■10 消えた街灯の名前
翌日の夜。
共有タブレットを開いた時、俺はまず画面の端を見た。
王冠でも、薔薇でも、月でも、星でもない。
小さな街灯マーク。
下町東区の通知。
昨日、ノアが
「呼ばれたら、僕は返事をします」
と言ったから。
だから、何となく見るのが癖になっていた。
「……あるな」
街灯マークは、あった。
通知欄の端で、小さく点滅している。
開くと、下町東区のクエスト表示が出た。
【低ランク巡回クエスト】
対象プリンス:ノア
内容:夜間巡回確認
場所:下町東区・水路沿い
ほっとした。
ほっとしてから、自分で少し眉を寄せた。
「何で安心してんだよ」
低ランク巡回クエスト。
本来なら、SSRイベントのついでに開く程度のものだ。
それなのに、今は通知があるだけで落ち着く。
その時、後ろから姉が覗き込んできた。
「何見てるの?」
「別に」
「別にで下町通知見てる顔じゃないんだよなあ」
「うるさい」
姉はにやにやしたが、手にはプリンとアイスを持っていた。
「ほら、晴人。今回の成功報酬!」
「ん?」
「あれ? 忘れてた? ならいいか」
「ああ、忘れてないって」
「ふふふ、あんた、プリコドにハマりすぎじゃない?」
姉はしばらく獲得したスチルを堪能していたが、ふと画面の端を見た。
「……あれ?」
「何」
「下町通知、薄くない?」
俺は黙った。
姉が通知欄を拡大する。
街灯マークは、確かに薄い。
ただのデザインと言われればそう見える。
でも、昨日までの光とは違った。
「表示バグかな。サーバー重いのかな。SSRプリンスイベ終わりでアクセス増えてるのかも」
姉はそう言った。
一般プレイヤーとしては、その程度の反応が普通なのだろう。
「まあ、開けるなら大丈夫じゃない?」
「そうだな」
俺は、街灯マークを押した。
画面の奥が、淡く広がる。
いつもの街灯の光。
ただ、その縁が少しだけ白い。
気のせいかもしれない。
そう思うことにして、俺は画面に指を置いた。
「行くか」
次の瞬間、下町の夜気が頬に触れた。
****
下町東区は、いつも通りだった。
パン屋の看板。
水路の青いランプ。
古い街灯。
石畳。
猫型清掃機が、足元をゆっくり横切っていく。
どこも白くはない。
名前も読める。
看板も欠けていない。
俺は少しだけ息を吐いた。
「晴人」
声がした。
振り向くと、ノアがいた。
白い制服。
柔らかい髪。
優しい目。
いつもの巡回兵。
「来てくれて、ありがとうございます」
「毎回言うな」
「毎回、嬉しいので」
「そういうことを普通に言うな」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
いつものやり取り。
それだけで、さっきまでの嫌な感じが薄れる。
ノアは工具箱を持っていた。
でも、今日はそれを俺に差し出さない。
代わりに、少しだけ迷ってから、自分の横に持ち直した。
「今日は、僕が持ちます」
「珍しいな」
「はい。晴人には、手を空けていてほしくて」
「何で」
ノアはそこで、ほんの少し赤くなった。
「手を、繋ぎやすいので」
俺は黙った。
ノアも黙った。
水路の音だけが、間に流れる。
「……強くなったな」
「晴人が、少しずつ慣らしてくれました」
「何を」
「晴人に甘えることを」
「外で言うな」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
ノアは、恥ずかしそうに笑った。
それから、そっと手を出す。
前は、巡回兵として。
暗い道だから。
迷子にならないように。
そんな理由をつけた。
でも今は、何も言わない。
ただ、手を出す。
俺はその手を握った。
「行くぞ」
「はい」
ノアの指が、嬉しそうに握り返してくる。
低ランク巡回クエスト。
ただの街灯点検。
それなのに、歩き出すだけで少し胸の奥が落ち着いた。
****
一基目の街灯は異常なし。
二基目は霧晶石の角度が少しずれていた。
ノアが脚立を出そうとした瞬間、俺は無意識にその横へ立っていた。
ノアが気づいて、少しだけ笑う。
「晴人」
「何」
「落ちません」
「前科があるだろ」
「あります」
「認めるのかよ」
「はい。ですが、あの時のことは、嫌な記憶ではありません」
ノアは脚立に手をかけたまま、赤くなった。
