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■8-3 ノア編:夜の街灯点検と、抱きとめる腕

【低ランク巡回クエスト】

対象プリンス:ノア

夜間街灯点検

場所:下町東区・水路沿い巡回路


画面には、夜の下町が映った。

水路沿いに街灯が並んでいる。


その中で、一本だけ、光の色が少し青白く揺れていた。

ノアは脚立を持って、街灯の下に立っている。


『巡回兵ノアです』


いつもの丁寧な声。

でも、今日はどこか少し弾んでいる。


『夜間街灯点検を行います。高い位置の補助灯を確認するため、脚立を使用します』


そこで、ノアは少しだけ視線を落とした。


『晴人。もし来ていただけるなら、支えてもらえると助かります』


画面の中で、街灯が一度だけ明るくなる。

呼ばれた、と思った。


次の瞬間、俺は水路沿いの巡回路に立っていた。


****


夜の下町は、深い青色をしていた。

水路に街灯が映り、ゆらゆら揺れている。


遠くで蒸気管が鳴る。

どこかの店から、閉店前の鈴の音が聞こえた。


「来たぜ」


俺が言うと、ノアは脚立を持ったまま振り向いた。


「はい。来てくれると思っていました」


ノアはそう言って、すぐに耳を赤くした。


「今日は、夜間街灯点検です」

「夜の巡回か」


「はい。水路沿いは足元が暗い場所もありますので」


ノアは少し迷ってから、右手を差し出した。


「暗いので、手を」

「俺が?」


「はい。巡回兵としての案内です」

「本当にそれだけか」


ノアは一瞬黙った。

水路の光が、耳の赤さを隠してくれない。


「……半分は」

「半分」


「巡回兵としてです」

「残り半分は?」


ノアは答えなかった。

でも、手は下ろさなかった。


俺は少しだけ笑って、その手を握った。

ノアの指が、ぴくりと震える。


けれど、離れない。


「行くぞ」

「はい」


手を繋いだまま、水路沿いを歩く。

何度か石畳の段差を越えるたびに、ノアの手に少し力が入る。


そのたび、なぜかこっちまで足元を気にしてしまう。


「いつも一人で回ってるんだろ」

「はい」


「手、いらないんじゃないか」

「今日は晴人がいますので」


「答えになってるか?」

「僕には、なっています」


またそれだ。

でも、今日はあまり突っ込まなかった。


夜の下町で手を繋いで歩くのは、思ったより悪くなかった。


****


最初の街灯は、水路に少し傾いていた。

ノアは脚立を立て、上を見上げる。


「補助灯の角度を確認します」

「落ちるなよ」


「はい。晴人が支えてくれるので」


言い方が自然すぎて、少しだけ困る。

俺は脚立の片側を押さえた。


ノアがゆっくり上る。

白い制服の裾が揺れ、腰の護身剣が小さく鳴る。


上からノアの声が降ってきた。


「晴人、ちゃんと持っていますか」

「信用しろ」


「信用しています」


返事が早い。

早すぎて、俺の方が黙った。


「……即答かよ」

「はい」


「少しは考えろ」

「考えました」


「いつ」

「聞かれる前から」


上からそんなことを言う。

脚立の上のノアは真面目な顔で補助灯を確認しているのに、言っていることだけ妙に強い。


「補助灯、少し緩んでいます」

「直せそうか」


「はい。工具を取っていただけますか」

「どれ」


「細い銀色の調整具です」


俺は工具箱を開ける。

銀色の工具が三本あった。


「細い銀色が三本あるぞ」

「一番先が丸いものです」


「最初からそう言え」

「すみません」


「謝るな」

「はい」


上から小さく笑う声がした。

俺は工具を渡す。


ノアが身を乗り出す。

脚立が少し揺れた。


「おい」


俺は脚立を強く押さえる。

ノアが一瞬だけこちらを見る。


「大丈夫です」

「大丈夫じゃないから支えてるんだろ」


「はい」


ノアは嬉しそうに目を細めた。


「支えられています」

「作業しろ」


「はい」


補助灯の角度が直ると、街灯の青白い光が少し柔らかくなった。

