■9-2 イヴァン編:黒薔薇の舞台俳優は、端役の夜を忘れない
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公演が終わった後も、拍手は長く続いた。
観客はイヴァンの名だけを呼んでいなかった。
「素晴らしい舞台だった!」
「端の役まで生きていた!」
「黒薔薇劇場が、全部美しかった!」
若い端役は、舞台袖で泣きそうな顔をしていた。
誰かに怒られると思っていたのかもしれない。
でも、今は役者仲間に肩を叩かれている。
「よかったぞ」
「ちゃんと繋いだな」
「銀杯、持ち直したところ綺麗だった」
若い俳優は、何度も頷いていた。
イヴァンはそれを見ていた。
扇で口元を隠している。
けれど、視線は逸らしていない。
俺が近づくと、イヴァンは静かに言った。
「見られる側になるのは、怖いだろうね」
「端役のことか」
「それだけではないよ」
「お前もか」
イヴァンは答えなかった。
扇の奥で、小さく笑う。
「晴人」
「何」
「どうして分かった」
「何が」
「私が、端を見ないようにしていたと」
そんなふうに聞かれるとは思っていなかった。
俺は少し考える。
「お前を見てれば分かるさ」
イヴァンの扇が止まる。
「舞台袖のやつらが息を殺してた。小道具を落とした奴を助けたのに、本人は見なかった。客席の視線が逸れるたび、目が鋭くなってた」
「……」
「主役なのに、ずっと見られてるか確かめてるみたいだった」
イヴァンは何も言わなかった。
紫がかった瞳が、俺をじっと見る。
華やかで、綺麗で、嘘みたいな顔をしているのに、その奥が少しだけ揺れていた。
「罪な男だ」
「何が」
「そういうことを、何の飾りもなく言うところが」
「悪かったな」
「謝らないで。余計に悪い」
「どっちだよ」
イヴァンは扇で口元を隠した。
けれど、耳が少し赤い。
「無自覚なら、なお悪い」
「何の話だ」
「舞台俳優を困らせる観客の話だよ」
「俺、観客なのか裏方なのかどっちだ」
「今夜は両方」
「雑だな」
「美しく言えば、多面的な役割だ」
「やっぱり雑だろ」
イヴァンは声を出して笑った。
その笑い方は、舞台上の完璧な笑みとは少し違っていた。
黒薔薇劇場の灯りが、ゆっくり柔らかくなる。
幕の向こうから、まだ拍手の余韻が聞こえる。
舞台全体に降った黒薔薇の花弁が、淡く光り始めた。
空中に表示が浮かぶ。
【黒薔薇劇場 特別公演:成功】
【魅了結界:安定化】
【主役交代演出:成立】
【端役演者評価:更新】
イヴァンは、舞台袖を見ていた。
見ないようにしていた場所にも、舞台の光が届いたことを。
劇場の音が遠ざかる。
拍手も。
楽団の音も。
舞台裏の足音も。
黒薔薇の花弁が、俺とイヴァンの周りを丸く囲んだ。
イヴァンは扇をゆっくり閉じる。
「晴人」
「何」
「主役であることを、捨てろとは言わなかったね」
「言ってないな」
「端役が舞台を支えている、と言った」
「言ったな」
「……それは、少し困る」
「何で」
「主役でいる理由が、変わってしまう」
イヴァンは舞台中央を見る。
「見られるためだけではなく、見せるために立つことになる」
「いいんじゃないか」
イヴァンは、扇の奥で笑った。
「簡単に言う」
その声と同時に、空中に新しい表示が浮かんだ。
【ナイトステイが発生しました】
対象プリンス:イヴァン・ローゼンクローネ
帰還条件:対象プリンスとのキス
※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります
イヴァンは、ゆっくり瞬きをした。
「帰還条件、か」
「分かっているのか」
「ああ、分かっている、キスだろ」
「なら口に出さないでも」
「舞台俳優は、言葉にすると呼吸が整うんだ」
「便利だな、舞台俳優」
「とても便利」
イヴァンはそう言って、笑った。
けれど、その笑みは少し落ち着かない。
黒薔薇の花弁が一斉に舞い上がる。
劇場の客席が遠ざかる。
幕が下りた舞台も、舞台袖のざわめきも、楽屋へ向かう足音も、薄い霧の向こうへ消えていく。
気づけば、俺たちは夜の黒薔薇劇場に立っていた。
客席には誰もいない。
シャンデリアの明かりは落とされ、舞台上だけに淡い月光が差している。
深紅の幕は下りたまま。
舞台中央には黒薔薇の花弁が散っている。
観客のいない劇場は、さっきまでとはまるで別の場所だった。
静かで、広い。
拍手がない分、足音がやけに響く。
