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■11 空白のナイトステイ

下町東区は、白かった。

完全に消えているわけではない。


パン屋の看板はある。

水路もある。


古い街灯も立っている。

でも、ところどころ名前が抜けていた。


パン屋の看板は、文字の半分だけが白い。

水路沿いの標識も、路地名が読めない。


街灯番号E-042のプレートは、弱く点滅していた。


【街灯番号:E-042】

【対応者:晴人】

【巡回兵:   】


俺はその前に立つ。


「ノア」


呼んだ。

返事はない。


「ノア」


もう一度呼ぶ。

街灯の光が一瞬だけ強くなった。


それだけだった。

石畳を進む。


焼き栗の露店があった角は、店だけ残っている。

老人はいない。


鉄鍋もない。

けれど、地面に焦げた栗の殻が一つ落ちていた。


「ここで食ったな」


拾おうとして、やめた。

拾ったら、壊れそうな気がした。


次に、水路カフェへ行く。

丸い窓。


青いランプ。

窓際の席。


テーブルには、空の月蜜ミルクのカップと、魔導茶のカップが残っている。


「甘いの好きだったな」


返事はない。

雑貨屋の前には、青い花の鉢植えがあった。


月形のブローチを拾った場所だ。

依頼札は掲示板に残っている。


【探し物:月形のブローチ】

【依頼主:リーネ】


ここは戻っている。

でも、巡回兵の欄は白い。


「ノアが届けたんだろ」


返事はない。

歯車飾りを探した水路裏通りへ向かう。


石橋。

排水管。


青い糸。

真鍮の歯車飾りは、もうない。


代わりに、ミルが描いたらしい小さな落書きが壁に残っていた。

ノア兄ちゃん、ありがとう。


その文字の


「ノア兄ちゃん」


の部分だけが、白く薄れている。

俺は、壁に手をついた。


「ふざけんな」


消すな。

そこは、ミルが書いたんだろ。


泣きそうだった子どもが、見つかって笑って、書いたんだろ。


「ノアだ」


俺は白い文字の上に、指でなぞるように書いた。


「ノア兄ちゃん」


声に出す。

すると、白く薄れていた文字が、一瞬だけ濃くなった。


完全ではない。

でも、読めた。


ノア兄ちゃん、ありがとう。


「……そうだろ」


息を吐く。

まだ行ける。


消えているのは、全部じゃない。

俺が覚えている。


場所が残っている。

物が残っている。


言葉が残っている。

なら、探せる。


そう言ったのは、俺だ。

手がかりが残ってるならな、と。


ノアが、あの時笑った。

それは、僕の手がかりですか、と聞いた。


そうだ。

全部、お前の手がかりだ。


****


白い路地へ行く。

地図には、細い仮線が残っていた。


ただし、線の途中が白く途切れている。

俺は地図を見なくても歩けた。


ノアが案内してくれたからだ。

猫型清掃機が丸くなっていた軒下。


青い街灯。

水路に映る時計塔。


走る街灯の絵。


「覚えてる」


俺は一つずつ言った。


「猫の機械。青い街灯。水路の時計塔。走る街灯の絵」


落書き壁の前に立つ。

走る街灯は、さらに雑に足が増えていた。


羽も生えている。

それを見て、少しだけ笑いそうになった。


「自由だな、ミル」


誰も返事をしない。

でも、壁の絵は残っている。


そこから、白い路地へ入る。

以前、ノアが一人で入ろうとして、俺が手首を掴んだ場所。


「一人で入るな」


あの時、俺はそう言った。

今は、俺が一人で入っている。


「……人のこと言えないな」


路地の奥には、小さな空き地があった。

古い井戸。


欠けたベンチ。

色あせた祭りの札。


前と同じだ。

違うのは、井戸の横に、白い紙片みたいなものが落ちていることだった。


拾う。

巡回日誌の切れ端。


そこには、薄い字で書かれていた。


【晴人と水路沿いで丸パンを食べた】

【今日の街灯も、無事に点灯】

【晴人と確認】


「……日誌」


前に、巡回詰所でノアと日誌を書いた時の記録だ。

焦げパンなし。


丸パン。

晴人と確認。


あいつが、真面目な顔で残した文字だった。


「書いてたな」


俺は紙片を握る。

その瞬間、空中に薄い表示が出た。


【巡回記録:一部復元】


それだけ。

でも、白い路地の輪郭が少しだけ濃くなった。


「ノア」


呼ぶ。

返事はない。


でも、水路の方で街灯が光った。

そっちだ。


俺は走った。


