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■9-3 ノア編:街灯下のベンチと、呼ぶ名前

【低ランク巡回クエスト】

対象プリンス:ノア

巡回後確認

場所:下町東区・水路沿いベンチ


「今、遅れて出たな」


俺は画面を見た。

下町東区。


水路沿い。

前にノアが案内してくれた青い街灯の先に、小さなベンチがある。


ノアはそこに立っていた。

手には、薄い紙袋。


工具箱も脚立もない。

珍しく、何かの修理中ではなかった。


『巡回兵ノアです』


声は、いつも通り丁寧だった。

けれど、少しだけ照れているようにも聞こえた。


『本日の巡回は、完了しています』


そこで、ノアは紙袋を両手で持ち直した。


『晴人。もしよろしければ、少しだけ休憩していきませんか』


休憩。

仕事ではなく。


修理でもなく。

探し物でもなく。


「……完全に寄り道じゃないか」


そう言いながら、俺はもう画面を閉じていなかった。

街灯の光が伸びる。


次の瞬間、俺は水路沿いのベンチの前に立っていた。


****


夜の下町は、静かだった。

水路に街灯が映り、ゆっくり揺れている。


遠くでパン屋の戸締まりの鈴が鳴った。

青い街灯の下、ノアが紙袋を持って立っている。


「ノア」


俺が呼ぶと、ノアは顔を上げた。


「晴人」


その声が、少し弾んだ。


「巡回、終わったんだろ」

「はい。今日は、大きな異常はありませんでした」


「じゃあ何で呼んだ」


ノアは紙袋を少し持ち上げる。


「パン屋さんで、星砂糖ラスクを買いました」

「買ったのか」


「はい」

「巡回中に?」


「巡回後です」

「ちゃんとしてるな」


「はい」


ノアは真面目に頷いた。

それから、少しだけ耳を赤くする。


「晴人と、食べたかったので」


そういうことを、最近このCプリンスはわりと普通に言う。

俺の方が困る。


「じゃあ座るか」

「はい」


俺たちはベンチに並んで座った。

前は距離を少し空けていた気がする。


今日は、最初から近い。

肩が触れるほどではないが、手を伸ばせばすぐ届く距離だった。


ノアは紙袋を開ける。

中には、星の形をした小さなラスクが入っていた。


表面に白い砂糖が薄くかかっている。

街灯の光を受けると、本当に星の欠片みたいに見えた。


「下町、食べ物まで凝ってるな」

「パン屋さんの新作です」


「宣伝か?」

「おすすめです」


ノアは真面目な顔で一つ差し出す。

俺は受け取って食べた。


さくっと軽い音がする。

甘い。


前に食べた霧晶ラムネとは違って、静かに甘い。


「うまいな」

「はい」


ノアは、自分が褒められたみたいに嬉しそうに笑った。


「お前、相変わらず下町のもの褒めると嬉しそうだな」

「好きな場所なので」


「そうか」

「はい」


ノアは水路を見る。


「晴人にも、好きになってもらえたら嬉しいです」

「もうだいぶ詳しくなったぞ」


「本当ですか」

「青い街灯、猫の機械、走る街灯の絵、水路の時計塔、ラムネの場所、カフェ、巡回詰所」


指を折って言うと、ノアの顔がどんどん明るくなった。


「全部、覚えてくれています」

「案内したのお前だろ」


「はい」

「なら覚えるだろ」


ノアは少し黙る。

それから、小さく笑った。


「晴人が覚えてくれると、下町が少し広くなる気がします」

「どういう意味だよ」


「僕にも、まだよく分かりません」

「分からないまま言うな」


「すみません」

「謝るな」


「はい」


そう返す声が、もう完全に慣れている。

俺も、それを当然のように聞いている。


****


星砂糖ラスクを食べながら、水路を眺めた。

大きな事件はない。


壊れた街灯もない。

落とし物もない。


白い路地も、脚立も、日誌もない。

ただ、巡回が終わった後のベンチに、二人で座っているだけだった。


ノアは紙袋の中を見て、少しだけ考え込む。


「晴人、最後の一つです」

