初めてのオーディション
天城玲奈が子役のオーディションを受けてみたいと答えた翌日から、両親は本当に芸能事務所について調べ始めた。
もっとも、娘に思いがけない才能があると分かったからといって、すぐに芸能界へ飛び込ませるほど二人は楽観的ではなかった。まだ六歳の玲奈を預けることになる以上、所属費用やレッスンの内容だけではなく、子役の活動実績や保護者の付き添い、学校生活との両立についても時間をかけて確認していた。
「ここは子役も多いみたいだけど、最初に結構お金がかかるね。こっちは所属してる子が少ないけど、ドラマに出てる子は何人かいるみたい」
「昨日思いついたばかりなんだから、急いで決めなくてもいいだろ。玲奈が本当に続けたいかどうかだって、まだ分からないんだし」
夕食を終えたあと、父と母がダイニングテーブルで話している。玲奈は少し離れた場所で本を読んでいたが、自分のことを話しているのだから自然と会話は耳に入ってきた。
前世を思い出してから数日が経っていた。
最初の日こそ膨大な記憶に戸惑ったものの、現在の生活が大きく変わったわけではない。朝になれば学校へ行き、授業を受け、帰宅すれば宿題を済ませてから遊ぶ。天城玲奈として積み重ねてきた六年間の生活は、それまでと同じように続いていた。
ただ、玲奈自身の物事の見え方は明らかに変わっている。
学校の授業は以前より簡単に感じられたし、ニュースを見れば、それまで意味の分からなかった言葉まで理解できるようになった。前世で学んだ知識がそのまま現代社会で通用するわけではなかったが、物事を考えるための土台が増えた影響は大きかった。
それ以上に玲奈が気になっていたのは、演技だった。
あの日以来、テレビを見ると出演している俳優たちの動きを以前より意識するようになった。同じ怒っている人物でも大声を出す人もいれば、表情をほとんど変えずに声だけで感情を伝える人もいる。悲しみを表現するときにも、必ず涙を流すわけではない。
見れば見るほど、自分が最初に思っていたより奥が深い。
そのことが面白かった。
「玲奈、ちょっといい?」
本から顔を上げると、母がこちらを見ていた。
「なに?」
「今度の日曜日、予定ある?」
「ないよ」
「一つ、オーディションを受けてみようかと思ってるんだけど、まだやってみたい?」
玲奈は本を閉じて両親のところへ向かった。母のスマートフォンには、子供向けの芸能事務所が開催している新人オーディションの案内が表示されている。
特定のドラマや映画の役を決めるものではなく、新しく所属する子役を募集するための審査らしい。
「これに受かったら、すぐテレビに出るの?」
「そんな簡単じゃないと思うよ。まず事務所に入って、必要なら演技の練習をして、それからドラマとかのオーディションを受けるんじゃないかな」
「じゃあ、オーディションに受かっても、またオーディションがあるの?」
「そうみたい。お母さんも調べて初めて知ったけど、子役って大変なんだね」
玲奈は画面に表示された説明を読む。
書類審査のあとに面接と実技審査があり、合格すれば所属についての説明を受けることができる。母はすでに写真などを送っており、先ほど一次審査を通過したという連絡が届いたらしい。
「写真だけでも審査するんだね」
「そうみたい。でも一次はかなり多めに通すところもあるらしいから、これだけで喜ぶのはまだ早いんだって」
「お母さん、昨日から詳しくなったね」
「玲奈を変なところに預けるわけにはいかないからね。お父さんとも話して、ここなら一回行ってみても大丈夫そうだってなったの」
母が笑うと、父も隣で頷いた。
玲奈はもう一度画面を見る。
不思議と緊張はなかった。
前世では王族や外国の使節を前に話した経験もある。それに比べれば面接くらいで怖がる理由はないと思ったが、同時に今回は前世とはまったく違う世界なのだとも理解している。
自分は演技について正式に学んだ経験がない。
テレビの前で両親を驚かせたからといって、専門家から見ても上手いとは限らない。
だからこそ、確かめてみたかった。
「受けたい」
「分かった。じゃあ日曜日ね」
「うん」
それからの日々、玲奈は特別な準備をしなかった。
母からオーディションで簡単な演技を求められる可能性があると聞いても、テレビに映る俳優の演技を丸暗記しようとは思わなかった。何を求められるのか分からない以上、特定の場面だけ練習しても仕方がないと考えたからだ。
ただし、演技そのものへの興味は強くなっていた。
