テレビの中の公爵令嬢
こちらは【悪役令嬢、現代日本に転生する~処刑された元公爵令嬢は、今度こそ自分の才能を自分のために使います~】のIFルートになります。
六歳になった天城玲奈が前世の記憶を取り戻したのは、何か特別な場所を訪れたときでも、大きな事故に遭ったときでもなかった。休日の午後、母と一緒にリビングでテレビを眺めていた、ごく普通の日の出来事だった。
朝から降り続いていた雨のせいで外へ遊びに行けず、玲奈はソファに座って母が見ていた連続ドラマに付き合っていた。父も今日は仕事が休みらしく、向かい側のソファでコーヒーを飲みながらスマートフォンを眺め、ときどきテレビへ視線を向けている。
画面の中では、中世ヨーロッパを思わせる架空の王国を舞台に、王族や貴族たちの恋愛と権力争いが繰り広げられていた。六歳の玲奈には理解できない部分も多かったが、華やかなドレスや巨大な城を見るのは嫌いではなく、いつの間にか母と一緒になって物語を追いかけていた。
『お待ちくださいませ、殿下! わたくしという婚約者がありながら、あの娘と親しくされるなど許せませんわ!』
テレビの中で、豪華な青いドレスを身につけた若い令嬢が王子を追いかけていた。大きな声で婚約者を呼び止めた女性は、周囲の貴族たちが見ていることにも構わず感情を露わにし、そのまま王子の正面へ立って相手を睨みつける。
母は楽しそうにその場面を眺めていたが、玲奈は画面の隅へ表示された字幕へ何気なく視線を向けた。そこには登場人物の名前が記されており、玲奈はその文字を認識した瞬間、呼吸の仕方さえ忘れたように動きを止めた。
セレスティアという名前だった。
その名前を認識した瞬間、玲奈の頭の奥で、それまで閉ざされていた何かが一気に開いた。
見たことのないはずの広大な屋敷を、幼い自分が歩いている光景が浮かんでくる。頭の上へ本を載せ、背筋を伸ばしたまま一定の歩幅を守り、少しでも姿勢が崩れれば教育係から注意を受ける日々を、玲奈はまるで昨日のことのように思い出していた。
それだけでは終わらなかった。書斎に並ぶ膨大な本を読みながら、歴史や法律、経済や外交、領地経営について学び、未来の王妃になるために必要だと言われた知識を必死に身につけていった時間まで、次々と記憶の中から蘇ってくる。
やがて思い出した光景は、屋敷から王立学院へ移っていった。婚約者だった王太子アルベルトと過ごした日々も、特別入学してきたリリア・エヴァンスと出会った日のことも、最初は穏やかだった学院生活が少しずつ変わっていったことも、すべてが一つの人生としてつながっていく。
気づけば周囲の人々から向けられる視線が変わり、身に覚えのない噂が増え、親しかった令嬢たちまで距離を取るようになっていた。それでも自分は理由を調べることより、王太子が放置していた仕事や国に関わる問題を片づけることを優先し、自分自身のために時間を使おうとはしなかった。
そして迎えた卒業の日、アルベルトが毒を口にして倒れた。自分は彼を助けるために動いたにもかかわらず、やがて自分の鞄から見覚えのない小瓶が発見され、それまで積み上げられていた数々の噂まで証拠のように扱われた。
その先に待っていた牢獄も、裁判も、婚約破棄も覚えている。最後には王太子を毒殺しようとした悪女として死刑を宣告され、大勢の民衆が見守る処刑台へ立ったときの感覚まで、六歳の玲奈の中へ鮮明に戻っていた。
セレスティア・アルヴェイン。それが、かつて自分が生きていた人生で与えられていた名前だった。
「玲奈、大丈夫? さっきからずっとテレビを見たまま動かないけど、どこか具合でも悪いの?」
母の声を聞いた瞬間、玲奈の意識は二度目の人生へ引き戻された。隣を見ると、洗濯物を畳んでいた母が手を止め、少し心配そうな表情でこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫だよ。ちょっとテレビを真剣に見てただけだから」