「食えばいいだろ」


「半分にしませんか」

「小さいぞ」


「はい。でも、半分にしたいです」


理由を聞く前に、ノアはラスクを両手で持って、慎重に割った。

思ったより不器用で、星の片側が少し大きくなった。


ノアは大きい方を俺に渡そうとする。


「逆だろ」

「晴人の方が」


「俺の方が何だよ」

「……よく食べるかと」


「雑な気遣いだな」

「すみません」


「謝るな」


俺は小さい方を取った。

ノアは少し不満そうだったが、結局大きい方を食べた。


その姿が少し面白い。


「ちゃんと食えよ」

「はい」


ノアは真面目にラスクを食べる。

けれど、粉砂糖が口元についた。


「ノア」

「はい」


「ついてる」

「え」


ノアが慌てて自分の口元を触る。

見事に違う場所だった。


「そこじゃない」

「ここですか」


「違う」


前にも似たようなことがあった気がする。

俺は指を伸ばしかけて、止めた。


その瞬間、ノアが先に動いた。


「晴人も、ついています」

「俺?」


「はい」


ノアの指が、俺の口元にそっと触れた。

粉砂糖を払う。


指先が触れて、すぐ離れる。

その一瞬で、妙に空気が静かになった。


ノアも、触ってから自分で驚いた顔をしている。

耳まで赤い。


「取れました」

「そうか」


「はい」

「お前、自分のは取れてないぞ」


「え」


今度は俺が、ノアの口元の粉砂糖を払った。

ノアは動かなかった。


前なら、たぶん固まって、謝って、目を逸らしていた。

今日は違う。


赤くなりながらも、ちゃんと俺を見ている。


「取れた」

「ありがとうございます」


「最近、近いな」


言ってから、俺の方が少し固まった。

ノアも目を見開く。


「僕が、ですか」

「たぶん」


「嫌ですか」


返事が早かった。

その早さに、少しだけ胸の奥が変な感じになる。


俺は水路を見る。


「嫌じゃない」


短く答える。

ノアは何も言わなかった。


でも、横で小さく息を吐いたのが分かった。

安心したみたいな息だった。


「晴人も」

「何」


「最近、少し近いです」

「俺が?」


「はい」

「気のせいだろ」


「そうでしょうか」


ノアは少しだけ笑った。


「では、そういうことにしておきます」


前は俺が誤魔化してばかりだった。

最近、ノアも少しだけ誤魔化し方を覚えてきた気がする。


****


休憩を終えて、ノアはベンチの横の巡回札を確認した。


「今日の巡回後確認、完了です」

「休憩しただけじゃないのか」


「巡回後の安全確認です」

「便利な言い訳だな」


「はい」


ノアは楽しそうに頷いた。

その時、街灯の光が一瞬だけ揺れた。


ノアの輪郭が、街灯の白い光に溶けるように見えた。

本当に一瞬だけ。


目を瞬かせると、いつものノアがそこにいる。


「ノア」


俺が呼ぶと、ノアはすぐに振り向いた。


「はい」

「今」


「どうしましたか」

「いや」


俺はノアを見る。

白い制服。


柔らかい髪。

優しい目。


口元には、さっきの粉砂糖がもうない。

そこにいる。


普通に。


「何でもない」


ノアは少しだけ首を傾げた。

その胸元の小さな表示欄が、街灯の光で見えた。


【C】


その文字が、一瞬だけ薄くなる。

空白になりかけて、すぐ戻った。


ノアはそれに気づいていない。

俺だけが見たのかもしれない。


「ノア」


もう一度呼ぶ。

ノアは、今度は少し驚いたように笑った。


「はい、晴人」

「そこにいろ」


言ってから、自分で少し驚いた。

何を言っているんだ、俺は。


ノアも目を丸くする。

それから、ゆっくり笑った。


「はい」


声は穏やかだった。


「晴人が呼ぶなら、います」


重い言い方ではなかった。

ただ、当たり前みたいに言った。


だから余計に、少しだけ胸に残った。


「じゃあ、呼ぶ」

「はい」


「何回でも」


ノアの目が揺れる。