「晴人が、抱きとめてくれたので」
「だから外で言うな」
「ここは下町です」
「外だろ」
「でも、晴人と僕の巡回路です」
言い返せない。
最近のノアは、こういう時だけ妙に強い。
俺は脚立を押さえる。
「早く直せ」
「はい」
ノアが補助灯の角度を直す。
街灯の光が、水路にまっすぐ伸びた。
青い光が揺れる。
ノアは脚立から降りて、ほっとしたように笑った。
「できました」
「おう」
「晴人が押さえてくれていると、安心します」
「脚立をな」
「はい」
少し間を置いて、ノアが小さく言う。
「僕も」
俺は、聞かなかったふりをした。
たぶん顔に出ていた。
ノアが嬉しそうにしているからだ。
****
三基目の街灯を確認した後、ノアはいつものように巡回記録を開いた。
【街灯番号E-042:異常なし】
【水路沿い巡回路:異常なし】
【晴人同行】
ノアは記録ペンを持ち、迷わず一行追加する。
【手を繋いで巡回】
「それいるか?」
「重要です」
「街灯点検に?」
「はい」
「どこが?」
ノアは真面目な顔で言った。
「晴人が来てくれた証拠です」
胸の奥が、少し詰まった。
証拠。
ノアがそこにいた証拠。
俺が来た証拠。
二人で歩いた証拠。
「……なら書いとけ」
「はい」
ノアは嬉しそうに頷く。
さらに、もう一行書こうとして、手を止めた。
「何を書く気だ」
「晴人が、今日も来てくれて嬉しかったことを」
「日誌じゃなくて感想文だろ」
「巡回日誌です」
「感想日誌だ」
「では、短くします」
「そういう問題じゃない」
ノアは楽しそうに笑った。
その時だった。
記録板の表示が、一瞬だけ揺れた。
【晴人同行】
その下。
ノアが書いたばかりの一行。
【手を繋いで巡回】
その横に、自動入力されるはずの担当欄が出る。
【巡回兵:ノア】
……のはずだった。
表示は、白く滲んだ。
【巡回兵: 】
俺もノアも、同時に黙った。
「今」
ノアが小さく言う。
「僕の名前が」
記録板は、何事もなかったように点滅している。
俺はノアの手からペンを取った。
空白の欄に、直接書く。
【ノア】
一瞬、文字は入った。
けれど、すぐに白く薄れていく。
「おい」
もう一度書く。
【ノア】
また薄れる。
ノアの顔から、少し色が引いた。
「晴人」
「バグだろ」
自分でも雑な言い方だと思った。
でも、そう言わないと嫌だった。
ノアは記録板を見つめている。
「僕は、ここにいます」
「ああ」
「いますよね」
「ああ」
俺はノアの手を掴んだ。
「いる」
ノアが俺を見る。
「晴人」
「呼んだら返事するって言っただろ」
ノアの目が揺れる。
「はい」
「ノア」
俺は、はっきり呼んだ。
ノアは少しだけ息を呑み、それから返事をした。
「はい、晴人」
その瞬間、記録板の空白に、ほんの一瞬だけ文字が戻った。
【巡回兵:ノア】
けれど、また薄れる。
完全には戻らない。
「……一瞬戻ったな」
「はい」
ノアは胸元を押さえる。
「呼ばれると、分かります」
「何が」
「僕が、僕だと」
その声が、少し震えていた。
俺はノアの手を強く握った。
「じゃあ呼ぶ」
「はい」
「何度でも呼ぶ」
ノアは、泣きそうな顔で笑った。
「晴人は、簡単に言いますね」
「難しいのかよ」
「いいえ」
ノアは首を横に振る。
「嬉しいです」
またそういうことを言う。
でも、今は突っ込まなかった。
****
巡回を続けることにした。
ノアは
「大丈夫です」
と言った。
けれど、少しだけ手の力が強くなっている。
俺はそのまま握っていた。
パン屋の前を通ると、店主が片づけをしていた。
「ノアくん、今日も巡回かい?」
ノアがほっとしたように顔を上げる。
「はい」
店主には、ノアが見えている。
それだけで、少し安心した。
店主は紙袋を一つ渡してきた。
「これ、余った星砂糖ラスク。二人で食べな」
「ありがとうございます」
ノアは両手で受け取る。
俺を見る。
「ベンチで食べますか」
「巡回中だろ」
「巡回路の確認も兼ねます」
「便利な言い訳だな」
「はい」
ノアは少しだけ笑う。
その笑顔は、さっきより自然だった。
水路沿いのベンチに座る。
青い街灯。
静かな水面。
遠くに映る時計塔。
ノアが紙袋を開ける。
星砂糖ラスクは一枚だけだった。
「半分だな」
「はい」
ノアが嬉しそうに頷く。
俺が割ると、少し不格好に割れた。
