初めての撮影
九条美月の幼少期役に決まってから二週間後、天城玲奈は母と一緒に、初めてドラマの撮影現場を訪れていた。
オーディションでテレビ局へ来たことはある。しかし、実際に撮影が行われるスタジオへ足を踏み入れるのは今日が初めてだった。
受付を済ませ、事務所の担当である佐伯と合流してから関係者用の通路を進んでいく。途中ですれ違う人々の中には、大きな機材を運んでいるスタッフもいれば、衣装を抱えて急いでいる人もいる。廊下の向こうから誰かを呼ぶ声が聞こえ、玲奈が想像していた以上に多くの人間が動いていた。
「すごい人だね」
「そうね。お母さんも初めてだから、玲奈と同じくらい緊張してるかも」
「お母さんは出ないでしょ?」
「玲奈がちゃんとできるか見てる方も緊張するのよ」
母がそう言って笑う。
玲奈も笑い返したが、本人には不思議と強い緊張はなかった。
もちろん、失敗したくないという気持ちはある。
けれど、それ以上に初めて見るものが多くて面白かった。
「玲奈ちゃん、今日は最初に衣装合わせとメイクをして、そのあと監督さんたちと少し確認してから撮影に入る予定よ」
前を歩いていた佐伯が振り返る。
「はい」
「分からないことがあったら、勝手に判断しないで近くのスタッフさんか私に聞いてね。撮影現場には撮影現場の決まりがあるから」
「分かりました」
「それから、一番大事なのは楽しむこと。失敗しても撮り直せるんだから、最初から全部上手にやろうとしなくて大丈夫よ」
オーディションを紹介されたときにも似たようなことを言われた気がする。
玲奈が頷くと、佐伯は安心したように前へ向き直った。
案内された控室では、すでに衣装が準備されていた。
今日撮影する九条美月の衣装は、子供用の淡い色のワンピースだった。高級そうには見えるものの、派手な装飾は少なく、六歳の少女が着ても不自然にならないデザインになっている。
着替えを済ませると、次は髪を整えてもらった。
「玲奈ちゃん、髪触るね」
「はい」
「嫌だったり痛かったりしたら言ってね」
「分かりました」
鏡の前へ座り、スタッフが髪を整えていく様子を眺める。
前世では使用人に身支度を手伝ってもらうことが日常だった。
だからといって、懐かしそうな態度を見せる必要はない。現代の美容道具や髪型は前世とは違うものも多く、玲奈はむしろ興味深そうにスタッフの手元を見ていた。
「玲奈ちゃん、じっとしてるの上手だね」
「動いたらやりにくいですよね?」
「そうなんだけど、六歳だと途中で飽きちゃう子もいるから。助かるよ」
「じゃあ動かないようにします」
スタッフが笑った。
準備が終わった玲奈が鏡を見ると、そこには普段とは少し違う自分が映っていた。
髪を綺麗に整え、上品なワンピースを着ている。
九条美月。
今日から自分が演じる少女だ。
「玲奈、かわいい!」
後ろから母の声が聞こえた。
「お母さん、写真撮らないでね」
「まだ撮ってないよ」
「まだ?」
「……撮影していいか佐伯さんに聞こうかなって」
玲奈が振り返ると、母はスマートフォンを持ったまま笑っていた。
その様子を見ていた佐伯が苦笑する。
「衣装は放送前なので、今日はご家族だけで見る写真でも一応控えてください」
「ですよね。分かりました」
母が素直にスマートフォンをしまった。
そんなやり取りを終えてしばらくすると、玲奈は撮影スタジオへ案内された。
中へ入った瞬間、思わず足を止める。
「……家だ」
九条家の屋敷として使われるセットだった。
広いリビングが作られ、ソファやテーブル、本棚まで置かれている。壁も床も本物の屋敷に見えるが、少し角度を変えると、その向こうに撮影機材やスタッフの姿が見えた。
玲奈はセットと、その外側を交互に見る。
「テレビって、こうやって作ってるんだ」
「面白い?」
佐伯が尋ねる。
「うん。普通のお家みたいなのに、こっちから見ると違う」
