初めての演技レッスン
オーディションから三日後、天城家に届いた最終審査合格の知らせを見て、一番驚いていたのは玲奈本人ではなく母だった。
メールを見つけた母は内容を二度読み直し、それでも間違いではないことを確認すると、仕事から帰ってきた父にもすぐ画面を見せた。二人とも娘に才能があるかもしれないとは思っていたものの、本当に合格するところまでは期待していなかったらしい。
「本当に受かったね。玲奈、すごいじゃない」
「うん。でも、これでテレビに出られるわけじゃないんだよね?」
「そこは冷静なんだな。普通、六歳ならもっと喜んでもいいと思うぞ」
父からそう言われ、玲奈は少し考えた。
もちろん嬉しくないわけではない。初めて自分からやってみたいと思ったことを専門家に認めてもらえたのだから、メールを見たときには自然と笑顔になった。
ただ、オーディション会場で説明された内容も覚えている。
今回の合格は芸能事務所へ所属できるというだけであり、ドラマや映画へ出演できることが決まったわけではない。実際の仕事を得るためには、さらに作品ごとのオーディションを受ける必要がある。
「嬉しいよ。でも、まだ何もやってないから」
「オーディションはやったでしょ?」
「それはやったけど、女優のお仕事はまだしてないもん」
玲奈がそう答えると、母は少し驚いたあとで笑った。
「それもそうね。じゃあ、まずは事務所の人からちゃんと話を聞きましょうか」
合格通知には、所属を希望する場合には保護者同伴で面談へ来てほしいと書かれていた。
父と母は合格したからといって、その場ですぐ所属させるつもりはないらしい。費用や契約内容だけでなく、六歳の玲奈がどの程度活動することになるのか、学校へ通いながら続けられるのかまで確認してから判断すると話していた。
玲奈もそれで構わなかった。
自分が演技を続けたいという気持ちは変わっていない。しかし、そのために父や母へ大きな負担をかけたいわけでもない。
数日後の土曜日、玲奈は両親と一緒に、再びオーディションを受けた芸能事務所を訪れた。
前回は待合室から審査室へ案内されたが、今日は別の階にある小さな応接室へ通された。しばらく待っていると、三十代ほどの女性が資料を持って入ってくる。
「お待たせしました。子役部門を担当しております、佐伯です。本日はありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
母が答え、父も頭を下げる。
玲奈も両親に続いて挨拶すると、佐伯と名乗った女性が少しだけ目を細めた。
「玲奈ちゃんは、今日も姿勢が綺麗ですね。オーディションのときも審査担当から聞いていました」
「ありがとうございます」
「緊張してる?」
「少しだけしてます」
「そうよね。でも今日は審査じゃないから、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
佐伯は柔らかく笑ったあと、両親へ向き直った。
そこからは大人同士の話が中心になった。
所属後に必要となるレッスンについて、子役の仕事がどのように決まるのか、撮影が学校のある日に重なった場合にはどうするのか、保護者にはどの程度の付き添いが必要なのか。父と母は事前に用意していた質問を一つずつ確認していった。
玲奈は途中で退屈することなく、その話を聞いていた。
自分が始めようとしていることなのだから、自分にも関係がある。
「学校生活については、こちらもできるだけ優先する方針です。もちろん撮影の都合で平日にお仕事が入る可能性はありますが、ご家庭と相談せずに決めることはありません」
「それなら安心しました。まだ一年生ですから、仕事を始めたことで学校へほとんど行けなくなるようなことは避けたくて」
「そこは私たちも同じ考えです。それに、最初から仕事が大量に入るわけではありません。玲奈ちゃんの場合は演技経験もありませんので、まずはレッスンを受けながら、条件の合う案件があればオーディションへ挑戦していく形になると思います」
母がその説明を聞いて頷く。
玲奈は別のところが気になった。
「レッスンでは、何をするんですか?」
佐伯が玲奈を見る。
「演技の練習が中心かな。声の出し方を習ったり、台本を読んだり、先生から出された場面を演じたりします。玲奈ちゃんと同じくらいの子もいますよ」
「上手くなれますか?」
「玲奈ちゃんがちゃんと練習すればね」
「じゃあ、やりたいです」
玲奈が迷わず答えると、佐伯は楽しそうに笑った。
「玲奈ちゃんは演技が好きなんだね」
「まだ二回しかやってないけど、楽しかったです」
その答えに、隣に座っていた母も笑っていた。
最終的に、天城家はその場で即決することはせず、契約書類を一度持ち帰った。父と母がもう一度内容を確認し、二人で話し合ったうえで、数日後に正式な所属を決めた。
こうして天城玲奈は、六歳で芸能事務所へ所属することになった。
