六歳の財閥令嬢
天城玲奈にとって初めての撮影は、朝食の場面を撮り終えたところで一区切りとなった。しかし、その日の仕事が終わったわけではなく、昼休憩を挟んだ午後には、九条美月が自宅でピアノを練習している場面の撮影が予定されていた。
もともと制作側は、幼い美月がピアノを弾く姿を正面から撮影し、鍵盤を弾く手元については別の演奏者に任せるつもりだった。ところがオーディション当日、玲奈が実際にピアノを弾けると分かったため、撮影方法そのものが少し変更されている。
「最初は手元だけ別の人にお願いする予定だったんだけど、玲奈ちゃんが弾けるなら、できるところまでは本人で撮ってみようってことになったんだ。ただ、難しいところまで無理して弾く必要はないからね」
監督から説明され、玲奈は渡された楽譜へ目を落とした。オーディションで披露した曲より難しく、現代でこの曲を弾いた経験もない。それでも楽譜を追ってみると、まったく手が出ないほど難しい曲には思えなかった。
「今日の撮影では、この曲を弾くんですよね? 少し練習する時間をもらってもいいですか?」
「もちろん。撮影まではまだ時間があるから、音楽の先生に教えてもらおう。ただ、今日初めて見る曲なんだから、全部弾こうとしなくても大丈夫だよ」
監督は念を押したが、玲奈は最初から無理をするつもりなどなかった。できるところまで覚え、それ以上が難しければ素直に任せればいい。自分が選んだ仕事だからこそ、できないことまでできるふりをする必要はないと思っていた。
撮影用のピアノへ向かうと、音楽指導を担当する女性がすでに待っていた。玲奈は隣へ座り、まずは先生が弾く姿を見る。音だけではなく指の動きまで確認していると、女性が楽譜の一部分を指差した。
「今日は全部覚えなくていいからね。最初の部分を本人が弾けるだけでも、映像としてはずっと自然になるの。まず右手だけ、一緒にやってみましょう」
「はい。ここからここまでですね?」
玲奈は指定された範囲を確認すると、ゆっくり鍵盤へ指を置いた。最初は途中で一度止まり、次は間違えた場所を確認してからもう一度弾く。三回目には右手だけなら最後まで止まらなくなり、先生から左手も入れてみようと言われた。
前世のセレスティアも音楽教育を受けていたが、使っていた楽器や教育方法まで現代と完全に同じだったわけではない。それでも、教師の手本を観察して自分の指で再現し、間違えた部分を繰り返して覚えるという基本的な学び方に大きな違いはなかった。
「左手はここから入るの。最初はゆっくりでいいから、右手と合わせてみて」
「はい。先生、もう一回だけそこを見せてもらってもいいですか?」
「もちろんよ。ここをこうして、それから次の音へ移るの」
玲奈は先生の指先を見つめたあと、自分でも同じ動きを試した。一度目は途中で指が追いつかず、二度目は最後の少し手前で間違えた。それでも間違えた箇所だけを何度か繰り返すと、今度は両手で最初から弾き直していく。
二十分ほど経つころには、撮影で必要とされる部分を最後まで止まらず弾けるようになっていた。専門的な教育を受けている子供ほど指使いが洗練されているわけではなく、テンポもわずかに不安定だったが、少なくとも手元を別人へ差し替えなければならない状態ではない。
「玲奈ちゃん、本当にこの曲を弾くのは今日が初めてなの?」
「はい。初めてです。先生の手を見ながらやると、楽譜だけを見るより分かりやすかったです」
音楽指導の女性は何とも言えない顔になったが、玲奈にはその理由が分からなかった。前世でも知らない曲を渡されれば、教師の演奏を見て何度も練習して覚えていたので、自分では特別なことをしているつもりがない。
少し離れた場所では、その様子を監督と桐谷彩香が眺めていた。現在の九条美月を演じる彩香は、途中から玲奈の練習を見ていたらしく、最後まで弾き終えたところで隣にいる監督へ顔を向ける。
「オーディションのときも、あんな感じだったんですか?」
「いや、あのとき弾いたのは本人が知ってる曲だよ。今日の曲は、本当に今初めて渡した」
「まだ二十分くらいですよね。あの子、ピアノも本格的に習っていたんですか?」
「幼稚園で触ってた程度らしい。演技の先生からも覚えるのが妙に早いとは聞いてたけど、俺に聞かれても理由までは分からないよ」