テレビを見る時間になると、玲奈は物語だけではなく俳優の表情や動きを観察するようになった。視線を動かすタイミングや会話の間、身体の向きによって、同じ台詞でも印象が変わることに気づいていく。
前世で身につけたものとの共通点も多かった。
社交の場では、相手が何を考えているのかを表情や仕草から読み取らなければならなかった。自分が疲れていても笑顔を崩さず、腹を立てていても公爵令嬢として必要な態度を維持することを求められた。
けれど演技では、それを逆向きに使うことができる。
隠すためではなく、伝えるために表情を作る。
その違いを考えることが、玲奈には新鮮だった。
そして日曜日。
玲奈は両親と一緒に電車へ乗り、都内にある芸能事務所へ向かった。
事務所が入っている建物は、玲奈が想像していたより普通だった。テレビ局のような巨大な施設でもなければ、華やかな芸能人が出入りしているわけでもない。受付を済ませて案内された待合室には、玲奈と同じくらいの年齢から小学校高学年くらいまでの子供たちが十数人集まっていた。
ほとんどの子供が保護者と一緒だった。
台詞が書かれた紙を何度も読み返している子もいれば、母親から姿勢について注意されている子もいる。すでに別の事務所や劇団で演技を習った経験があるのか、慣れた様子で他の参加者と話している子もいた。
玲奈は母の隣へ座りながら周囲を見る。
「緊張してる?」
「ちょっとだけ」
「珍しい。玲奈って人前でもあんまり緊張しないのに」
「今日は何するか分からないから」
「そっか。でも失敗しても大丈夫だからね。今日は経験するくらいのつもりでいいんだから」
母の言葉に、玲奈は素直に頷いた。
その考え方には玲奈も賛成だった。
合格したいとは思う。
けれど、自分が本当にこの世界で通用するのか分からない段階で、絶対に受からなければならないと考えても仕方がない。
しばらく待っていると、スタッフが数人の名前を呼んだ。その中に天城玲奈の名前もあり、玲奈は母と一度だけ顔を見合わせてから立ち上がる。
「行ってくるね」
「うん。楽しんでおいで」
玲奈は他の子供たちと一緒に審査室へ向かった。
中には長い机が置かれており、その向こう側に三人の大人が座っていた。女性が二人、男性が一人で、机の上には参加者の資料らしき紙が並べられている。
最初に行われたのは自己紹介だった。
一人ずつ名前と年齢を言い、好きなことや得意なことを簡単に話す。歌やダンスを習っている子も多く、玲奈の前にいた少女は三歳からバレエを習っていると元気よく答えていた。
やがて玲奈の順番が来る。
「天城玲奈です。六歳です。最近はテレビのドラマを見るのが好きです。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。
いつものつもりだった。
ところが、審査員の一人が資料から顔を上げた。
「天城さん、今のお辞儀って誰かに教えてもらったの?」
「お母さんとか幼稚園の先生には教えてもらったことがあります」
「そうなんだ。すごく綺麗だったから、何か習ってるのかなと思って」
「何も習ってないです」
玲奈が答えると、女性は何かを資料へ書き込んだ。
自己紹介が終わると、次は簡単な実技審査へ移った。
子供たちへ一枚ずつ紙が配られる。
そこには短い場面と台詞が書かれていた。
学校から帰宅した子供が、楽しみに取っておいたプリンを兄に食べられてしまった場面だった。
「今から十分くらい時間を取ります。台詞を完璧に覚えなくても大丈夫です。紙を見ながらでもいいので、自分だったらどうするか考えて演じてみてください」
審査員から説明を受け、子供たちはそれぞれ紙を読み始める。
玲奈も文章へ目を通した。
難しい台詞ではない。
兄に向かって、どうして食べたのかと怒るだけの場面だった。
けれど、玲奈はすぐには台詞を覚え始めなかった。
この子は、なぜ怒っているのだろう。
プリンを食べられたから。
それだけなら簡単だった。
しかし、楽しみに取っておいたと書いてある。
学校から帰ったら食べようと思っていたのかもしれない。授業中にも少し楽しみにしていたかもしれない。それなのに冷蔵庫を開けたらなくなっている。
しかも食べたのは兄だった。
玲奈は自分に兄がいた場合を想像してみる。
腹が立つ。
悲しい。
少しくらい謝ってほしい。
そんな気持ちになるだろう。
十分後、順番に演技が始まった。
怒鳴る子が多かった。
「なんで私のプリン食べたの!」
大きな声で怒りを表現すると、審査員たちは優しく頷いている。
玲奈は他の子供の演技を見ながら、自分ならどうするかを考え続けた。