でも、次の瞬間、街灯の光がふわりと広がった。


【ナイトステイが発生しました】


ノアは赤くなった。

でも、今日は驚きより、嬉しさの方が先に来たように見えた。


水路の音が遠くなる。

ベンチと街灯と、二人分の星砂糖ラスクの包みだけが、淡い光の中に残る。


空中に表示が浮かぶ。


【ナイトステイ】


対象プリンス:ノア

帰還条件:対象プリンスとのキス

※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります


ノアが言う。


「今日は、巡回後の休憩でした」


「ラスク食った」

「はい」


「口元の粉も取った」


ノアが赤くなる。


「それも、ありました」

「日誌に書くなよ」


「書きません」

「本当か?」


「たぶん」

「たぶんか」


ノアは小さく笑った。

それから、少しだけ近づく。


俺も身をかがめた。

今日は、どちらが先とも言えなかった。


ノアの手が、俺の服を掴む。

前より自然に。


俺の手も、ノアの肩に軽く触れていた。

気づいた時には、もう触れていた。


キスは、長かった。

今までより長い。


唇が触れて、すぐには離れない。

ノアの息が、近い。


街灯の光が、まぶたの裏で揺れる。

離れようとすると、ノアがほんの少しだけ追いかけた。


俺も、今度はすぐに離れなかった。

もう一度、軽く触れる。


ノアの指が服を掴む力が、少し強くなる。

それでも乱暴ではない。


真面目で、丁寧で、でも確かに欲しがっているキスだった。


離れると、ノアは真っ赤だった。

俺も、たぶん似たような顔をしていた。


「晴人」

「何」


「今のは」

「言うな」


「はい」


ノアは笑った。

でも、目はまだ少し潤んでいる。


「嫌では、なかったです」

「だから言うな」


「すみません」

「謝るな」


「はい」


そのやり取りが、前よりずっと近い。

空中に表示が浮かぶ。


【帰還条件を満たしました】

現実世界へ戻りますか? YES/NO


青い街灯。

ベンチ。


星砂糖ラスクの紙袋。

粉砂糖を取った指。


「そこにいろ」と言った自分の声。

「晴人が呼ぶなら、います」と返したノアの声。


「ノア」


呼ぶと、ノアはすぐに返事をした。


「はい」

「次は、水色の街灯だったな」


「はい。夜明け前です」

「早すぎる」


「巡回ですので」

「便利な言い訳」


「はい」


ノアは笑った。


「でも、半分は違います」

「知ってる」


今度は、言っても固まらなかった。

俺も、ノアも。


ノアは嬉しそうに微笑む。


「では、夜明け前に」

「起きられたらな」


「起こします」

「どうやって」


「通知を出します」

「便利だな」


「はい」


ノアは少しだけいたずらっぽく笑った。

そんな顔もするようになったのか。


俺はYESを押した。

街灯の光が白く広がる。


最後に、ノアの声が聞こえた。


「晴人。呼ばれたら、僕は返事をします」


****


現実に戻ると、タブレットには水路沿いのベンチが映っていた。

青い街灯。


半分に割った星砂糖ラスクの紙袋。

巡回札。


ノアの姿はない。

けれど、ベンチの端に、小さな白い粉砂糖が残っていた。


俺はしばらく画面を見ていた。

口元に触れた指。


長かったキス。

少し追いかけてきたノア。


呼べば返事をする、と言った声。


「ノア」


呼ぶ必要なんてなかった。

画面の中に、ノアはいない。


それでも、名前が出た。

街灯の光が、一瞬だけ強くなった気がした。


俺はタブレットを伏せる。

ゲームの音声でも、画面の演出でもない。


ただ、自分の声で呼んだだけだ。


「……何やってんだ、俺」


そう呟いて、少し笑った。

それでも、次に街灯マークが光ったら、たぶんすぐ開く。


そこまでは、もう分かっていた。


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