「カメラに映るところを作ってるからね」
玲奈が興味深そうに周囲を見ていると、スタッフから声をかけられた。
「天城玲奈ちゃん?」
「はい」
「監督が一度動きを確認したいそうだから、こっちにお願いします」
「分かりました」
玲奈は母と佐伯から離れ、セットの中へ入った。
そこにはオーディションでも会った監督がいた。
「おはよう、天城さん」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。今日は初めての撮影だよね?」
「はい」
「じゃあ、最初に撮影のやり方を覚えるところから始めようか。オーディションとは少し違うから、分からなかったら何でも聞いて」
「はい!」
最初に教えられたのは、演技ではなかった。
「ここに立ってみて」
監督から指示された場所へ移動する。
「もう少し右かな。そこに床の印があるでしょう?」
玲奈が足元を見ると、小さなテープが貼られていた。
「あります」
「それを目印にして、歩いてきたらそこで止まってね」
「分かりました」
実際にやってみる。
入口から歩き、指定された位置で止まった。
「ちょっと行きすぎたね」
監督に言われ、玲奈は足元を見る。
確かに印を少し越えている。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫。初めてなんだから普通だよ。今度は足元ばっかり見ないようにしながら止まってみようか」
「はい」
もう一度やる。
今度は手前で止まった。
「惜しい。もう少し前」
「難しいですね」
「そうなんだよ。芝居をしながら止まらないといけないからね」
玲奈は三度目に挑戦した。
今度はほぼ指定された場所で止まることができた。
「そこ。今の場所を覚えて」
「はい」
玲奈は立った位置から周囲を見る。
床だけを覚えるのではなく、正面にあるテーブルの端と自分の位置、右側にあるソファとの距離を確認した。
四度目。
今度は印を見なくても同じ場所で止まった。
監督が少し驚いた顔をする。
「覚えるの早いね」
「周りの物を見ると分かりやすかったです」
「なるほど。それなら次はカメラも意識してみようか」
玲奈はそこで初めて、演技とは別に覚えなければならないことが大量にあると知った。
相手役だけを見ていればいいわけではない。
カメラに背中を向けすぎれば表情が映らず、立ち位置を大きく変えれば照明から外れる。台詞を言いながら歩く場面では、決められた場所へ自然に移動しなければならない。
前世の経験だけではどうにもならない部分だった。
玲奈は説明を聞くたびに実際に動き、失敗すると理由を尋ねた。
「今のは、どうして駄目だったんですか?」
「最後に身体がこっちを向きすぎたから、顔がカメラから見えにくくなったんだ。相手を見るときも、ほんの少し身体を残してみよう」
「こうですか?」
「そうそう。それなら綺麗に映る」
「分かりました」
知らないことを教えてもらえるのが楽しかった。
しばらく練習しているうちに、最初は何度も確認していた立ち位置にも自然と入れるようになった。
「監督」
近くにいたスタッフが声をかける。
「そろそろ大丈夫ですか?」
「うん。思ったよりずっと早かった。予定通り始めよう」
玲奈はセットの外へ戻り、水を飲んだ。
母が待っている。
「どう?」
「難しい。でも面白い」
「それならよかった」
「テレビの演技って、立つ場所まで決まってるんだよ」
「そうなの?」
「カメラに映らなくなるんだって」
玲奈が覚えたばかりのことを話していると、周囲が少し騒がしくなった。
何人かのスタッフが入口へ向かっている。
玲奈もそちらを見ると、一人の女性がスタジオへ入ってきた。
見覚えがあった。
テレビで何度も見たことがある。
九条美月の成人後を演じる女優だった。
「おはようございます」
彼女が周囲へ挨拶しながら歩いてくる。