玲奈は二人の会話には気づかず、先生から指摘された部分をもう一度確認していた。前世の経験が大きな助けになっていることは分かっているが、その事情を誰かに説明するつもりはない。今の玲奈にとって大切なのは、与えられた役を少しでも上手に演じることだった。
やがて準備が整い、午後の撮影が始まった。今回の場面では、美月が一人でピアノを練習しているところへ父親が帰宅する。幼い美月は父親に褒めてもらいたいと思っているが、自分から成果を誇るような性格ではないという設定だった。
玲奈は撮影開始の合図とともに演奏を始めた。途中で父親役の俳優が部屋へ入ってきてもすぐには振り返らず、与えられた課題を最後まで弾き終えてから椅子に座ったまま身体を向ける。
「お帰りなさいませ、お父様」
「今の曲は?」
「先生からいただいた課題です」
「そうか。夕食までには終わらせなさい」
父親はそれだけ言うと部屋から出ていった。美月は本当なら上手だったと褒めてほしかったはずだが、それを口には出さない。玲奈は閉じられた扉を数秒だけ見つめ、それからピアノへ向き直ると、先ほどより少しだけ強く最初の音を鳴らした。
「カット! 玲奈ちゃん、悪くないよ。ただ、最後だけ少し変えてみようか」
監督がモニターから顔を上げる。玲奈が椅子に座ったまま振り返ると、監督は怒りではなく別の感情を出してほしいと説明した。
「美月はお父さんに怒ってるわけじゃないんだ。むしろ、お父さんの期待に応えたいと思っている。だから褒めてもらえなかったら、自分がもっと上手になればいいって考えるような子なんじゃないかな」
「お父様が褒めてくれないのは、自分がまだ上手じゃないからだと思っているんですか?」
「そう。それで一回やってみよう」
玲奈は頷き、もう一度最初から撮影を始めた。同じ曲を弾き、同じ言葉を交わし、同じように父親が部屋から出ていく。ただし今度は扉が閉じたあと、鍵盤へ戻る前に自分の指を見つめた。
もっと上手になれば褒めてもらえるかもしれない。次の課題を完璧にできれば、今度は父親が笑ってくれるかもしれない。そんな少女の気持ちを想像すると、不思議なくらい自然に次の動きが決まった。
玲奈はもう一度鍵盤へ指を置いた。怒りをぶつけるように強く弾くのではなく、今までより丁寧に、一音も間違えないように最初から演奏を始める。
「カット! オーケー、今のでいこう」
監督の声が響き、玲奈は演技を解いてから頭を下げた。前世でも期待へ応えようと努力することは当たり前だったが、今はその経験を九条美月という別人を理解するために使っている。同じ経験でも、使い方が変わるだけでまったく違って感じられた。
それから数日後、今度は九条家が主催するパーティーの場面が撮影された。オーディションでも演じた場面だったが、実際の撮影は比較にならないほど大掛かりで、広いホールには何十人もの出演者が集まり、テーブルには料理まで並べられている。
玲奈もこの日は普段の美月より華やかなワンピースを着ていた。衣装担当者から苦しくないか、靴が痛くないかと何度も確認されたが、玲奈にとって問題だったのは苦しさより、普段着とは違う裾の長さだった。
「玲奈ちゃん、一度その衣装で歩いてみようか。裾を踏まないように気をつけてね」
「はい。少し歩幅を小さくした方がいいですよね?」
「そうね。無理に大人っぽく歩かなくてもいいから、転ばないことを優先して」
玲奈は指定された場所まで歩いてみた。大きく足を開かず、身体の軸を左右へ揺らさないように進む。前世ではこれよりずっと動きにくいドレスを何度も着ていたため、裾を気にしながら歩くこと自体に難しさは感じなかった。
「もう一回お願いしていい?」
「何か変でしたか?」
「いや、逆だよ。普通に歩けてるから確認したくなっただけ。そのままで大丈夫」
監督に言われ、玲奈は少し不思議そうにしながら元の位置へ戻った。自分にとって当たり前だったことが、この現場では必ずしも当たり前ではない。その違いには、撮影を始めてから何度も驚かされていた。
本番では父親役の俳優と一緒にホールへ入り、玲奈はその半歩後ろを歩いた。大勢の大人がいても周囲を落ち着きなく見回さず、それでいて近づいてくる人間には自然に視線を向ける。
「美月。こちらは東都銀行の長谷川頭取だ」