大きい方をノアに渡す。
「ほら」
「ありがとうございます」
「大げさ」
「晴人と分けるものは、大事なので」
「だから、そういうことを」
言いかけて、やめた。
ノアは少し不思議そうに首を傾げる。
俺は水路を見る。
「何でもない」
ノアは、星砂糖ラスクを小さくかじった。
口元に砂糖がつく。
いつもの場所。
「またついてる」
「え」
ノアが慌てて自分の口元を触る。
やっぱり違う場所だった。
「そこじゃない」
「ここですか」
「違う」
前と同じ。
でも、同じであることが、今日はやけに大事だった。
俺は指先で、ノアの口元の砂糖を払った。
ノアは目を伏せる。
少し赤い。
「取れた」
「はい」
ノアは小さく笑う。
「ありがとうございます、晴人」
その瞬間、ベンチの下に薄い白い線が走った。
俺は気づいて、下を見る。
石畳の隙間。
そこに、白い亀裂みたいなものが一瞬だけ出て、消えた。
ノアも気づいたらしい。
「今の」
「見間違いだ」
「晴人」
「今はラスク食え」
ノアは少しだけ困った顔をした。
でも、俺の言い方に乗ってくれた。
「はい」
その優しさが、少し痛かった。
****
巡回の終わりに、ノアは水路沿いの街灯を見上げた。
「今日も、下町は大丈夫です」
「そうだな」
「晴人も、来てくれました」
「それも大丈夫に入るのか」
「はい」
ノアは迷わず頷く。
「僕にとっては、重要です」
その言葉を聞いた瞬間、空中に表示が出た。
【ナイトステイが発生しました】
いつもなら、街灯の光が柔らかく広がる。
けれど今日は違った。
光の縁が、少し白い。
冷たいわけではない。
でも、いつもの温度ではない。
【ナイトステイ】
対象プリンス:ノア
場所:下町東区・巡回兵宿舎
帰還条件:キス
対象プリンスの名前は、今度は表示された。
ノア。
ちゃんと出ている。
俺は少しだけ息を吐いた。
ノアも、ほっとしたように笑った。
「ちゃんと、僕が指名されています」
「ああ」
「晴人が、呼んでくれたので」
「まだ分からないだろ」
「でも、そう思いたいです」
ノアは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
俺は、その顔を見て何も言えなくなる。
街灯の光が広がり、巡回兵宿舎へ移動した。
小さな部屋。
木製の椅子。
古いランプ。
壁の巡回札。
小さなベッド。
何度も来た場所。
けれど今日は、どこか輪郭が薄い。
古いランプの光も、少しだけ白く滲んでいる。
ノアはそれを見て、眉を寄せた。
「今日は、少し変ですね」
「バグだろ」
「晴人は、先ほどからそればかりです」
「便利だからな」
「便利な言葉に、逃げています」
「言うようになったな」
「晴人が育てました」
「それも便利だな」
ノアは小さく笑った。
けれど、その笑顔は完全ではなかった。
俺はノアへ近づく。
「ノア」
「はい」
名前を呼ぶ。
返事が返る。
それだけで、空気が少し戻る。
「もう一回」
ノアが言った。
「何を」
「名前を、呼んでください」
俺は少しだけ黙った。
それから、言った。
「ノア」
「はい」
「ノア」
「はい、晴人」
「ノア」
ノアの目が、ゆっくり潤む。
「はい」
「何回でも返事するんだろ」
「はい」
ノアは、俺の服を掴んだ。
「晴人が呼ぶなら、僕は返事をします」
「じゃあ返事し続けろ」
「はい」
俺はノアの頬に触れた。
キスは、いつもより少し長かった。
帰るための条件。
そう分かっていても、もうそれだけではなかった。
ノアの手が俺の服を掴む。
俺も、ノアの背に腕を回す。
離れかける。
ノアが少しだけ追いかけてくる。
俺も、離れなかった。
もう一度。
唇が重なる。
古いランプの光が、少しだけ強くなる。
白く滲んでいた部屋の輪郭が、一瞬だけ濃くなった。
けれど、離れた瞬間、ノアの指先が少し透けた。
俺はその手を掴んだ。
「ノア」
ノアが自分の手を見る。
「……はい」
「そこにいろ」
「はい」
「消えるな」
ノアは、泣きそうな顔で笑った。
「晴人が呼んでくれるなら」
「ああ」
「僕は、ここにいます」
空中に表示が出た。
【帰還条件を満たしました】
現実世界へ戻りますか? YES/NO
NO。
そんな選択肢もあるのか。
俺は、初めてその可能性を考えた。
ノアは手を握ったまま、何も言わない。