玲奈は少しだけ姿勢を正した。
「玲奈、あの人……」
「うん。知ってる」
母が小声で話しかけてくる。
現在の九条美月を演じる女優、桐谷彩香。
三十代前半の人気女優で、今回のドラマでも主要人物の一人だった。
玲奈とは同じ場面に出演しない。
それでも今日は、美月という人物の演技について監督と打ち合わせるため、幼少期の撮影も少し見ていくらしい。
「あなたが美月の子供時代を演じる子?」
彩香が玲奈に気づいた。
玲奈は立ち上がる。
「天城玲奈です。六歳です。よろしくお願いします」
「桐谷彩香です。よろしくね」
玲奈が頭を下げると、彩香も笑った。
「オーディション、すごかったって聞いたよ」
「ありがとうございます」
「ピアノも弾いたんでしょう?」
「簡単な曲だけです」
「私より美月っぽかったらどうしよう」
冗談らしく言われ、周囲にいたスタッフが笑う。
玲奈は少し迷った。
「でも、私は六歳の美月しかできません」
「うん?」
「大人になった美月は、まだ分からないから。桐谷さんが演じる美月を見たら、どういう大人になるのか分かると思います」
彩香が一瞬黙った。
玲奈としては、普通に思ったことを答えただけだった。
「……そっか」
彩香は少し考え、それから笑った。
「じゃあ私も、玲奈ちゃんの美月をちゃんと見ておかないとね」
「はい」
その後、撮影の準備が整った。
玲奈にとって最初の場面は、九条美月が父親と二人で朝食を取る場面だった。
大きな事件が起きるわけではない。
父親が新聞を読みながら、娘へ今日の予定を伝える。
午前中は語学、午後はピアノ、その後は家庭教師による勉強。
友達と遊ぶ予定はない。
美月は文句を言わず、それを受け入れる。
短い場面だった。
しかし、この場面で幼い美月がどんな生活を送っていたのかを視聴者へ伝える必要がある。
「本番いきます!」
スタッフの声が響いた。
玲奈は席へ座る。
目の前には朝食が並んでいる。
父親役を演じる俳優が向かい側に座った。
カメラが回る。
現場が静かになった。
「よーい……」
玲奈は九条美月になる。
「スタート」
父親が新聞をめくる。
「美月。今日の予定は聞いているな」
「はい、お父様」
「午前は英語だ。そのあと昼食を取って、午後からピアノの先生が来る。夕方には高瀬先生だ」
「承知しています」
玲奈は小さく頷いた。
そのとき、セットの外から子供たちの声が聞こえるという演出が入る。
近所の子供たちが遊びに出かける声だった。
美月の手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
窓を見る。
楽しそうな声がする。
玲奈はそこへ視線を向けたまま、何も言わない。
「美月」
父親の声。
玲奈はすぐに振り返った。
「はい、お父様」
「聞いているのか?」
「申し訳ありません。聞いております」
父親が新聞へ視線を戻す。
「九条の人間には、相応の教養が必要だ。今のうちに身につけておきなさい」
「はい」
玲奈は答えた。
笑顔ではない。
嫌そうな顔もしない。
それが当然なのだと受け入れている少女の表情を作る。
「カット!」
監督の声が響いた。
玲奈はすぐに表情を戻した。
失敗しただろうか。
立ち位置は間違えていない。台詞も言えた。
ただ、最後の表情が正しかったかは自分では分からない。
「玲奈ちゃん、そのまま待ってて」
「はい」
監督がモニターを確認している。
玲奈は椅子に座ったまま待った。
やがて監督が顔を上げる。
「もう一回やろう」
「はい」
「今度は最後の『はい』だけ、少し変えてみたい」
玲奈は監督を見る。
「どう変えますか?」
「美月はお父さんの言っていることが正しいと思ってる。でも、本当は遊びたい。その二つが両方ある感じにしたいんだ」
玲奈は少し考える。
「お父様が嫌いなわけではないんですよね?」