水路に映る光も、丸く揺れる。


空中に表示が浮かぶ。


【夜間街灯点検:一基目完了】

【補助灯角度:調整済】


「一基目ってことは、まだあるのか」

「はい。三基あります」


「聞いてない」

「言いました」


「いつ」

「通知に」


「読んでない」


ノアが脚立の上で、少しだけ驚いた顔をした。


「読まずに来てくれたのですか」

「あ」


言ってから気づく。


「まあ、必要なら読むだろ」

「そうですか」


ノアは脚立の上で、嬉しそうに笑った。


「では、次からも分かりやすく呼びます」

「いや、読めって話だろ」


「はい」


返事だけは素直だった。


****


二基目の街灯は、落書き壁の近くにあった。

走る街灯の絵は、さらに増えている。


今度は、羽まで生えていた。


「もう飛ぶ気だぞ」

「進化が早いですね」


「街灯って何だっけ」


ノアは真面目に考え込む。


「道を照らすものです」

「飛んでも?」


「飛んでも、照らせるなら」

「受け入れるのかよ」


ノアは小さく笑った。

二基目の点検はすぐ終わった。


ノアは脚立を畳みながら、落書き壁を見ている。


「この絵も、増えていたと記録しておきます」

「巡回記録、何でもありだな」


「下町の変化ですので」

「羽の生えた街灯も?」


「はい」

「真面目に言われると反論しづらい」


ノアは少し得意そうに笑った。


「晴人も、記録に入れたいものがあれば教えてください」

「俺?」


「はい」

「じゃあ、二基目異常なし。街灯、羽が生える」


「後半は絵の記録ですね」

「分類するな」


「大事です」


ノアは本気で日誌に書きそうな顔をした。

俺は止めなかった。


楽しそうだったからだ。


****


三基目は、水路にかかる小さな橋の上だった。

橋の上は、他の場所より風が強い。


街灯の上部にある補助灯が、水路側へ少し傾いている。

ノアが脚立を置こうとすると、橋の上の風がまた吹いた。


「ここで上るのか」

「はい。少し高いですが」


「俺が持つ」

「ありがとうございます」


ノアは脚立に上る。

俺は下で支える。


風が吹くたび、ノアの髪が揺れる。

ふと、ノアの胸元に小さなカード枠のような光が見えた。


普段は気にしていなかった場所だ。

そこに、薄く文字が浮かんでいる。


【C】

その文字が、一瞬だけ揺れた。


【C-】

すぐ戻る。


【C?】

また戻る。


「ノア」

「はい」


「そこ、何か表示が揺れてるぞ」


ノアは胸元を見る。

けれど、本人にはよく分からないらしい。


「表示、ですか?」

「Cって出てるやつ」


「登録欄でしょうか」


ノアは少しだけ眉を寄せた。

その瞬間、脚立がかたんと鳴った。


「ノア!」


ノアの体が傾く。

考えるより先に、俺は手を伸ばしていた。


脚立から落ちかけたノアを、腕ごと抱きとめる。

白い制服が胸元に当たる。


ノアの髪が頬に触れた。

思ったより軽い。


けれど、抱えた瞬間の重さだけは、妙にはっきり残った。


「っ、晴人」

「危ないだろ」


「す、すみません」

「謝るな」


言いながら、俺も少し固まっていた。

ノアを抱えたまま。


近い。

顔が近い。


ノアの目が、すぐそこにある。

水路の青い光が、ノアの頬を照らしていた。


赤い。

たぶん、俺の顔も似たようなことになっている。


「下ろすぞ」


俺が言うと、ノアは小さく俺の服を掴んだ。


「……もう少しだけ」


声が小さすぎて、聞き間違いかと思った。


「何?」


ノアは真っ赤な顔で、視線を逸らす。


「いえ。その」


服を掴む指に、少しだけ力が入る。


「今だけ、です」


今だけ。

その言い方が、変に胸に残った。


沈黙。


俺は咳払いする。


「ほら、ちゃんとしろ」

「はい」


「危ないからな」

「はい」


そう言って、俺はノアをゆっくり下ろした。

ノアは地面に立つと、両手で制服の裾を整えた。


けれど、耳はまだ赤い。