イヴァンは舞台中央へ向かいかけて、途中で止まった。
中央ではなく、舞台袖と中央の間。
光が少しだけ届く場所。
「そこに立つのか」
俺が言うと、イヴァンは足元を見た。
「癖で中央へ行きかけた」
「今は行かないんだな」
「君に見られているからね」
「俺のせいか」
「そうだよ」
イヴァンは扇で口元を隠そうとして、途中で止めた。
それから、ゆっくり扇を閉じる。
「これも、今は要らないかな」
「いいのか」
「舞台が終わった後くらい、口元を隠さずにいてもいいだろう」
そう言って、イヴァンは扇剣を舞台脇の小机に置いた。
黒薔薇の礼装のままなのに、それだけで少し印象が変わる。
観客へ向けた主役の顔ではなく、幕が下りた後の役者の顔。
華やかさは消えない。
けれど、少しだけ近くなった。
「晴人」
「何」
「端役の価値を見る主役、というのは、なかなか難しい」
「そうか」
「主役は、見られるために立つものだと思っていた」
「うん」
「だが、今日の舞台は、私一人では死んでいた」
イヴァンは、誰もいない客席を見る。
「すべての視線を奪えば勝ちだと思っていた。視線が集まるほど、私は存在していられると思っていた」
「うん」
「けれど、視線を奪いすぎると、舞台が消える」
「今日、そうだったな」
「ええ」
イヴァンは、少しだけ苦笑した。
「主役なのに、舞台を殺しかけた」
「止めたろ」
「君が銀杯を拾ったからね」
「俺の手柄にするな」
「では、君が舞台にいたから」
「それも大げさ」
「舞台俳優は大げさに言うものだよ」
「便利だな」
「とても」
イヴァンは笑った。
その笑みは、さっきより素直だった。
空中には、帰還条件の表示が静かに浮かんでいる。
【帰還条件:対象プリンスとのキス】
「さて、どうする」
「どうする、とは?」
「条件」
「そうだな、君を帰すためには、満たす必要がある」
「急に真面目だな」
「こういう時に茶化すほど、私は余裕がないらしい」
その言い方が、少し意外だった。
イヴァンは舞台上で一歩だけこちらへ近づく。
月光が、彼の紫がかった目に入る。
「嫌なら言えよ」
俺が先に言うと、イヴァンは目を瞬いた。
それから、扇のない手で口元に触れかけて、また止めた。
「それを、私に聞くのかい」
「お前以外に誰がいる」
「主役は、求められて当然のように振る舞うものだ」
「今は舞台終わってるだろ」
イヴァンは黙った。
少しだけ、目を伏せる。
「そうだね」
小さな声だった。
「終わっている。拍手もない。観客もいない」
「うん」
「なら、イヴァン・ローゼンクローネとして答えるべきか」
「そうしてくれ」
イヴァンは少し笑った。
困ったような、照れたような笑みだった。
「嫌ではないよ」
「そうか」
「むしろ」
そこで言葉を止める。
「むしろ?」
「……舞台の台詞に逃げたくなるくらいには、落ち着かない」
「逃げるなよ」
「努力する」
「努力なのか」
「大変な努力だよ。私は、言葉を飾ることに慣れすぎている」
イヴァンはもう一歩近づいた。
近い。
薔薇の香りがする。
劇場の埃と、舞台化粧と、黒薔薇の魔法が混ざったような匂い。
華やかなのに、どこか寂しい。
「晴人は?」
「嫌じゃない」
答えると、イヴァンはほんの少し息を止めた。
「そう」
「何だ」
「いや」
「言えよ」
「無粋なほど真っ直ぐだね」
「褒めてないな」
「褒めている」
「嘘っぽい」
「半分は本当」
「半分かよ」
イヴァンは笑った。
今度は、ちゃんと楽しそうだった。
そして、ふと俺の手を見る。
「君の手」
「手?」
「銀杯を拾った手だ」
「そうだけど」
「舞台を支えた手だね」
「大げさ」
「大げさではないよ」
イヴァンは、俺の手にそっと触れた。
役者の手だった。
細く見えるのに、意外と力がある。
扇剣を扱う手。
拍手を受ける手。
舞台の中心で視線を集めてきた手。
その手が、今は俺の指先を確かめるように触れている。
「端役の手も、裏方の手も、舞台を支える」
「うん」
「そして、見つけた者も」
「俺か」
「そう」
イヴァンは俺を見る。
「君は、私が見ないようにしていた端を見た」
「見えたからな」
「その言葉、本当に困る」
「何で」
「逃げ場がなくなる」
「舞台袖は?」
「そこも君に見られた」
「客席は?」
「君は観客でもある」
「じゃあ、どこに逃げるんだ」
イヴァンは少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「逃げない、という選択もあるのかな」