「嫌いじゃない。むしろ褒めてもらいたいと思ってる」
「分かりました」
玲奈には、その感情がよく分かった。
セレスティアも父を嫌ってはいなかった。
教育が嫌で家族を憎んだこともない。
期待されれば嬉しかった。
できるようになれば褒めてもらえる。
だから努力した。
ただ、その繰り返しの中で、自分が何を望んでいるのかを考える時間が少しずつなくなっていっただけだった。
「もう一度いきます!」
撮影が再開される。
同じ会話を繰り返す。
窓の外から子供たちの声が聞こえる。
玲奈は見る。
呼び止められる。
父親へ視線を戻す。
「九条の人間には、相応の教養が必要だ。今のうちに身につけておきなさい」
玲奈は父親を見る。
ほんの少しだけ、嬉しそうにする。
父親が自分に期待している。
だから応えたい。
「はい、お父様」
答えたあと、玲奈はもう窓を見なかった。
「カット!」
監督の声が響く。
再びモニターを確認する時間が流れた。
やがて監督が頷く。
「オーケー。今のいいね」
周囲の空気が少し緩んだ。
玲奈も息を吐く。
初めて一つの場面を撮り終えた。
「ありがとうございます」
玲奈が頭を下げる。
セットの外へ戻ると、母が嬉しそうに待っていた。
「玲奈、よかったよ」
「本当?」
「お母さん、途中で美月ちゃんがかわいそうになっちゃった」
「それなら、ちゃんとできたのかな」
「できてたと思う」
「私が決めることじゃないけどね」
そう答えると、近くにいた佐伯が笑った。
「そこはもう少し喜んでもいいと思うけどなあ」
玲奈も笑う。
そのとき、別の声が聞こえた。
「ねえ、玲奈ちゃん」
桐谷彩香だった。
「はい」
「さっきの最後、監督に何を言われたの?」
「お父様の言っていることが正しいと思ってるけど、本当は遊びたいから、その両方があるようにって言われました」
「それで、二回目は少し嬉しそうにしたの?」
「はい。美月は、お父様に期待されるのは嬉しいと思ったから」
彩香が玲奈を見る。
「でも遊びたいんでしょう?」
「遊びたいと思います」
「じゃあ、どうして嬉しいの?」
玲奈は少し考えた。
質問の意味が分からないわけではない。
言葉にする方法を考えた。
「どっちも本当だからです」
彩香が黙る。
「遊びたいのも本当だけど、お父様に期待されて嬉しいのも本当だと思います。だから美月は、自分から勉強したくないって言わないんじゃないかなって」
「……なるほど」
彩香は小さく呟いた。
それからセットへ視線を向ける。
大人になった九条美月は、父親が亡くなったあと、巨大な九条グループの中で自分の立場を守りながら生きている。
脚本上では冷静で、感情を表に出さず、自分より会社を優先する女性だった。
なぜそういう人間になったのか。
その答えの一部を、六歳の玲奈が今演じた。
「監督、ちょっといいですか?」
彩香が突然声を上げた。
「どうした?」
「後で美月の役について、もう一回話したいです」
「もちろんいいけど」
「幼少期を見たら、少し変えたくなりました」
監督が玲奈を見る。
そして笑った。
「俺も同じこと考えてたよ」
玲奈には、大人たちが何を変えようとしているのかまでは分からなかった。
ただ、自分の演じた六歳の美月が、その先の美月にも何かを残したらしい。
それが少し嬉しかった。
撮影はまだ始まったばかりだった。
午後にはピアノを弾く場面もあり、翌週には九条家のパーティーを描く撮影も予定されている。
覚えなければならないことは、まだいくらでもある。
それでも玲奈は疲れより先に、次はどんな演技ができるのだろうと考えていた。
前世では、求められた役割を完璧に果たすことが正しいと思っていた。
けれど今は、自分から選んだ役をどう演じるのかを考えている。
似ているようで、まったく違う。
その違いを楽しみながら、天城玲奈の女優としての最初の一日は続いていった。




