■9-1 イヴァン編:黒薔薇の舞台俳優は、端役の夜を忘れない
共有タブレットに通知が来ていた。
【姉:今日イヴァン】
【姉:黒薔薇劇場】
【姉:舞台俳優】
【姉:主役】
【姉:扇剣】
【姉:黒薔薇】
【姉:顔が舞台装置】
【姉:よろしく】
俺はソファに座り、タブレットを開いた。
画面には、黒薔薇と仮面のアイコンが表示されている。
【期間限定イベント】
黒薔薇劇場と主役交代の夜
対象プリンス:イヴァン・ローゼンクローネ
イヴァン・ローゼンクローネ。
薔薇宮区の舞台俳優。
黒薔薇劇場の看板役者。
赤みを帯びた金髪。
紫がかった瞳。
黒薔薇の礼装。
武器は扇剣。
薔薇魔法と魅了結界を操る、舞台の主役。
画面の中のイヴァンは、黒い扇で口元を隠し、こちらへ微笑んでいた。
ホームボイスが流れる。
『姫。今宵の舞台、最後の一瞬まで目を逸らしてはいけないよ』
「舞台俳優っぽいな」
次のボイス。
『黒薔薇劇場では、拍手も沈黙も、すべて舞台の一部になる』
「言い方がいちいち派手だな」
さらに次。
『さあ、幕を上げよう。君の視線も、今夜は私がもらう』
「視線泥棒が多いな、このアプリ」
画面のイヴァンは、余裕たっぷりに笑っている。
主役。
看板俳優。
観客の視線を集める男。
その表向きの情報だけで、十分に派手だった。
俺はイベント開始を押した。
****
黒薔薇劇場の特別公演。
画面いっぱいに、巨大な劇場が映った。
薔薇宮区の中心にある、黒と赤の劇場。
外壁には黒薔薇の蔦。
入口には金色のランプ。
劇場前には馬車と魔導車が並び、華やかな服装の観客たちが次々に吸い込まれていく。
中へ入ると、そこは別世界だった。
深紅の客席。
黒薔薇模様の天井。
金のシャンデリア。
舞台には薄い霧が漂い、幕には巨大な黒薔薇が刺繍されている。
観客席は満席だった。
ざわめきの中に、期待がある。
誰もが、主役の登場を待っている。
やがて、楽団の音が止まった。
劇場の灯りが落ちる。
幕が上がった。
舞台中央に、イヴァン・ローゼンクローネが立っていた。
黒薔薇の礼装。
片手に扇剣。
一歩進むだけで、観客の視線が集まる。
扇を開けば、舞台全体に黒薔薇の花弁が舞う。
台詞を放てば、客席は息を止める。
『月が沈む前に、私の名を呼ぶがいい』
声が、劇場の奥まで届いた。
大きいわけではない。
だが、耳を奪う声だった。
舞台の中心で、イヴァンは完璧だった。
敵役が剣を向ければ、黒薔薇の花弁でかわす。
ヒロイン役が涙を落とせば、扇剣で月光を受け止める。
群舞が広がれば、その中心で全員の動きを引き締める。
観客は魅了されていた。
「イヴァン様!」
「やっぱり主役は彼しかいない!」
「黒薔薇の王だ!」
すごい。
普通にそう思った。
舞台の空気を、一人で持っていく。
立つ場所。
声の出し方。
手の動き。
視線の流し方。
全部が、見られるために作られている。
けれど、引っかかった。
観客は熱狂している。
なのに、舞台袖の端役たちは息を殺している。
イヴァンは拍手を浴びている。
なのに、客席の視線が一瞬でも逸れると、目が鋭くなる。
主役として完璧なのに、ずっと“見られているか”を確かめている。
舞台が進む。
イヴァンが黒薔薇の花弁を巻き上げ、客席へ向けて優雅に礼をした。
イベント台詞が表示される。
『どうだ? 魅了されたか、姫。舞台は、主役が支配するものだ』
画面に選択肢が出る。
【魅了されました、イヴァン様】
【さすが黒薔薇劇場の主役です】
【まぁ、すごいけど……】
すごい。
魅了されるのも分かる。
舞台の中心に立つ姿は、確かに圧倒的だった。