もっとも、生活が翌日から劇的に変わったわけではない。
平日はこれまで通り小学校へ通い、友達と遊び、帰宅すれば宿題をする。その生活に、週末の演技レッスンが一つ加わっただけだった。
玲奈にとって初めてのレッスン日は、所属が決まってから最初の日曜日だった。
事務所とは別の建物にあるレッスン室へ入ると、玲奈と同年代から十歳くらいまでの子供が八人集まっていた。床には動きやすい素材が使われ、壁の一面が大きな鏡になっている。
「今日から一人増えるから、最初に紹介するね。天城玲奈ちゃん、六歳です」
講師を務める四十代ほどの女性に紹介され、玲奈は前へ出た。
「天城玲奈です。よろしくお願いします」
頭を下げると、何人かの子供が元気よく拍手してくれた。
「私は村瀬です。玲奈ちゃんは演技を習った経験はないって聞いてるけど、合ってる?」
「はい。ありません」
「じゃあ、今日から一緒に覚えていきましょう。最初から上手くできなくても全然問題ないからね」
「はい」
玲奈は素直に返事をした。
最初に行われたのは、玲奈が想像していた演技とは少し違うものだった。
全員で身体を動かし、そのあと声を出す。
同じ言葉を小さく言ったり、大きく言ったり、離れた相手へ届けるつもりで発声したりする。声を大きくすることと怒鳴ることは違うと教えられ、玲奈はその説明を聞きながら実際に試していった。
「玲奈ちゃん、もう少しお腹から声を出してみようか。喉だけで大きくしようとしないでね」
「お腹から?」
「そう。ここを意識して息を使う感じ。先生が一回やるから見てて」
村瀬が実演する。
玲奈はその姿勢と呼吸を見る。
そして同じように試した。
「あー……」
一度目は上手くいかなかった。
声は出たが、自分でも先ほどと大きく変わっていないことが分かる。
「うん、最初はそんな感じ。もう一回やってみよう」
村瀬は特に気にした様子もなく、もう一度やって見せた。
玲奈は今度は声だけではなく、息を吸ったときの胸と腹部の動きまで見る。前世では人前で通る声を出す訓練を受けていたが、当時は現在とは違う教え方だった。
知っていることだけで済ませず、今教えられている方法を試してみる。
もう一度息を吸った。
「あー……!」
先ほどより、明らかに声が前へ出た。
村瀬が玲奈を見る。
「そう、それ。今の感覚を覚えておいて」
「はい」
玲奈は自分の腹部へ手を当てながら頷いた。
面白い。
自分が今まで何となくできていたことにも、きちんと理由がある。教えてもらうことで、それまで感覚だけで行っていたものを意識して再現できるようになる。
玲奈は次の説明も集中して聞いた。
その後、二人一組になって簡単な台詞を読む練習が始まった。
玲奈と組んだのは、八歳の女の子だった。
「私、結衣。よろしくね」
「玲奈です。よろしくお願いします」
「そんなに丁寧じゃなくていいよ。普通でいいって」
「じゃあ、よろしく」
「うん!」
結衣が笑ったので、玲奈も笑い返した。
二人へ渡された台本には、友達同士が放課後に遊ぶ約束をする短い場面が書かれている。
玲奈はすぐに文章へ目を通した。
「玲奈ちゃん」
村瀬が近づいてくる。
「はい」
「最初は台詞を上手に言おうとしなくていいからね。結衣ちゃんが話してるときに、ちゃんと結衣ちゃんの話を聞いてみて」
「聞く?」
「そう。演技って、自分の台詞を言うだけじゃないの。相手が何を言ったのかを聞いて、それを受けて自分が話す。まずはそこからやってみよう」
玲奈は少し考えたあと、頷いた。
これまでテレビの前やオーディションで演じたときは、自分がどう動き、どう話すかを中心に考えていた。
相手の演技を受けることまでは、ほとんど意識していなかった。
「やってみます」
玲奈は結衣へ向き直った。
「今日、学校終わったら公園行かない?」
結衣が台詞を言う。
玲奈は自分の次の台詞を思い出すことより、まず相手の言葉を聞いた。
結衣は笑っている。
遊びに行きたいらしい。
それを見てから答える。
「行きたい。でも今日、お母さんに宿題してから遊びなさいって言われたんだ」
「じゃあ一緒にやろうよ。終わったら遊べるでしょ?」
「それならいいかも。算数分からないところあるから教えて」
「いいよ!」
短いやり取りが終わった。
村瀬は二人を見てから、今度は玲奈へ声をかける。
「玲奈ちゃん、もう一回やってみようか」
「何か違いましたか?」
「違ったというより、今度は設定を変えてみよう。玲奈ちゃんは本当は今日、公園へ行きたくありません。でも結衣ちゃんには、それを言いたくないです」
「どうして言いたくないんですか?」
「そこは玲奈ちゃんが考えていいよ」
玲奈は台本を見る。
先ほどと台詞は変わらない。
しかし、公園へ行きたくない。
その理由を考える。
昨日、公園で転んだ。
少し怖くなっている。
でも、それを友達に知られるのは恥ずかしい。
玲奈はそう決めた。
