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■7-3 ノア編:巡回日誌と、僕からのキス

小さな木机。

古いランプ。


壁に並ぶ巡回札。

その前で、ノアが分厚い日誌を開いている。


【低ランク巡回クエスト】

対象プリンス:ノア

巡回日誌確認

場所:下町東区・巡回詰所


ノアは、日誌のページを指で押さえていた。

けれど、そのページの一部だけが白く抜けている。


文字が消えたというより、そこだけ紙が最初から空だったみたいに見えた。


『巡回兵ノアです』


声は落ち着いている。

でも、いつもより少しだけ小さい。


『過去の巡回日誌に、一部だけ記録の抜けがあります。確認と、今日の巡回記録の追記を行います』


そこで、ノアは少しだけ顔を上げた。


『晴人。今日の巡回も、もしよろしければ』


言葉が止まる。

それから、小さく言い直す。


『一緒に、書いていただけますか』


日誌の紙片が、画面の外へふわりと舞った。

次の瞬間、俺は巡回詰所の中に立っていた。


****


「ノア」


俺が呼ぶと、机に向かっていたノアが振り向いた。


「晴人」


その声が、少しだけ弾んだ。


「元気だったか」


言ってから、自分で少し固まる。

何を普通に聞いてるんだ、俺は。


でも、ノアは嬉しそうに笑った。


「はい。晴人は?」


「俺も普通」

「普通、ですか」


「普通だろ」

「はい」


ノアは大事そうに頷いた。


「普通なら、よかったです」


なんでもない挨拶のはずなのに、ノアがそんな顔をするから、少し調子が狂う。

俺は机の上の日誌を見た。


「ここが抜けてるのか」


「はい」


ノアが開いていたページには、巡回記録が並んでいる。


街灯点検。

水路裏通り。

パン屋裏。

青い街灯。


けれど、その途中の数行だけが白く抜けていた。


「何を書いてたんだ」

「おそらく、先週の巡回記録です。内容は大きなものではありません」


「大きくないならいいのか」

「……よくは、ありません」


ノアは日誌の端をそっと撫でる。


「でも、今日の記録は、これから書けます」

「じゃあ増やすか」


ノアが顔を上げる。


「増やす?」

「白いところ見てても戻らないなら、今日の分を書けばいいだろ」


「今日の分」

「巡回するんだろ」


「はい」

「じゃあ行くぞ」


ノアは少しだけ目を丸くした。

それから、ぱっと表情を明るくする。


「はい」


日誌を胸に抱えたノアは、どこか嬉しそうだった。


「今日の巡回記録は、晴人と一緒に書きます」


「大げさだな」

「大事な記録ですので」


「また真面目」

「はい」


ノアは素直に頷いて、巡回詰所の扉を開けた。


****


今日の巡回は、今までよりずっと穏やかだった。

街灯の出力を確認する。


パン屋の前を通る。

水路沿いの柵が緩んでいないか見る。


子どもたちが描いた落書き壁の前で、走る街灯の絵が少し増えているのを見つける。


「これ、前より速そうになってるな」


俺が言うと、ノアが真面目に頷いた。


「足が四本から六本になっています」

「進化してる」


「はい。下町の街灯は、さらに速く家まで照らしに来るそうです」

「もう生き物だな」


ノアは小さく笑った。

そのあと、パン屋の店主に声をかけられた。


「ノアくん、今日は日誌の日かい?」

「はい。巡回記録の確認です」


「じゃあ、これも書いておくれよ。今日は焦げパンが一つも出なかった」

「それは巡回記録でしょうか」


「平和の記録だよ」


ノアは少し困った顔をした。

俺は横から言う。


「書いとけばいいだろ。平和なんだし」

「……分かりました」


ノアは日誌に小さく書いた。


【パン屋:焦げパンなし】


「本当に書いたのか」

「平和の記録ですので」


「素直すぎる」


ノアは少しだけ得意そうだった。

それから、店主が焼きたての小さな丸パンを二つ渡してくれた。


「日誌を書くなら、腹もいるだろ」

「ありがとうございます」


ノアは丁寧に頭を下げる。

俺たちは丸パンを持って、水路沿いへ向かった。


水面には夕方の光が残っている。

街灯が点く前の、少しだけ青い時間だった。


「食べながら歩くか」