でも、気になる。
舞台が美しいほど、イヴァンがずっと何かに追われているように見える。
ずっと気を張っている。
「……疲れそうだな」
俺は三番を押した。
【まぁ、すごいけど……】
画面の中のイヴァンが、扇の奥で目を細める。
『おや』
甘い声。
だが、少しだけ温度が下がる。
『この私の舞台を前にして、ずいぶん控えめな感想だ。美しさに言葉を失った、というわけでもなさそうだね』
「疲れそうだな」
口にした瞬間、舞台の黒薔薇が画面の外へ散った。
花弁が一枚、タブレットからこぼれる。
リビングの空気に、薔薇の香りが混ざった。
次の瞬間、劇場の拍手と楽団の音が、耳元で鳴った。
足元が沈む。
ソファではない。
舞台袖の黒い床だった。
****
最初にかけられた言葉は、挨拶ではなかった。
「君、台本は?」
「台本?」
目の前に、イヴァン・ローゼンクローネが立っていた。
近い。
画面で見るより、顔が強い。
いや、顔が強いというか、存在が舞台用に調整されている。
髪。
目。
礼装。
指先。
どこを見ても、観客に見られることを前提に作られていた。
イヴァンは俺の手元を見て、少し眉を上げる。
「台本なし。衣装なし。立ち位置不明。なるほど」
「なるほど?」
「迷い込んだ観客か、急遽放り込まれた代役か、それとも劇場そのものに選ばれた珍客か」
「全部困るな」
「舞台では困惑も表情の一つだよ」
「今、俺を配役しようとしてる?」
「もちろん」
即答だった。
「舞台に立った以上、誰もが何かの役を持つ」
「俺、舞台に立った覚えないんだけど」
「立っている」
「物理的にはな」
イヴァンは楽しそうに扇を開いた。
「それで、君は姫かな?」
「違う」
「即答とは味気ない」
「男だ」
「見れば分かるよ。けれど、舞台では確認の台詞にも意味がある」
「面倒な言い方だな」
「美しいと言ってほしいね」
「面倒」
「手厳しい」
イヴァンは扇で口元を隠して笑った。
「名前は?」
「晴人」
「晴人」
イヴァンは、その名前を台詞のように口にした。
「姫の代理として、黒薔薇劇場の舞台袖へ迷い込んだ男。悪くない登場だ」
「悪い登場だろ」
「では、印象的な登場」
「言い換えればいいってもんじゃない」
「舞台では言い換えが命だよ」
そう言って、イヴァンは舞台中央へ視線を向けた。
まだ公演は続いている。
代役の幻影か、魅了結界の残像か、舞台上にはイヴァンの姿が残っていた。
それが台詞を続け、観客を魅了している。
本人は舞台袖にいるのに、舞台の中心にもいる。
便利すぎる。
「さっきの」
俺が言うと、イヴァンは扇をゆっくり閉じた。
「疲れそう、だったかな」
「聞こえてたのか」
「舞台袖の囁きほど、よく響くものはない」
「美しく見られるのが、主役の務めってやつか」
「その通り」
イヴァンは微笑む。
「舞台に立つなら、見られてこそ価値がある。端に沈むくらいなら、幕の外と同じだ」
「見られてないと駄目なのか」
「見られない役は、存在しないのと同じだよ」
その言い方は、あまりに自然だった。
美学として口にしている。
けれど、自然すぎるせいで逆に引っかかる。
まるで何度も自分に言い聞かせてきた言葉みたいだった。
****
舞台は次の場面へ進んだ。
黒薔薇の宮廷。
主役である黒薔薇の王が、裏切り者を裁く場面らしい。
舞台転換中、端役の若い俳優が小道具の銀杯を運んでいた。
緊張している。
それでも、立ち位置を守り、他の役者の動線を邪魔しないように動いていた。
ちゃんと舞台を繋いでいる。
その時、銀杯が盆の上で揺れた。
かちゃん、と小さな音がした。