帰ってほしくない顔をしている。
でも、引き止めない。
それがノアだった。
「一回戻る」
俺は言った。
ノアの手に力が入る。
「はい」
「また来る」
「はい」
「通知が薄くても、名前が出なくても、来る」
ノアの目が揺れる。
「晴人」
「呼べば返事するんだろ」
「はい」
「なら大丈夫だ」
大丈夫かどうかなんて分からない。
でも、言うしかなかった。
ノアは頷いた。
「はい、晴人」
俺はYESを押した。
街灯の光が広がる。
最後に、ノアの声が聞こえた。
「僕は、ここにいます」
****
現実に戻ると、共有タブレットの画面は一瞬だけ白かった。
数秒後、下町東区のホーム画面が戻る。
パン屋。
水路。
街灯。
巡回路。
表示はある。
でも、画面の端の街灯マークが薄い。
俺はすぐに検索欄を開いた。
【ノア】
検索結果は、出た。
一瞬だけ。
【Cプリンス:ノア】
表示された次の瞬間、白く滲んだ。
検索結果なし。
俺は息を止めた。
もう一度打つ。
【ノア】
検索結果なし。
ひらがな。
【のあ】
検索結果なし。
カタカナ。
【ノア】
検索結果なし。
「……いるだろ」
声が出た。
昨日までいた。
今もいた。
さっきまで、俺の手を握っていた。
名前を呼べば、返事をした。
「いるだろ」
もう一度言う。
今度は、さっきよりはっきり。
画面の端が、小さく震えた。
通知欄が開く。
白い通知。
件名なし。
対象なし。
ただ、街灯マークだけが、薄く点滅している。
【低ランク巡回クエスト】
対象プリンス:—
内容:巡回確認
場所:下町東区・ 沿い
場所の一部が空白だった。
でも、分かる。
水路沿いだ。
青い街灯の先。
ベンチ。
星砂糖ラスクを半分にした場所。
俺は、画面に手を置いた。
けれど、今回はすぐに入れなかった。
街灯マークは、弱く光るだけだった。
姉が後ろから声をかけてきた。
「晴人? どうしたの?」
「ノアが出ない」
「え?」
姉が画面を覗き込む。
検索欄。
通知。
空白の対象プリンス。
姉は眉を寄せた。
「表示バグ? サーバー重いのかな。C一覧も今、一瞬だけ数字変じゃなかった?」
「数字?」
「ほら、Cプリンス一覧。いつも150種でしょ。今、一瞬だけ149って出た気がした」
姉はすぐに一覧を開く。
表示は、150に戻っていた。
「戻ってる。やっぱバグかな」
「……そうか」
姉はまだ不思議そうに画面を見ている。
「ノアくん、最近よく開いてたから、履歴に残っててもよさそうなのにね」
「履歴は?」
俺が聞くと、姉が履歴を開く。
下町東区の履歴は残っている。
街灯番号E-042。
水路カフェ。
歯車飾りの路地。
夜間点検。
星砂糖ラスク。
でも、担当プリンス欄だけが白かった。
【担当プリンス:—】
俺は、画面を見つめた。
姉は小さく首を傾げる。
「変だね。運営に不具合報告した方がいいかも」
「こういうバグの修復って、すぐに対応されるもの?」
「どうかな……大多数のユーザーに影響ないのは放置もあるね」
「放置……」
「まぁ、一応報告はしておく」
「頼む。俺は、少し調べるよ」
「え、晴人が?」
姉が変な顔をする。
「まあ、あまり無理しないでよ。たぶん表示バグだし、そのうち直ると思うから」
姉はそう言って、SSRの限定スチル画面に戻っていった。
普通の反応だった。
バグ。
サーバー不調。
表示揺れ。
そのうち直る。
それで片づく話。
でも、俺は違う。
俺は、ノアの手を握っていた。
ノアが返事した声を聞いていた。
だから、バグで終わらせられない。
画面の端で、街灯マークがかすかに光る。
名前は出ていない。
対象プリンス欄も空白のまま。
でも、街灯マークは消えていない。
俺は、画面に向かって言った。
「ノア」
返事はない。
タブレット越しに、自由な会話はできない。
それでも呼んだ。
「ノア」
二度目。
画面の奥で、小さく光が揺れた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
今は。
俺はタブレットを伏せなかった。
伏せたら、また消える気がした。
そのまま、画面を見続ける。
街灯マークは、薄く、細く、それでも点いている。
「待ってろ」
誰もいない部屋で、声に出した。
「次は、必ず迎えに行く」
画面の奥で、街灯が一度だけ強く光った。