やがて名前を呼ばれる。
「天城玲奈さん、お願いします」
「はい」
玲奈は指定された位置へ立った。
相手役はスタッフの男性だった。
始めてくださいと言われ、玲奈は演技を始める。
まず冷蔵庫を開ける。
もちろん実際には存在しないため、そこに冷蔵庫があるつもりで扉を開けた。
中を見る。
少し探す。
もう一度見る。
そこで初めて、目的のものがないことに気づいた表情を作る。
「……ない」
玲奈はスタッフを見る。
「お兄ちゃん、冷蔵庫にあったプリン知らない?」
「食べたよ」
スタッフが台本通りに答える。
玲奈はすぐに怒鳴らなかった。
一度、相手の顔を見る。
「食べたの?」
「うん」
「私の名前、書いてあったよね?」
「書いてあったかな」
その返事を聞いてから、玲奈は頬を膨らませた。
「書いてあったもん。今日、学校から帰ったら食べようと思ってたのに」
声を大きくする。
けれど泣き叫ぶほどではない。
「ずっと楽しみにしてたのに! お兄ちゃんなんて嫌い!」
最後にそう言って顔を背ける。
そこで演技を終えた。
「ありがとうございました」
玲奈がいつもの表情へ戻って頭を下げると、三人の審査員はすぐには次へ進まなかった。
中央に座っていた男性が玲奈を見る。
「天城さん、ちょっとだけいい?」
「はい」
「最初にプリンを探してたよね。あれは台本には書いてなかったと思うんだけど、どうしてやったの?」
玲奈は質問の意味を考えてから答えた。
「最初からプリンがないって分かってたら変だからです。冷蔵庫を開けて、ないって分かってから、お兄ちゃんに聞くと思いました」
三人が顔を見合わせた。
「じゃあ、すぐ怒らなかったのは?」
「お兄ちゃんが食べたかどうか、まだ分からないからです。違うかもしれないのに怒ったら変だと思います」
今度は女性の審査員が何かを書き込んだ。
玲奈には、それが良い反応なのか悪い反応なのか分からない。
「もう一つやってもらってもいいかな?」
「はい」
「今度は同じ場面なんだけど、プリンを食べたのがお兄ちゃんじゃなくて、今日誕生日の妹だったとする。妹はすごく嬉しそうにプリンを食べちゃった。天城さんならどうする?」
台本にはない設定だった。
玲奈は少しだけ考える。
「台詞は同じですか?」
「好きに変えていいよ」
「分かりました」
玲奈は再び冷蔵庫を開けるところから始めた。
先ほどと同じように探し、なくなっていることに気づく。
妹へ尋ねる。
食べたと言われる。
一瞬、怒りかける。
けれど今日は妹の誕生日だ。
嬉しそうに食べていた。
玲奈は口を開きかけて、一度閉じた。
「……おいしかった?」
さっきとは違う台詞だった。
相手役のスタッフも少し驚きながら答える。
「うん。おいしかった」
「そっか」
玲奈は少しだけ残念そうな顔をする。
「じゃあ、今日はいい。でも次からは聞いてね。あれ、私も楽しみにしてたから」
それで演技を終えた。
審査室が少し静かになった。
玲奈は指定された場所へ戻る。
何か失敗したのかとも思ったが、審査員たちは再び資料へ書き込みを始めたため、玲奈も黙って待つことにした。
すべての実技が終わると、その日の審査は終了した。
結果は後日連絡すると説明され、玲奈は待合室へ戻る。
母がすぐに近づいてきた。
「どうだった?」
「プリン食べられた」
「え?」
「そういう演技だったの」
「ああ、びっくりした。誰かに本当に食べられたのかと思った」
母が笑う。
「楽しかった?」
その質問に、玲奈は少し考えてから頷いた。
「楽しかった。またやりたい」
受かったかどうかより先に、その言葉が出た。
母は玲奈の答えを聞くと、嬉しそうに頭を撫でてくれた。
帰り道、玲奈は電車の窓から流れていく景色を眺めながら、今日の審査を思い返していた。
知らない役を渡され、その人物ならどうするのかを考える。
同じ場面でも条件が一つ変われば、言葉も表情も変わる。
面白かった。
もっとやってみたい。
前世で何かを学ぶときは、それが将来必要になるから学んでいた。役に立つかどうかを考え、求められた水準へ届くまで努力することが当たり前だった。
けれど今は、必要だからではない。
誰かに求められたからでもない。
自分が知りたいから、もっと演じてみたいと思っている。
その違いが、玲奈には少し嬉しかった。
オーディションから三日後。
母のスマートフォンへ、芸能事務所から一通のメールが届いた。
天城玲奈、最終審査合格。
それは彼女が女優として歩き始める、最初の小さな一歩となった。