俺も、脚立を持ち直すふりをして視線を逸らした。


「……さっきの表示」


ノアが小さく言う。


「気になるか」

「少しだけ」


俺はノアの胸元を見る。

今は【C】に戻っている。


「レアリティでお前を覚えたことはない」


ノアが、はっとこちらを見る。


「え」

「街灯とか、工具箱とか、ラムネとか、日誌とか」


思いついた順に言う。


「あと、やたら真面目なところ」


ノアは目を丸くする。


「それで、覚えているのですか」

「だいたい」


「だいたい」

「不満か」


「いいえ」


ノアは少しだけ笑った。


「とても、晴人らしいです」

「褒めてるか?」


「褒めています」


俺は脚立を軽く叩いた。


「続き、できるか」

「はい」


ノアは脚立を見上げた。

それから少しだけ迷って、俺を見る。


「……今度は、もう少し低い段で作業します」

「そうしろ」


「晴人が支えてくれるので」

「落ちる前提にするな」


「はい」


ノアは笑った。

今度は慎重に脚立へ上がる。


俺はさっきより強く脚立を支えた。

ノアは補助灯を直しながら、小さく言う。


「晴人」

「何」


「抱きとめてくれて、ありがとうございました」

「危なかったからな」


「はい」


少し間。


「でも、少しだけ、嬉しかったです」

「作業しろ」


「はい」


ノアは真っ赤な顔で、補助灯を直した。

街灯の青白い光が、少しずつ安定していく。


橋の上の風はまだ冷たい。

でも、さっきより足元はしっかりして見えた。


【夜間街灯点検:三基目完了】

【補助灯固定:完了】

【巡回路:安全】


表示が出る。


ノアは脚立から下りると、ほっとしたように息を吐いた。

俺はまだ、腕に残る重さを少し気にしていた。


言うと、たぶんノアがまた赤くなる。

だから言わなかった。


****


三基目の点検が終わった後、ノアは脚立を畳んだ。

俺は工具箱を持つ。


ノアが


「僕が持ちます」


と言ったが、無視した。


「晴人」

「何」


「最近、持ってくれるのが早いです」

「重いんだろ」


「今日は、それほどではありません」

「じゃあ俺が持ってもいいだろ」


「理屈が逆です」

「便利だな、理屈」


ノアは少しだけ笑った。

帰り道、俺たちは水路沿いを歩いた。


手は、自然に繋がっていた。

どちらからとも言えない。


暗いから。

巡回だから。


さっき危なかったから。

理由は、いくつもある。


でも、半分は違うのだろう。

俺にも、それくらいは分かってきた。


水路の向こうで、街灯が水面に伸びている。

ノアはそれを見ながら、小さく言った。


「晴人」

「何」


「今日も、日誌に書いていいですか」

「何を」


「夜間街灯点検をしたこと」

「それは書くだろ」


「手を繋いで巡回したこと」


俺は少し黙った。

ノアも、言ってから赤くなる。


「……巡回上、必要だったので」

「便利な言い訳だな」


「はい」


ノアは恥ずかしそうに笑う。


「でも、必要でした」

「半分は?」


聞くと、ノアはさらに赤くなった。


「……半分も、必要でした」

「結局全部必要なのかよ」


「はい」


ノアは笑った。

その笑顔を見て、まあいいかと思った。


****


巡回詰所に戻る前に、最後の街灯を確認した。

小さな表示板に、今日の点検結果が並ぶ。


【一基目:補助灯角度調整】

【二基目:異常なし】

【三基目:補助灯固定】

【巡回路:安全】


その下に、ノアが記録ペンで追記する。


【晴人同行】


さらに少し迷ってから、もう一行。


【夜間案内:手を繋いだ】


「書いたな」

「書きました」


「堂々としてるな」

「日誌には、正確さが必要です」


「それ盾にするのずるくないか」

「少しだけ」


ノアは楽しそうだった。

さらにその下に、ノアはもう一行書こうとして、止まった。


「何を書く気だ」

「いえ」


「見せろ」

「まだ書いていません」


「じゃあ言え」


ノアは真っ赤になって、記録ペンを胸に抱えた。