「九条美月と申します。いつも父がお世話になっております。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「これはこれは。随分しっかりしたお嬢さんですね」
「ありがとうございます」
玲奈は微笑んで頭を下げた。続いて紹介されたのは父親より年長で、九条家とも長い付き合いがある人物だったため、先ほどより少しだけ丁寧に礼をする。
その次に話しかけてきたのは、九条家と家族ぐるみで付き合いのある人物だった。玲奈は礼儀正しさを崩さないまま、今度は六歳らしい柔らかな笑顔を見せる。
台本には、相手ごとにお辞儀の深さや笑い方を変えろとは書かれていない。それでも玲奈にとっては、全員へまったく同じ態度を取る方が不自然だった。
撮影を重ねていくうちに、周囲の俳優たちにも変化が起き始めた。最初は六歳の新人子役へ分かりやすく台詞を返していた大人たちが、次第に本当に九条家の令嬢と話しているような芝居へ変わっていく。
「……面白いな。あの子が上手いのはオーディションで分かっていたけど、周りまで引っ張られてる」
モニターを確認していた監督が呟くと、隣にいた助監督も頷いた。玲奈自身はそんな変化に気づいておらず、目の前の相手がどう話しかけてくるのかを見ながら、美月ならどう返すのかを考えているだけだった。
やがて、オーディションでも演じた場面へ入った。庭から同年代の子供たちが遊ぶ声が聞こえ、玲奈は歩きながら一瞬だけそちらへ視線を向ける。
本当は自分も遊びたい。しかし、父親はまだ客への挨拶を続けている。美月にとっては、父親の期待へ応えることも同じくらい大切だった。
「美月、疲れたか?」
「いいえ、お父様。大丈夫です」
「そうか。無理をする必要はないぞ」
「ありがとうございます。でも、まだ皆様へのご挨拶が終わっておりませんから」
玲奈はそう言って微笑んだあと、自分から次の客へ視線を向けた。父親役の俳優は一瞬だけ玲奈を見つめ、それから台本には指定されていなかった小さな笑みを返す。
「そうか。では、もう少しだけ付き合ってもらおう」
「はい、お父様」
そのまま二人が次の人物へ歩き出したところで、監督からカットの声がかかった。玲奈はすぐに足を止め、撮影が終わったことを確認してから表情を戻した。
「今の最後、台本と少し違いましたけど大丈夫でしたか?」
「大丈夫。むしろ今の方がいい。お父さん役の反応も含めて使わせてもらうよ」
監督が答えると、父親役の俳優も玲奈のところへ歩いてきた。
「ごめんな。玲奈ちゃんがあまりにも自然に言うから、俺も勝手に少し変えちゃった」
「そうだったんですか? でも、お父様なら少し嬉しいかなと思ってました」
「俺もそう思った。だから笑いたくなったんだよ」
二人の会話を聞いていた周囲から笑い声が上がった。玲奈もようやく、自分の芝居に相手が合わせてくれたのだと理解して嬉しくなる。
その後も九条美月の幼少期としての撮影は数日続いた。父親と二人で食事をする場面、家庭教師から英語を教わる場面、一人で本を読む場面、そして父親に連れられて会社を訪れる短い場面まで、回想として使われる映像を順番に撮っていった。
玲奈は撮影のたびに、新しいことを覚えていった。カメラの位置によって身体の向きを変えることや、同じ場面を別の角度から撮影するときには前回の動きを再現することなど、前世の経験だけでは知りようのない技術がいくらでもあった。
当然、失敗することもある。カメラを意識しすぎて相手を見る角度が不自然になったこともあれば、前の撮影と本を持つ手が違って撮り直したこともあった。
それでも、一度注意された失敗を何度も繰り返すことはほとんどない。スタッフから前の撮影では右手で本を持っていたと指摘されれば、次のテイクでは持つ手だけでなく高さまで揃えてみせた。
「玲奈ちゃん、そこまで合わせなくても編集では何とかなるんだけど、よく覚えてたね」
「さっき撮った映像を見せてもらったので、同じ方がいいかなと思いました」
「六歳でそこまで考える子、あんまりいないんだけどなあ」
スタッフが苦笑しても、玲奈には比較する相手がいないので、自分がどの程度珍しいのか分からなかった。ただ、教えてもらったことを次に活かせるのが嬉しくて、撮影へ行くたびに知らないことが減っていくのが楽しかった。
そして数日後、九条美月の幼少期として予定されていた最後の撮影が終わった。