銀杯が一つ、床へ落ちる。
ほんの小さなミスだった。
だが、観客の一部がそちらを見る。
端役の若い俳優の顔が青ざめた。
イヴァンの目が鋭くなる。
次の瞬間、舞台中央のイヴァンの幻影が扇剣を開いた。
黒薔薇の花弁が、一気に舞台へ広がる。
『月よ、沈むな。まだ私の夜は終わっていない』
アドリブだった。
声が劇場全体を掴む。
黒薔薇の花弁が落ちた銀杯を隠し、客席の視線を一瞬で舞台中央へ戻す。
観客は沸いた。
「さすがイヴァン様!」
「今の花弁、すごい!」
「アドリブまで完璧!」
舞台は成功した。
小道具の音も、端役の動揺も、なかったことになった。
若い俳優は助かった。
たぶん。
でも、イヴァンは端役本人には目を向けなかった。
ミスを隠した。
同時に、端役の存在ごと隠した。
俺は舞台袖の若い俳優を見る。
彼は銀杯を拾いながら、唇を噛んでいた。
助けられた顔ではなかった。
消された顔だった。
「今の、あいつが支えてたぞ」
俺が言うと、イヴァンがこちらを見る。
「小道具を落とした子が?」
「落とす前まで、ちゃんと舞台を繋いでた」
イヴァンの扇が、ほんの少し止まる。
「彼のミスは、私が処理した」
「処理じゃなくて、支えてたところを見ろよ」
「端役は、舞台を乱さないことが仕事だ」
「端役が舞台を支えてる。お前も本当は知ってるだろ」
その瞬間、イヴァンの笑みが消えた。
完全にではない。
舞台用の表情が、ほんの少し剥がれた。
「……ずいぶん簡単に言う」
「見えたからな」
「見えた、ね」
イヴァンは扇で口元を隠す。
「その言葉は、時に残酷だよ」
「そうか?」
「見られたくないものまで、見えると言ってしまう」
その声は、少しだけ低かった。
****
イヴァンの脳裏に、何かが浮かんだのが分かった。
舞台袖の黒い床。
古い幕。
狭い立ち位置。
端に置かれた小道具。
「昔、私は端役だった」
イヴァンが静かに言った。
舞台の音が遠くなる。
「台詞は少なく、立ち位置は舞台の端。誰にも名を覚えられず、主役のために動線を作るだけ」
扇を持つ指が、少しだけ強くなる。
「ある夜、私は完璧に舞台を支えた。主役が輝けたのは、端で私が支えたからだった」
声は淡々としている。
だが、目は笑っていない。
「けれど、誰も気づかなかった」
イヴァンは舞台中央を見る。
「気づかれたのは、小さなミスだけだった」
誰かの声を真似るように、彼は低く言う。
「端役の代わりはいくらでもいる」
その言葉だけが、妙に生々しかった。
「だから、主役になった。見られる側になれば、存在を消されずに済む。拍手を浴びている限り、私は舞台にいる」
「それでずっと見られてないと不安なのか」
「不安?」
イヴァンは笑った。
いつもの笑みに戻そうとしている。
「違うよ。美学だ」
「そうか」
「そうだ」
「じゃあ、今ちょっと苦しそうに見えたのは?」
イヴァンは黙った。
扇の奥で、目だけがこちらを見る。
答えはなかった。
でも、十分だった。
****
その時、舞台上の魅了結界が、大きく揺れた。
黒薔薇の花弁が、乱れる。
照明が一瞬、赤黒く沈んだ。
舞台裏のスタッフが叫ぶ。
「魅了結界に異常!」
「薔薇宮派閥の結界針です!」
「観客の視線が、主役一点に集まりすぎています!」
劇場全体が不自然に静まり返る。
観客の視線が、舞台中央のイヴァンだけに吸い寄せられていた。
一見、主役としては最高の状態だった。
すべての視線が自分に向いている。
誰も目を逸らさない。
誰も他を見ない。
けれど、そのせいで舞台が死にかけていた。
端役たちが動けない。
照明係も、舞台袖の演者も、観客の視線圧に飲まれて動線を失う。