「あるんじゃないか」
「簡単に言う」
「難しくしたいのか」
イヴァンは笑った。
「したくないね」
距離が、近くなる。
イヴァンは最後まで俺を見ていた。
客席へ向ける視線ではない。
舞台の上から全員を魅了する目でもない。
一人だけを見る目だった。
「晴人」
「何」
「今夜は、主役としてではなく」
そこで、また少し迷う。
「……一人の役者として、君に見られてもいい」
言った後、イヴァンは自分で少し驚いたような顔をした。
言葉を飾らなかったせいだろう。
俺まで少し黙る。
「そういうの、結構すごいこと言ってるぞ」
「分かっている」
「分かって言うのか」
「分からずに言う方が、怖いからね」
イヴァンの指が、俺の手に絡む。
強引ではない。
でも、離れない。
幕の下りた劇場で、黒薔薇の花弁が足元を滑る。
キスは、思ったより静かだった。
もっと派手に来るのかと思った。
芝居がかった台詞を添えて、舞台みたいに美しく決めるのかと思った。
けれど、イヴァンはそうしなかった。
近づく直前、少しだけ目を伏せた。
素顔を見せるみたいに。
唇が触れる。
薔薇の香りが近くなる。
最初は、触れるだけ。
でも、すぐに離れない。
イヴァンの指が、俺の手を少しだけ強く握る。
拍手もない。
観客もいない。
なのに、イヴァンは逃げなかった。
二度目に重なった時、黒薔薇の花弁がふわりと舞った。
舞台装置ではない。
魅了結界でもない。
ただ、魔法が感情に反応したみたいに。
離れると、イヴァンは目を伏せたままだった。
「……今のは」
「何」
「舞台では使えないね」
「何で」
「私の顔が、たぶん美しく整っていない」
「見てないと分からないだろ」
「見ないでくれるのかい」
「見るけど」
イヴァンが目を開ける。
「ひどい観客だ」
「観客なのか」
「今は、そういうことにしておく」
「逃げたな」
「少しだけ」
イヴァンは笑った。
けれど、扇で隠さなかった。
その顔は、確かに少し崩れていた。
でも、悪くなかった。
空中に表示が浮かぶ。
【帰還条件を満たしました】
現実世界へ戻りますか? YES/NO
イヴァンは俺の手を握ったまま、誰もいない客席を見た。
そして、ゆっくり舞台袖を見る。
若い端役が立っていた場所。
銀杯が落ちた場所。
光が当たった場所。
「戻るのかい」
「戻る」
「そう」
「扇、持たなくていいのか」
イヴァンは舞台脇の小机に置いた扇剣を見る。
「今は、このままで」
「いいのか」
「君が戻るまでは」
声が少し小さくなった。
「口元を隠さずに、見送るよ」
返しに困った。
イヴァンは、それに気づいたように微笑む。
「晴人」
「何」
「次に劇場へ来るなら、客席だけでなく舞台袖も見なさい」
「いいのか」
「少し怖いけれどね」
「なら見る」
「容赦がない」
「嫌なのか」
イヴァンは首を横に振った。
「嫌ではない」
その答えは、飾っていなかった。
俺はYESを押した。
黒薔薇の花弁が広がる。
最後に見えたのは、扇を置いたまま、舞台中央と袖の間で俺を見送るイヴァンの顔だった。
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現実に戻ると、俺はリビングのソファに座っていた。
タブレットの画面には、黒薔薇劇場の結果が表示されている。
【期間限定イベント】
黒薔薇劇場と主役交代の夜
【イベント評価:最大】
【限定スチル:獲得】
【追加ボイス:保存】
【ナイトステイ記録:保存】
画面には、夜の黒薔薇劇場が映っていた。
幕の下りた舞台。
誰もいない客席。
舞台脇の小机に置かれた扇剣。
舞台中央と袖の間に立つイヴァン。
口元を隠さず、こちらを見ている。
タイトルが表示される。
【限定スチル:幕の下りた主役】
「……主役って、大変だな」
呟いてから、少しだけ画面を見続けた。
イヴァンは相変わらず綺麗だった。
けれど、舞台の上で完璧に笑っていた時より、少しだけ人間っぽく見えた。
姉からメッセージが飛んでくる。
【姉:通知来た】
【姉:限定スチル取れてる!?】
【姉:夜の劇場!?】
【姉:扇置いてる!?】
【姉:口元隠してない!?】
俺は、追加ボイスを押した。
『主役でいる理由が、少し変わったよ。晴人、君が舞台袖まで見てしまったからね』
低く、少し甘い声が流れる。
俺は画面を見た。
閉じた幕。
置かれた扇。
舞台袖と中央の間。
「人のせいにするなよ」