「本当に? 頭が痛かったり、気持ち悪かったりしたら我慢しちゃ駄目だからね」
「うん。本当に大丈夫」
玲奈が普段と変わらない調子で答えると、母はまだ少し心配そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。向かい側にいる父も一度こちらを確認したあと、特に問題はなさそうだと判断したのか、再び手元のスマートフォンへ視線を落とした。
玲奈自身にも、今起きたことを完全に理解できているわけではなかった。ただ一つ確かなのは、セレスティアとして過ごした人生を思い出したからといって、天城玲奈として過ごしてきた六年間が消えたわけではないということだった。
目の前にいる二人は間違いなく自分の父と母であり、幼稚園でできた友達の顔も、昨日父と遊んだことも、今朝母と一緒に食べた朝食のことも覚えている。その上へ、セレスティアとして生きた一つの人生が丸ごと重なったような、不思議な感覚だった。
玲奈が頭の中を整理している間にもドラマは進み、先ほどの公爵令嬢が再び画面へ現れた。王子に追いついた彼女は大勢の貴族たちが見ている場所で感情的に声を荒らげ、ドレスの裾を乱しながら相手へ詰め寄っている。
「……この人、変だと思う」
玲奈が思わず口にすると、隣にいた母が意外そうに顔を向けた。
「セレスティアのこと? 玲奈がドラマの人にそんなこと言うなんて珍しいね。どこが変なの?」
「歩き方も変だし、お辞儀もあんまり綺麗じゃないよ。あんなに大きなドレスなのに歩幅が広すぎるし、人がたくさん見てるところで王子様にあんな怒り方をするのも変だと思う」
玲奈はテレビに映る女性を見ながら、自分が気づいた部分をそのまま言葉にした。頭の中にある前世について説明する必要などなく、画面に映っている演技を見れば、不自然に感じる部分はいくらでも見つけられた。
「へえ、そこまで見てたんだ。でも、お母さんには普通に上手な女優さんに見えるけどなあ」
「でも変だよ。ドレスの裾もあんなふうに持ったら歩きにくいし、怒ってるからって肩まで上げたら余計に綺麗に見えないもん」
母は玲奈の説明を聞くうちに、ドラマより娘の方が面白くなってきたらしい。洗濯物を畳んでいた手を完全に止めると、少し楽しそうな笑みを浮かべながら玲奈へ身体を向けた。
「じゃあ、玲奈だったらどうやってやるの? そこまで分かるなら、お母さんにも見せてよ」
「今の人の真似をすればいいの?」
「真似というより、玲奈が思う公爵令嬢をやってみて。別に上手じゃなくてもいいから、遊びだと思ってさ」
母からそう言われた玲奈は、特に断る理由もなかったためソファから降りた。向かい側で話を聞いていた父も、娘が何を始めるのか気になったらしく、スマートフォンから顔を上げて二人のやり取りを眺めている。
玲奈はリビングの中央まで移動すると、まず姿勢を整えた。背筋を無理に反らすのではなく、身体の中心へ一本の線が通るように立ち、肩から余計な力を抜いて顎をわずかに引く。
家で着ている服は当然ドレスではなかった。それでも長い裾が存在するつもりで足を運び、身体を大きく上下させることなく数歩進むと、方向を変えるときにも上半身だけを急に捻らず、足の運びから自然に正面を変えた。
「……あれ?」
母の口から、先ほどまでの楽しそうな調子とは違う声が漏れた。
玲奈は気にせず、そのまま父をテレビの中の王子に見立てた。先ほど聞いた台詞をそのまま繰り返すのではなく、この場面にいる令嬢ならどのように婚約者へ話しかけるべきなのかを考えてから、静かに口を開いた。
「お待ちくださいませ、殿下。わたくしという婚約者がおりながら、他の女性と親しくなさることを、わたくしが喜ぶとお思いですか?」
怒鳴る必要はなかった。大勢の貴族が見ている場所なら、感情を剥き出しにして婚約者へ詰め寄るよりも、声を抑えながら怒りと失望を伝える方がよほど自然だった。