俺が言うと、ノアは一瞬だけ真面目に悩んだ。


「巡回中ですが」

「記録を書くための休憩」


「休憩も、記録に含まれますか」

「含めればいい」


「晴人は、記録の範囲を広げるのが上手ですね」


「褒めてるのか?」

「褒めています」


ノアは真剣だった。

俺たちは水路沿いの低い柵に寄りかかって、丸パンを半分ずつ食べた。


甘くはない。

でも、温かい。


ノアは両手でパンを持ち、少しずつ食べる。

相変わらず、何を食べても真面目だ。


「ノア」

「はい」


「お前、日誌にこれも書くのか」

「はい」


「パンを食べたことも?」


ノアは少しだけ赤くなる。


「巡回中の出来事ですので」


「便利な言い訳、完全にものにしたな」

「晴人のおかげです」


「俺のせいにするな」

「はい」


でも、たぶんやめる気はない。

ノアは日誌を開いて、端の余白に丁寧な字で書いた。


【晴人と水路沿いで丸パンを食べた】


「おい」


「はい」

「名前まで書くのか」


「事実なので」

「巡回記録か?」


「僕にとっては、重要事項です」


まっすぐ言われて、返す言葉がなくなった。

ノアは書き終えると、少しだけ日誌を見つめる。


白く抜けていた過去のページではない。

今日、新しく書かれた文字。


そこに、俺の名前もある。


「残ったな」


俺が言うと、ノアが顔を上げた。


「はい」


小さく笑う。


「今日の文字は、ちゃんと残っています」


その言い方は少しだけ切実だった。

でも、すぐにノアは丸パンの残りを見て、照れたように笑った。


「パンのことまで残しました」


「後で読み返して腹減るぞ」

「それは困ります」


「じゃあ消すか」

「消しません」


返事が早かった。

俺は少し笑った。


****


巡回詰所に戻る前、ノアは水路沿いの小さなカフェを指差した。

前に入った月蜜ミルクの店とは違う。


こちらは、木の看板に「日誌席あります」と書かれている。


「何だ、日誌席って」

「巡回兵や配達員が、記録を書くために使う席です」


「そんな席あるのか」

「はい。下町では、書類を書く場所が少ないので」


「寄るか」


ノアが目を丸くする。


「よろしいのですか」


「日誌書くんだろ」

「はい」


「じゃあ仕事だ」


ノアは少しだけ笑った。


「晴人は、仕事という言葉も便利に使いますね」


「覚えが早いな」

「晴人に教わりました」


「俺を便利な言い訳の先生にするな」

「はい」


絶対に思っていない返事だった。


****


カフェの奥には、小さな机が二つあった。


壁には古い地図。

棚にはインクと予備の記録紙。


窓際には、下町の街灯が見える。

ノアは日誌を開き、今日の巡回記録を書き始めた。


【街灯出力:安定】

【水路柵:異常なし】

【落書き壁:走る街灯、足が六本に増加】

【パン屋:焦げパンなし】

【晴人と水路沿いで丸パンを食べた】


「最後だけ浮いてないか」

「重要事項です」


「強いな」

「はい」


ノアはまた少し赤くなる。

それでも、消さなかった。


俺は窓の外を見る。

夕方の光が、少しずつ夜に変わっていく。


街灯が一本、また一本と点き始める。


「ノア」

「はい」


「白く抜けてるところ、怖いか」


ノアのペン先が止まった。

すぐに返事はなかった。


「……少し」


小さな声だった。


「日誌が、僕を忘れていくみたいで」


前に、ノアがいつかそう言うかもしれないと思った。

実際に聞くと、思ったよりきつい。


「日誌が忘れても、俺は覚えてる」


ノアが顔を上げる。


「でも」


「街灯も、落とし物も、白い路地も、全部覚えてる」

「……はい」


「お前が毎回“来てくれたんですね”って言うことも」


ノアの目が揺れた。


「晴人」


「あと、キスの後に袖を掴むことも」

「それは、今言うことですか」


ノアが真っ赤になった。

震えていた声に、少しだけいつもの調子が戻る。


俺は、わざと言ったわけではない。

たぶん。


「忘れない証拠だろ」

「……はい」


ノアは赤い顔のまま、小さく頷いた。


「でも、記録にも残したいです」


「なら書け」

「はい」


ノアはペンを持ち直した。