「天城玲奈ちゃん、幼少期パート撮影終了です。お疲れさまでした!」
スタッフから声をかけられ、周囲から拍手が起こる。玲奈は用意されていた小さな花束を両手で受け取ると、少し照れながらも全員へ頭を下げた。
「ありがとうございました。最初は知らないことばかりだったけど、皆さんにいっぱい教えてもらえて楽しかったです」
オーディションに合格したときとは違う嬉しさがあった。一つの役を最後まで演じ終えたのだと実感すると、まだ放送すら始まっていないのに胸の奥が温かくなる。
「玲奈ちゃん、またドラマをやりたい?」
「はい。今度は美月と全然違う子もやってみたいです。美月しかやったことがなかったら、他の子をどう演じるのか分からないから」
「もう次の役のことを考えてるのか。六歳なのに仕事熱心だなあ」
監督が笑うと、玲奈は少し首を傾げた。仕事だから次を考えたというより、単純に別の人物を演じてみたいと思っただけだった。
帰り道では、母が玲奈の花束を代わりに抱えていた。玲奈は自分でも持てると何度か主張したものの、満員電車で潰したら嫌でしょうと言われ、結局そのまま任せることになった。
「玲奈、本当に楽しかった?」
「うん。最初は演技だけすればいいと思ってたけど、カメラとか立つ場所とか、知らないことがいっぱいあった。またやりたい」
「それならよかった。でも、学校もちゃんと行くのよ?」
「分かってるよ。明日の宿題も終わってるもん」
「そこは本当に手がかからないのよねえ」
母が笑い、玲奈も一緒に笑った。初めての仕事を終えても、明日になればいつものように学校へ行く。それも玲奈にとっては大切な今世の生活だった。
一方、玲奈が知らないところでは、小さな変化がすでに始まっていた。
撮影終了から数日後、事務所の会議室では佐伯が玲奈のプロフィール資料を確認していた。九条美月の幼少期役はまだ放送前なので、一般には天城玲奈という名前すらほとんど知られていない。
それにもかかわらず、佐伯のもとにはすでに二件の問い合わせが届いていた。どちらも今回のドラマに参加したスタッフから玲奈の評判を聞いた制作関係者で、次回作の候補としてプロフィールを確認したいというものだった。
「まだ一本目なんだけどなあ。放送前から次の話が来るなんて、さすがに予想してなかったわ」
佐伯はそう呟きながらも、口元には笑みが浮かんでいた。今回のオーディションを紹介したときは、経験になれば十分だと思っていたし、難しい役だから落ちても気にする必要はないと本人にも伝えている。
ところが実際には、その日のうちに役を掴み、初めての撮影でも監督や共演者から高い評価を受けた。最初から何でも知っているわけではないのに、一度教えれば次には修正してくる。その吸収速度こそ、佐伯が最も気になっている部分だった。
「今でこれなら、一年後はどうなってるんだろうね」
独り言を漏らしたところで、机の上のスマートフォンが鳴った。表示されているのは、別のドラマ制作会社の担当者だった。
「はい、佐伯です。いつもお世話になっております」
電話へ出て話を聞いていると、やがて聞き覚えのある名前が相手の口から出てくる。佐伯は目の前に置かれていた玲奈のプロフィールへ視線を落とした。
「天城玲奈ですか? はい、うちの所属です。まだ六歳で、今回が初出演になりますが……はい、資料でしたらすぐにお送りします」
電話を終えた佐伯は、しばらく玲奈のプロフィールを眺めていた。
まだ世間の誰も、彼女を天才子役などとは呼んでいない。それどころか、天城玲奈という名前そのものを知っている視聴者もほとんど存在しない。
それでもテレビの向こう側では、六歳の新人子役の名前が、少しずつ制作現場の間を行き交い始めていた。
そして数週間後、天城家のリビングでは玲奈が両親に挟まれ、テレビの前へ座っていた。画面には間もなく始まる連続ドラマのタイトルが大きく映し出されている。
「なんか、お母さんの方が緊張してきた」
「私も少し緊張してるよ。撮影したときと、テレビで見るのは違うもん」
「お父さんは録画もしたぞ。玲奈の初ドラマだからな」
「失敗したところは使われてないと思うよ?」
「そういう意味で録画するんじゃないよ」
三人で笑っているうちに、画面が切り替わった。
天城玲奈が女優として初めて演じた九条美月が、いよいよ全国の視聴者の前に姿を現そうとしていた。