玲奈は最後まで姿勢を崩さず、相手から視線を逸らすこともしなかった。ほんの少しだけ表情を硬くすることで怒りを表しながら、それでも公爵令嬢として人前に立っていることを忘れない。
「こんな感じだと思う」
演技を終えた玲奈がいつもの調子へ戻って両親を見ると、先ほどまで笑っていた二人が揃って黙っていた。
「お母さん、どうしたの?」
「いや……ちょっと待って。あなたもちゃんと見てたよね?」
「見てた。俺も今、同じことを聞こうと思ってたところだ」
父はいつの間にかスマートフォンをテーブルへ置いていた。母もテレビへ視線を戻すことなく、玲奈の立ち姿を確認するように上から下まで眺めている。
「玲奈、こういうのどこかで習ったことあったっけ?」
「ないよ。演技なんて習ったことないもん」
「そうだよね。私も習わせた覚えがないし……でも、この子って昔からこういうところはあったよね」
母が首を傾げながら父へ話しかけると、父も何かを思い出したように頷いた。
「三歳くらいのころだったか。結婚式へ連れていったあと、家で大人のお辞儀をそのまま真似してたことがあったな。幼稚園でも、姿勢が妙にいいって先生から何度か言われてただろ」
「そうそう。それに言葉を覚えるのも早かったし、一回見たことをずっと覚えてることも多かったよね。箸だってちゃんと教えようと思ったころには、いつの間にか綺麗に持てるようになってたし」
二人が昔の玲奈について話し始めたことで、今日突然すべてが変わったわけではないことが自然と見えてくる。両親にとって玲奈は以前から覚えが早く、周囲をよく観察し、一度見せられたことを驚くほど正確に再現することがある子供だった。
玲奈自身には、これまでそれを特別なことだと思った経験がなかった。誰かの動きを見れば何となく身体の使い方が分かり、教えられた言葉も比較的簡単に覚えられたため、それが普通なのだと思っていた。
「でも、今のはそれだけじゃない気がするんだよな。姿勢がいいとか覚えるのが早いとか、そういう話とはちょっと違わないか?」
「私もそう思う。だって途中から、本当に六歳の玲奈を見てる感じがしなかったもの」
父と母は顔を見合わせたあと、もう一度玲奈を見る。その視線に嫌なものはなく、単純に今まで知らなかった娘の一面を見つけて驚いているだけなのだと、玲奈にも理解できた。
母はしばらく考えたあと、今度はスマートフォンを取り出した。何かの動画を探しているようで、少ししてから玲奈の前へ画面を差し出す。
「玲奈、もう一つだけやってみない? 今度は貴族のお嬢様じゃなくて、普通の女の子の役をやってみてほしいの」
画面に映っていたのは、母親とはぐれてしまった少女が泣きそうになりながら助けを求める場面だった。先ほどの公爵令嬢とはまったく違う役だったが、玲奈は一度だけ映像を見ると、母から頼まれた通りにやってみることにした。
知らない場所で突然母がいなくなったら、自分ならどう感じるだろう。玲奈は難しく考えず、六歳の自分が実際に同じ状況へ置かれたところを想像してみた。
身体から先ほどまでの堂々とした姿勢が消え、肩が少しだけ内側へ入る。周囲を見回す視線も落ち着かなくなり、誰かに助けを求めたいのに、知らない大人へ声をかけることも怖いという気持ちを表すように口を開いた。
「お母さん、どこにいるの……? さっきまで一緒にいたのに、どこ行っちゃったの……」
無理に涙を流そうとはしなかった。それでも声を少し震わせ、泣くのを我慢している子供ならどう話すかを考えながら母親を探すように視線を動かす。
演技を始めて間もなく、母が思わず玲奈の名前を呼んだ。
「玲奈、もう大丈夫。そこまででいいよ」
「まだ動画は続いてるよ?」
「うん。でも十分分かったから。なんだか本当に泣き出しそうに見えて、お母さんの方が心配になっちゃった」
母が苦笑しながら玲奈の頭を撫でる。父も先ほどより真剣な顔をしており、少し考えたあとで母へ視線を向けた。
「これ、もしかしたら本当に向いてるんじゃないか?」
