?」
「ピーマンに関してはお母さんの味方だ」
玲奈は裏切られたような顔で父親を見る。
それから最後の希望を求めるように姉へ向いたが、菜々も笑いながら首を横へ振った。
「お姉ちゃんもお母さんの味方」
「みんなずるい!」
「はい、カット!」
監督の声がかかり、玲奈は表情を戻した。
周囲から小さな笑い声が聞こえる。
「玲奈ちゃん、今のいいね。ただ、途中からちょっと頭が良すぎるかな」
監督から言われ、玲奈はすぐにそちらを向いた。
「頭が良すぎますか?」
「お姉ちゃんにピーマンを食べさせようとするとき、相手の反応を見ながら方法を変えてたでしょ。ひなたもそういうことはすると思うけど、もっと勢いで動いていいと思う。失敗してから考える子だから」
玲奈は監督の言葉を頭の中で繰り返した。
確かに、今の演技にはリリアを参考にしすぎた部分があった。
リリアは人の反応を見て、自分の次の行動を選ぶ。
けれど小川ひなたは違う。
この少女は先に動く。
それから失敗する。
失敗したあとで、どうしようと考える。
「分かりました。もう一回やってみたいです」
「もちろん。そのための撮影だからね」
二回目が始まった。
玲奈は先ほどと同じように、最初はピーマン以外のおかずを食べる。しかし母親から注意されたあと、今度は長く考えない。
「お姉ちゃん、あーん」
「なんで?」
「いいから、あーん!」
菜々が怪しみながら口を開ける。
玲奈はすぐにピーマンを入れようとした。
「ちょっと! ピーマンでしょ!」
見つかる。
玲奈は箸を止めたまま固まった。
「……違うよ?」
「見えてるから!」
「じゃあ、一個だけ!」
「嫌だよ!」
玲奈は引っ込めたピーマンを見つめ、それから母親を見る。逃げ道はないと悟ったように肩を落とすと、覚悟を決めて自分の口へ入れた。
苦い。
嫌だ。
そんな顔を隠さず、必死に噛む。
飲み込んだ瞬間、玲奈は勢いよく水を飲んだ。
「食べた! もういい?」
「まだ二つ残ってます」
「なんで三つも入れたの!?」
「六歳なんだから三つくらい食べなさい」
「六歳とピーマンの数は関係ないよ!」
家族役の三人が笑う。
今度の笑いは台本に書かれたものではなかった。
それでも監督は止めない。
「じゃあ七歳になったら四つだな」
父親役の木村が言う。
玲奈は目を見開いた。
「じゃあ、ひなた六歳のままでいい!」
「学校はどうするの?」
菜々がすぐに返す。
「……学校は二年生になる」
「それ七歳になるでしょ」
「じゃあ、ピーマンだけ六歳!」
再び家族が笑った。
玲奈自身も、ひなたとして笑う。
「カット! 今のいいね。後半のやり取りも残せそうだ」
監督の声がかかると、玲奈は椅子へ座ったまま小さく息を吐いた。
「さっきより、ひなたでしたか?」
「うん。ずっとひなたらしくなった。玲奈ちゃんは相手を見るのが上手いけど、それを全部の役で同じように使う必要はないんだよ」
監督は玲奈にも分かるよう、ゆっくり説明してくれた。
「美月は周りをよく見て、自分がどう振る舞うべきか考える子だった。今回のひなたは、自分がやりたいと思ったら先に身体が動く。役が違えば、同じ玲奈ちゃんでも考える順番を変えた方がいい」
「考える順番……」
「そう。玲奈ちゃんは役について考えるのが好きみたいだから、その子が何を考えるかだけじゃなく、いつ考えるのかも考えてみると面白いかもしれないね」
「はい。やってみます」
玲奈は素直に頷いた。
その日の撮影は、玲奈にとって大きな発見になった。
リリアを参考にすれば、愛嬌のある少女らしい表情や、人との距離を縮める振る舞いを作ることはできる。しかし小川ひなたはリリアではない。
参考にすることと、真似し続けることは違う。
その人物自身の考え方を見つけなければ、どれほど上手に誰かを真似ても、別の誰かを演じているだけになってしまう。
午後には姉妹だけの場面が撮影された。
美咲が学校の宿題をしている横で、ひなたが退屈そうに遊んでいる場面だった。台本では、ひなたが何度も姉へ話しかけて邪魔をし、最後には怒られてしまう。
玲奈は床に座り、折り紙を始めた。
最初は一人で遊ぶ。
しばらくすると、菜々が演じる美咲を見る。
また折り紙へ戻る。
十秒ほど我慢する。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「何してるの?」
「宿題」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでよ」