****


水路沿いの巡回路に出る。

三基の街灯。


畳まれた脚立。

工具箱。


夜間点検の場所だ。

表示板には、まだ記録が残っていた。


【一基目:補助灯角度調整】

【二基目:異常なし】

【三基目:補助灯固定】

【巡回路:安全】


【晴人同行】

【夜間案内:手を繋いだ】


その下に、書きかけで止まったような空白がある。

ノアが、抱きとめられたことを書こうとして、俺が止めたところ。


「書くなって言ったな」


俺は小さく笑った。


「書けばよかったかもな」


脚立の近くに、白い制服の切れ端みたいな光が落ちていた。

触れると、ふっと消える。


代わりに、あの時の感触が戻る。

ノアを抱きとめた時の重さ。


思ったより軽かった。

服を掴まれた。


もう少しだけ、と言われた。


「覚えてる」


俺は表示板に手を置く。


「夜間案内。手を繋いだ。脚立から落ちかけたところを、俺が抱きとめた」


言葉にすると、空白だった一行に、薄い文字が浮かんだ。


【晴人が、巡回兵を支えた】


巡回兵。

名前はまだ出ない。


でも、そこに誰かがいたことは戻った。


「ノアだ」


俺はその下に指でなぞる。


「ノアを支えた」


文字は、すぐには出なかった。

でも、表示板の隅が少しだけ光った。


そこへ、白い通知が重なる。


【ナイトステイが発生しました】


「ここで?」


いつもの街灯の光とは違う。

白い。

冷たい。


下町の夜が、紙みたいに剥がれていく。


空中に表示が浮かぶ。


【ナイトステイ】


対象プリンス:—

帰還条件:対象プリンスの名前


「名前」


俺は表示を睨んだ。

対象プリンスは空白。


でも、帰還条件は名前。

なら、呼べばいい。


呼ぶために、ここまで来た。


「ノア」


声が、白い路地に響く。

何も起きない。


「ノア」


二度目。

水路の光が揺れる。


「ノア!」


三度目。

街灯が一斉に点いた。


白かった下町の中に、淡い金色の道が伸びる。

その先に、ベンチがあった。


星砂糖ラスクを半分にしたベンチ。

青い街灯の下。


そこに、誰かが座っている。


白い制服。

柔らかい髪。


優しい目。

でも、輪郭が少しぼやけていた。


俺は息を止めた。


「ノア」


その青年が、ゆっくり顔を上げる。

目が合う。


けれど、その目は、いつものようにぱっと明るくはならなかった。

少し迷うように、俺を見ている。


「……あなたは」


声が細い。

胸の奥が、ひゅっと冷えた。


「誰、ですか」


俺は、足を止めなかった。

一歩、近づく。


「晴人」


青年は、ぼんやりと俺を見る。


「晴人」


名前を繰り返す。

でも、音を確かめているだけみたいだった。


「ノア」


俺がもう一度呼ぶと、青年の肩が小さく震えた。


「ノア」


自分の名前を聞いたのに、不思議そうな顔をしている。


「それが」


彼は胸に手を当てる。


「僕の名前、ですか」


俺は歯を食いしばった。

怒鳴りたくなった。


でも、怒鳴ったら壊れそうだった。

だから、ゆっくり言う。


「そうだ」


ノアは、目を伏せる。


「そう、ですか」


「お前はノア。下町東区の巡回兵」

「巡回兵」


「街灯を直した。E-042。俺と二人で直した」


ノアの目が、少しだけ揺れる。


「街灯」


「記録に名前を書いた。俺の手を重ねて、ノアって書いた」

「名前を」


「工具箱を半分持った。焼き栗を食った。月蜜ミルクを飲んだ」


ノアは少しだけ眉を寄せる。


「月蜜、ミルク」

「歯車飾りを探した。霧晶ラムネを食った。成功の音って言って、拳を合わせた」


俺は拳を握る。


「こうやって」


ノアが、その拳を見る。

指が少しだけ動いた。


「白い路地で、お前が一人で入ろうとしたから止めた。手首を掴んだ」


ノアの手が、自分の手首へ触れる。


「日誌も書いた。焦げパンなし。丸パン二つ。晴人と確認」


ノアの唇が、かすかに動く。


「焦げパン、なし」

「夜の街灯点検で、手を繋いだ。脚立から落ちかけたお前を抱きとめた」


そこまで言うと、ノアの顔が赤くなった。

ほんの少し。


本当に、ほんの少しだけ。


「……抱き」

「そうだ」


「すみません」

「謝るな」


反射みたいに言った。

ノアの目が、大きくなる。


「謝るな」


俺はもう一度言う。


「俺、何回も言っただろ」


ノアの瞳が揺れた。

白い輪郭が、少しだけ濃くなる。


「晴人」


今度の声は、少しだけ違った。