「私もそう思う。貴族の役だけなら、玲奈がたまたまこういうドラマをよく見てたからって考えられるけど、今のまでできるなら演技そのものが得意なのかもしれない」
二人の話を聞きながら、玲奈は先ほど自分がやったことについて考えていた。
演技というものを、これまで真剣に意識したことはなかった。テレビや映画の中で誰かが別の人物を演じていることは知っていたが、自分がそれをする側になることなど考えた経験もない。
けれど、実際にやってみると楽しかった。
公爵令嬢を演じたときも、迷子の少女を演じたときも、その人物なら何を考え、どんな顔をして、どのように話すのかを想像することが面白かった。もっと違う人物ならどうなるのだろうと、自然に興味まで湧いてくる。
「玲奈、ちょっと聞いてもいい?」
母から声をかけられ、玲奈は顔を上げた。
「なに?」
「子役って知ってる?」
「テレビとかに出てる子供でしょ?」
「そう。もし玲奈がやってみたいなら、一回だけオーディションを受けてみる? もちろん嫌だったら受けなくていいし、途中でやりたくなくなったらやめてもいいから」
母の言葉を聞いた父も、急いで決める必要はないと付け加えた。二人とも玲奈に何かを強制するつもりはなく、ただ今日初めて見つけた娘の才能を試す機会を与えてみようとしているのだと分かった。
玲奈はすぐに返事をせず、自分がどうしたいのかを考えた。
その問いかけに、不思議な感覚を覚えた。
セレスティアとして生きていたころ、自分の将来について尋ねられた記憶はほとんどない。公爵令嬢として生まれ、王太子の婚約者となり、未来の王妃として国を支えることが決められていたため、自分が何をしたいのかを考える必要すらないと思っていた。
国のために必要だから勉強し、家のために必要だから振る舞いを身につけ、婚約者を支えるために自分の時間を使った。その生き方をすべて間違いだったとは思わないが、そこに自分自身の望みを加えようとしたことは一度もなかった。
けれど、今は父も母も玲奈自身に選ばせてくれている。
演技をしている時間は楽しかった。知らない役をもっと演じてみたいと思ったし、自分がどこまでできるのかも知りたかった。
それなら、答えはもう決まっていた。
「私、やってみたい。オーディション受けてみたい」
玲奈が自分の意思で答えると、母は嬉しそうに笑った。ただしすぐに申し込みを始めることはせず、父と一緒にどんな事務所や募集があるのか、子供でも安心して参加できるところなのかをきちんと調べてから決めようと話し始める。
そんな両親の会話を聞きながら、玲奈は今日取り戻した記憶の中にある、人生の最後の夜を思い出していた。
処刑を翌日に控えた牢獄で、すべてを仕組んだリリア・エヴァンスは玲奈の前世であるセレスティアへ、自分が何をしたのかを明かした。その最後に彼女が告げた言葉だけは、今でも驚くほど鮮明に耳の奥へ残っている。
『あなた、本当に馬鹿な女ね。そんなに優秀なのに、一度だって自分のためにその力を使わなかったんだもの』
あのとき、セレスティアは何も言い返せなかった。
自分には多くのことができた。それなのに、その力を国や家族、婚約者のために使うことばかり考え、自分が何を望んでいるのかを知ろうともしなかった。
今の玲奈には、もう一度人生が与えられている。そして今度の両親は、六歳の娘へ自分で選んでいいと言ってくれた。
今日選んだ演技の道が、これから先どこへつながっていくのかはまだ分からない。それでも、初めて自分が楽しいと思ったものへ、自分の持っている力を使ってみたいと思えた。
前世と同じ生き方を繰り返すつもりはない。
誰かを大切にすることも、誰かのために力を使うこともやめる必要はない。ただ、その中から自分自身だけを除外することは、もうしない。
天城玲奈はオーディションについて楽しそうに話している両親を見つめながら、前世では最後まで選ぶことのできなかった生き方を、今度こそ選ぼうと決めた。
――今世こそ、自分の才能を自分のために使う。