「何の宿題?」
「算数」
「ひなたもできる?」
「できないと思う」
「やってみたい」
「駄目。自分の折り紙やってて」
「はーい」
玲奈は素直に折り紙へ戻った。
しかし、しばらくすると再び姉を見る。
今度は声をかけない。
折り紙で作ったものを机の端から少しずつ近づけていく。
菜々は気づかないふりをして宿題を続ける。
玲奈はさらに近づける。
ついにはノートの上へ折り紙の犬を置いた。
「ひなた!」
「わん!」
「邪魔!」
「この子がお姉ちゃんと遊びたいって」
「私は宿題してるの!」
「ちょっとだけ?」
「駄目!」
強く言われ、玲奈は折り紙の犬を持ったまま動きを止めた。
先ほどまでの笑顔が消える。
けれど、すぐには泣かない。
「……分かった」
玲奈は犬を持って元の場所へ戻った。
今度は姉を見ない。
一人で折り紙を触る。
菜々が宿題を続ける。
数秒経ったところで、菜々が鉛筆を置いた。
「ひなた」
玲奈は返事をしない。
「それ、何作ったの?」
「……犬」
「見せて」
「宿題は?」
「ちょっと休憩」
玲奈はゆっくり顔を上げた。
「遊ぶ?」
「五分だけね」
その瞬間、玲奈の表情が一気に明るくなった。
「うん!」
玲奈は折り紙を持って姉のところへ駆け寄った。
その笑顔を見た菜々も自然に笑う。
「カット! オーケー!」
監督から声がかかる。
玲奈は折り紙を持ったまま菜々を見ると、今の場面について気になったことを尋ねた。
「最後、もっと喜んだ方がよかったですか?」
「今くらいでいいよ。ひなたはお姉ちゃんが好きなんだなってちゃんと分かったから」
監督はそう答えたあと、少し考えて言葉を続けた。
「朝よりずっと自然になったね」
「ひなたは、考える前に動くって分かったからかもしれません」
「もう使ってるのか。覚えるの早いなあ」
監督が笑った。
玲奈も嬉しくなって笑う。
朝の撮影では、リリアを参考にしていた。
けれど今の場面で演じた少女は、もうリリアとはかなり違う。
相手の気持ちを読み、最適な言葉を選んで距離を縮めるリリアではない。
遊びたいから邪魔をする。
怒られれば落ち込む。
姉から声をかけてもらえば、それまで拗ねていたことなど忘れたように喜ぶ。
それが小川ひなたなのだと、玲奈にも少しずつ分かってきた。
撮影終了後、玲奈が着替えている間、監督は別室でその日の映像を確認していた。
隣には母親役の高瀬真紀と、父親役の木村修一もいる。
「九条美月を見たときとは、印象が全然違いますね」
真紀がモニターを見ながら言った。
「俺も最初は、礼儀正しいお嬢さん役が得意な子なのかと思ってましたよ。普段の本人も落ち着いてるし」
木村が答える。
監督は朝と午後の映像を続けて確認してから、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「最初から完成してるわけじゃないんですよ。朝の一回目なんか、明らかにひなたにしては考えすぎてた。でも一回説明したら、二回目には変えてきた」
「六歳ですよね?」
「六歳。そこが一番面白いんです」
監督はモニターの中で笑っている玲奈を見た。
「できることが多い子役はいるし、感覚で上手い子もいる。でもこの子は、言われたことを自分なりに理解して、次の芝居に持ってくる。まだ二作目なのに、もう役ごとに考え方を変えようとしてる」
本人のいない場所でそんな評価をされているとは知らず、玲奈は着替えを終えると母と一緒に帰宅した。
電車では今日撮影した場面を思い返していた。
リリアの真似から始めた小川ひなた。
それでも一日演じただけで、玲奈の中には少しずつリリアとは違う少女の姿ができ始めている。
演技とは、誰かの表情や仕草を上手に真似することだけではないらしい。
その人物が何を好きで、何を嫌い、どんなときに笑い、何をされたら怒るのか。さらに何かが起きたとき、考えてから動くのか、それとも動いてから考えるのか。そうしたものを一つずつ積み重ねていけば、自分とはまったく違う人間にもなれるのかもしれない。
それは、玲奈が想像していた以上に面白かった。
九条美月を演じたことで始まった女優としての人生は、まだ二つ目の役に入ったばかりだった。
それでも天城玲奈は少しずつ、自分が持っている才能を披露するだけではなく、新しいものを学び、それを自分の力へ変えていく楽しさを知り始めていた。