俺を呼ぶ声だった。


「そうだ」


俺は近づく。

ベンチの前に立つ。


「呼んだら返事するって言っただろ」


ノアの目に、薄く光が戻る。


「僕が」

「言った」


「晴人が呼ぶなら、います、と」

「言った」


ノアは口元を押さえた。


「僕は」


声が震える。


「僕は、忘れていましたか」

「今から思い出せ」


俺はベンチの横に膝をつく。

ノアと目線を合わせる。


「全部じゃなくていい」

「晴人」


「街灯一本でもいい。ラムネでも、日誌でも、ラスクでもいい」


俺はノアを見る。


「俺は覚えてる」


ノアの目が、ゆっくり濡れていく。


「晴人」

「いるだろ」


ノアは震える手で、俺の袖を掴んだ。

前と同じ。


キスの途中で掴んだ時と、同じ手だった。


「……はい」


声は小さい。

でも、聞こえた。


「います」


その瞬間、空中の表示が変わった。


【対象プリンス:ノア】

【ナイトステイ:継続中】


白い空間の奥で、街灯が一つ、また一つと点いていく。

完全に戻ったわけじゃない。


まだ白い場所は多い。

まだ、ノアの輪郭も少し薄い。


それでも、名前は戻った。

ノアは、俺の袖を掴んだまま、泣きそうに笑った。


「晴人」

「何」


「呼んでくれて、ありがとうございます」

「まだ終わってない」


「はい」

「帰るぞ」


「はい」


ノアは頷いた。

でも、次の瞬間、白い空間が大きく揺れた。


街灯の光が、音もなく消えかける。

ノアの手が、俺の袖からすり抜けそうになる。


俺は、その手を掴んだ。


「ノア!」


ノアも、必死に握り返す。


「晴人!」


空中に、白い王冠のような輪郭が浮かんだ。

王冠。


でも、まだ形になりきっていない。

声はしない。


ただ、白く、下町の上にかぶさってくる。

俺はノアの手を握りしめる。


「離すな」

「はい」


「名前、忘れるな」


ノアは涙目で、それでも笑った。


「晴人が呼んでくれるなら」

「ああ」


「僕は、返事をします」


白い光が広がる。

表示が、最後に一つだけ浮かんだ。


【帰還条件を満たしました】

現実世界へ戻りますか? YES/NO


俺はNOを見た。


ここで戻ったら、また消えるかもしれない。

でも、今のまま留まっても、ノアの手が薄くなっている。


どうしたらいい?

分からない。

でも、何かをしなくてはいけない。このままでいる事はできない。


「ノア」

「はい」


「一回戻る」


ノアの顔が強張る。


「でも」

「また来る」


俺はノアの手を強く握った。


「通知がなくても来る」


ノアは目を見開いた。


「晴人」

「ノアって検索しても出ないなら、俺が名前を呼ぶ」


白い王冠が、ゆっくり近づいてくる。


「だから、待ってろ」


ノアは、泣きそうな顔で笑った。


「はい」

「返事しろよ」


「はい」

「絶対だぞ」


「はい、晴人」


俺はYESを押した。

白い光が、すべてを包む。


最後に聞こえたのは、ノアの声だった。


「僕は、ここにいます」


****


現実に戻ると、共有タブレットの画面は真っ白だった。

数秒後、下町東区の地図が戻る。


でも、まだところどころ白い。

街灯番号E-042。


水路カフェ。

歯車飾りの路地。


青い街灯。

白い路地。


夜間点検の橋。

ベンチ。


そこに、一つずつ小さな印がついている。

そして、画面の端。


さっきまでなかった街灯マークが、かすかに光っていた。

名前は出ていない。


対象プリンス欄も空白のまま。

でも、街灯マークは消えていない。


俺は検索欄を開いた。


【ノア】


検索結果は、まだ出ない。

でも、入力欄の端に、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。


【該当データ復元中】


俺は息を吐いた。


「待ってろ」


声に出す。

誰もいない部屋で。


画面の中の街灯が、一瞬だけ強く光った。

俺はタブレットを伏せなかった。


伏せたら、また消える気がした。

そのまま、画面を見続ける。


「ノア」


呼ぶ。

返事はない。


でも、街灯は点いている。

俺はもう一度呼んだ。


「ノア」


今度は、画面の奥で、小さく光が揺れた。

それだけで十分だった。


今は。

次は、必ず迎えに行く。


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