群舞の足が止まる。
背景役が立ち位置を失う。
小道具係が幕の陰で固まる。
舞台が、中心だけを残して崩れかけていた。
イヴァンは一瞬、舞台中央を見た。
あそこに立てば、観客を魅了し続けられる。
自分一人なら、視線を受け止められる。
だが、それでは舞台そのものが死ぬ。
俺の言葉が、そこに残っていたのだと思う。
端役が舞台を支えてる。
イヴァンは、扇剣を握り直した。
「晴人」
「何」
「舞台袖の小道具を拾って。左側の銀杯」
「俺もか?」
「当然だよ」
「俺、役者じゃないんだけど」
「今この場で舞台を支えるなら、君も立派な裏方だ」
「急に配役が雑だな」
「舞台は常に即興だよ」
「便利だな、即興」
「とても便利だ」
イヴァンは、ふっと笑った。
逃げるためではない。
舞台を動かすための笑みだった。
****
イヴァンは舞台中央へ戻った。
ただし、中心に立ち続けるためではない。
彼は主役の位置から、一歩引いた。
観客席がざわめく。
イヴァン・ローゼンクローネが、自ら中心を空けた。
それだけで、劇場の空気が変わった。
「灯りを左へ」
イヴァンの声が響く。
照明係が顔を上げる。
「左?」
「そう。黒薔薇は一輪で咲くものではない」
照明が左へ流れる。
舞台袖にいた若い端役へ、淡い光が当たった。
さっき小道具を落とした俳優だ。
彼は目を見開く。
イヴァンは扇剣を向けた。
「袖の子、出なさい」
若い俳優が震える。
「ぼ、僕が?」
「あなたの一歩で、舞台を繋いで」
その言葉に、若い俳優が息を呑む。
俺は舞台袖で、落ちていた銀杯を拾った。
「これか!」
「それ」
イヴァンが即答する。
「渡して。落とすなら美しく」
「無茶言うな」
「美しくなければ早く」
「そっちならできる」
俺は銀杯を若い俳優へ渡した。
若い俳優は震える手で受け取り、舞台へ出る。
観客の視線が彼にも向いた。
その瞬間、魅了結界の流れが変わる。
イヴァン一人に集まっていた視線が、少しずつ舞台全体へ配分されていく。
イヴァンは扇剣を振るった。
黒薔薇の花弁が舞う。
だが、今度は自分だけを飾らない。
端役の足元へ。
照明係の光へ。
背景役の動線へ。
群舞の手先へ。
舞台の端々へ黒薔薇が咲いていく。
「右袖、二歩前へ」
イヴァンの声が飛ぶ。
「群舞、円を広げて。客席を巻き込みなさい」
「小道具、次の杯を」
「照明、黒薔薇の影を奥へ」
舞台が動き出す。
止まっていた端役たちが息を吹き返す。
照明が戻る。
舞台袖が動く。
背景の布が流れ、群舞が再び広がる。
若い端役は銀杯を掲げ、物語の中で王へ杯を捧げる役として一歩前へ出た。
その一歩が、舞台を繋いだ。
観客が息を呑む。
魅了結界が、独占から配分へ変わっていく。
主役はイヴァンだ。
それは変わらない。
けれど、一人で舞台を支配していない。
舞台全体を生かしている。
敵対派閥の仕掛けた結界針が、黒薔薇の花弁に包まれて砕けた。
赤黒い歪みが消える。
劇場の空気が戻る。
舞台は崩れなかった。
むしろ、さっきより広く見えた。
最後の場面。
イヴァンは黒薔薇の王として、舞台中央に戻る。
だが、最後の台詞の前に、彼は舞台袖と端役たちへ視線を向けた。
見た。
ちゃんと。
そして、言った。
『私一人の夜ではない』
劇場が静まり返る。
『この薔薇宮に咲くすべての黒薔薇が、今宵の舞台だ』
扇剣が開く。
黒薔薇の花弁が、舞台全体に降り注いだ。
端役にも。
照明にも。
小道具にも。
背景にも。
客席にも。
幕が降りる。
一拍の静寂。
そして、劇場が割れるような拍手に包まれた。