「脚立から落ちかけたところを、晴人に抱きとめてもらったことを」

「書くな」


「正確な記録です」

「書くな」


「……はい」


ノアは少し残念そうだった。


「残念そうにするな」

「少しだけ、残したかったので」


「残さなくていい」

「では、僕が覚えています」


またそういうことを言う。

俺は何も返せず、表示板から視線を逸らした。


街灯の光が、ふわりと広がる。


【ナイトステイが発生しました】


【ナイトステイ】

対象プリンス:ノア

帰還条件:対象プリンスとのキス

※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります


「今日は、手を繋いで巡回しました」


「日誌にも書いたしな」

「はい」


ノアは少しだけ照れた顔で頷く。


「それと、晴人が抱きとめてくれました」

「それは書いてないだろ」


「覚えています」

「忘れろ」


「それは、少し難しいです」


ノアは小さく笑った。

俺も、少し笑ってしまう。


ノアが一歩近づく。

俺も身をかがめる。


今日は、どちらからともなく近づいた。

キスは、前より落ち着いていた。


唇が触れる。

静かで、長い。


ノアの手が、俺の服の端を掴む。

でも、今日はそれを隠そうとしない。


俺も、それを変に指摘しなかった。

離れようとした時、ノアがほんの少しだけ追いかけるように近づいた。


本当に少しだけ。

それでも、分かった。


俺は驚いて、一瞬だけ動きを止める。

ノアも気づいたのか、真っ赤になる。


「すみません」

「謝るな」


「はい」

「今のは」


「はい」

「……別に、嫌じゃなかった」


ノアは目を見開いた。

それから、口元を隠すようにうつむく。


「晴人は、時々ずるいです」

「俺が?」


「はい」

「心当たりがない」


「それも、ずるいです」


ノアは小さく笑った。

その笑い方が、前よりずっと近い。


空中に表示が浮かぶ。


【帰還条件を満たしました】

現実世界へ戻りますか? YES/NO


いつも通り、すぐ押せない。

ノアも、もうそれに気づいている。


でも何も言わない。

ただ、少しだけ笑っている。


「晴人」

「何」


「帰っても、また来てくれますか」

「来る」


返事は早かった。

自分でも少し驚くくらい早かった。


ノアの顔が、ゆっくり明るくなる。


「はい」


俺は、少し遅れてYESを押した。

街灯の光が白く広がる。


最後に、ノアの声が聞こえた。


「晴人。次も、支えてください」


****


現実に戻ると、タブレットには水路沿いの街灯が映っていた。

三基目の街灯。


小さな橋。

畳まれた脚立。


工具箱。

表示板には、今日の点検結果が残っている。


【晴人同行】

【夜間案内:手を繋いだ】


その下に、もう一行だけ、小さな文字が薄く揺れていた。


【抱きとめてもらった】


「……書いてるじゃないか」


思わず声が出た。

ノアの姿はない。


でも、表示板の端で、文字が少しだけ照れているみたいに明滅していた。

俺はしばらく画面を見ていた。


脚立から落ちかけたノアを抱きとめた感触。

白い制服の軽さ。


近すぎた顔。

服を掴まれた指。


それから、Cの表示が揺れたこと。

【C】


【C-】

【C?】


そして、また【C】に戻ったこと。

俺はタブレットの端を見た。


今はもう、何も出ていない。

ただ、街灯の光だけが水路に揺れている。


「……レアリティで覚えたことはない、か」


自分で言った言葉を思い出して、少しだけ息を吐いた。

たぶん、本当にそうだった。


ノアのことを思い出す時、最初に浮かぶのはカードの文字じゃない。


街灯。

工具箱。

焼き栗。

月蜜ミルク。

歯車ラムネ。

日誌。

手。


それから、今日の腕の中の重さ。

俺はタブレットを閉じた。


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