「準備できました」
「じゃあ、どうぞ」
結衣が同じように笑う。
「今日、学校終わったら公園行かない?」
玲奈は一瞬だけ返事を遅らせた。
「行きたい。でも今日、お母さんに宿題してから遊びなさいって言われたんだ」
言葉は同じだった。
けれど視線が少しだけ逸れる。
「じゃあ一緒にやろうよ。終わったら遊べるでしょ?」
「……それならいいかも。算数分からないところあるから教えて」
最後は笑った。
ただし、先ほどより少しだけ困った笑い方になった。
「はい、そこまで」
村瀬が止める。
玲奈は先生を見る。
「どうでしたか?」
「玲奈ちゃん、公園へ行きたくない理由は何にしたの?」
「昨日そこで転んで、また転ぶのがちょっと怖いけど、それを結衣ちゃんに知られるのは恥ずかしいことにしました」
「なるほどね。だから最初に返事が少し遅れたんだ」
「はい」
村瀬はそこで少し黙った。
玲奈には、その理由が分からない。
何か間違えただろうかと思っていると、村瀬は困ったように笑った。
「玲奈ちゃん、本当に演技を習ったことないんだよね?」
「ないです」
「そう。分かった。じゃあ、次に行きましょう」
レッスンはその後も続いた。
玲奈は何度も注意された。
立つ位置が少しずれたり、相手の台詞を待ちすぎたり、考えることへ集中するあまり動きが小さくなったりした。テレビの前で両親を驚かせたときとは違い、実際に教わってみると知らないことが次々に出てくる。
それが玲奈には嬉しかった。
最初から何でもできるのなら、覚える楽しみがない。
教えられたことを試し、失敗して、もう一度やる。すると少しだけ良くなる。その繰り返しが、思っていた以上に楽しかった。
レッスンが終わるころには、二時間近くが経っていた。
「ありがとうございました!」
全員で挨拶をして解散する。
玲奈が母の待っている場所へ向かおうとすると、後ろから村瀬に呼び止められた。
「玲奈ちゃん、今日どうだった?」
「楽しかったです。でも、知らないことがいっぱいありました」
「嫌にならなかった?」
「ならないです。もっと覚えたいです」
玲奈が答えると、村瀬は嬉しそうに笑った。
「じゃあ来週も頑張ろうね」
「はい!」
玲奈は今度こそ母のところへ戻った。
その背中を見送りながら、村瀬は手元の記録用紙へ視線を落とした。
天城玲奈、六歳。
演技経験なし。
オーディション担当者から、表情や間の取り方に年齢離れした感覚があるとは聞いていた。
実際に見ても、その評価に間違いはない。
ただし、村瀬がそれ以上に気になったのは別の部分だった。
玲奈は最初から完成された子役ではない。発声にも直すところがあり、立ち位置や相手との距離の取り方など、知らない技術はいくらでもある。
それなのに、一度説明すると二回目には明らかに変わる。
実演を見せれば、さらに早い。
何を直されたのかを理解し、それを自分の身体で再現するまでの時間が、同年代の初心者としては異様なほど短かった。
「……面白い子が入ってきたな」
村瀬は小さく笑い、記録用紙へ今日の評価を書き加えた。
そのころ玲奈は、そんな評価を受けていることなど知らず、母へ今日覚えたことを楽しそうに話していた。
そして翌週も、その次の週もレッスンへ通った。
発声を教われば、自宅でも近所迷惑にならない方法を母と確認しながら練習した。台本を渡されれば、自分の台詞だけではなく相手が何を考えて話しているのかまで考えるようになり、村瀬から注意されたことは次のレッスンまでに一つずつ修正していった。
一か月が過ぎるころには、玲奈自身にも変化が分かるようになっていた。
最初にテレビの前で演じたときは、前世で身につけた経験や感覚をそのまま使っていただけだった。
今は違う。
カメラにどう映るのかを考え、相手の演技を受け、自分の感情をどう見せるのかを意識する。セレスティアとして身につけたものを土台にしながら、その上へ天城玲奈として新しい技術を積み上げ始めていた。
そんなある日のレッスン後、玲奈を迎えに来た母へ佐伯が声をかけた。
「天城さん、少しお時間よろしいですか?」
「はい。何でしょう?」
「玲奈ちゃんに、一つ受けてもらいたいオーディションがあります」
母の隣にいた玲奈も顔を上げる。
「私に?」
「そう。まだ小さな役なんだけど、地上波の連続ドラマで六歳から八歳くらいの女の子を探しているの」
所属してから約一か月。
初めての仕事につながるかもしれない話だった。
玲奈は佐伯から渡された資料を受け取り、その表紙へ視線を落とした。
そこに書かれていた役名を見ても、まだ胸が大きく高鳴ることはなかった。
けれど、その下に記された短い人物説明を読み始めると、自然と考え始めている自分がいた。
この子は、どんな女の子なのだろう。
どう話して、何を感じるのだろう。
そして自分なら、どう演じるだろう。
知らない誰かの人生を想像する楽しさを、玲奈はもう知っていた。