それから、日誌の新しいページに、ゆっくり書いた。


【晴人は、今日も覚えていると言った】


「それも書くのか」

「はい」


「恥ずかしくないのか」


「少しだけ」

「少しなのか」


「かなり、です」


ノアは赤い顔で、それでも書き終えた。


「でも、残したいので」


その言い方に、俺は何も言えなかった。


****


巡回詰所に戻ると、外はすっかり夜になっていた。

机の上に日誌を置く。


古いランプの光が、紙の上を照らす。

白く抜けた過去の数行。


今日、新しく書き足した記録。

その二つが、同じ日誌の中に並んでいる。


「完了か」

「はい」


ノアは日誌の最後に署名した。


【巡回兵:ノア】


少し間を置いて、こちらを見る。


「晴人も」

「俺も?」


「今日の記録は、一緒に書いたので」


ノアは記録ペンを差し出した。

前に、魔導プレートへ二人で名前を書いた時のことを思い出した。


俺はペンを受け取る。

日誌の端に、自分の名前を書く。


【協力者:晴人】


文字は消えなかった。

ノアは、それをじっと見ていた。


「残ったな」

「はい」


声が少し震えていた。


「残りました」


その瞬間、日誌の紙片がふわりと光る。


【巡回日誌:更新】

【本日の巡回記録:追加】

【協力者:晴人】

【記録状態:安定】


白く抜けた過去の部分は戻らない。

けれど、今日のページははっきり残っている。


ノアは日誌を大事そうに閉じた。


「晴人」

「何」


「僕は、今日のことを覚えています」

「俺も覚えてる」


「はい」


ノアは小さく笑った。


「では、日誌も覚えています」

「そうだな」


「今日の僕は、日誌にもいます」


その言葉に、胸の奥が少し詰まった。

何でもないはずの巡回記録が、ノアにとっては自分の輪郭みたいになっている。


この世界にいていい証拠。

ここにいた証拠。


俺と一緒にいた証拠。

街灯の光が、巡回詰所の窓からふわりと差し込んだ。


【ナイトステイが発生しました】


ノアは赤くなった。

けれど、今日はいつもより、少しだけ落ち着いていた。


【ナイトステイ】

対象プリンス:ノア

帰還条件:対象プリンスとのキス

※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります


ノアは、俺を見る。


「晴人」

「何」


「今日は」


言いかけて、少しだけ息を吸う。


「僕からでも、いいですか」


俺は一瞬、返事が遅れた。

今まで、何となく俺が近づくことが多かった。


ノアは待っていた。

赤くなって、袖を掴んで、もう少しと言って。


でも、今日は違った。

自分で言った。


僕から。


「嫌なら言う」


俺が言うと、ノアは少しだけ笑った。


「はい」


「嫌ではない」


ノアの表情が、ほっと緩む。

それから、ゆっくり近づいてくる。


いつもの丁寧な歩幅。

けれど、今日は逃げる感じがない。


ノアの手が、俺の袖を掴む。

いつもより少し強く。


「晴人」

「何」


「記録に、残るかは分かりません」

「うん」


「でも」


ノアの声が、少し震える。


「僕が、したいです」


そう言って、ノアは背伸びをした。


キスは、驚くほど静かだった。


ノアから触れてきたのに、強引ではない。

確かめるみたいに、そっと。


でも、前よりはっきりと。

唇が触れる。


ほんの少し離れる。

また触れる。


ノアの指が袖を掴む。

その力が、今日は少しだけ強い。


離れると、ノアは真っ赤だった。

でも、目は逸らさなかった。


「……できました」


「報告するな」

「すみません」


「謝るな」

「はい」


ノアは笑った。

その笑顔は、今までより少しだけ誇らしそうだった。


「僕からのキスも、覚えていてくれますか」

「忘れるわけないだろ」


言ってから、自分で少し固まった。

ノアも固まる。


それから、ゆっくり頬が赤くなっていく。


「……はい」


声が小さい。


「僕も、忘れません」


空中に表示が浮かぶ。


【帰還条件を満たしました】

現実世界へ戻りますか? YES/NO


机の上には、閉じた日誌。

今日のページには、俺とノアの名前が並んでいる。


白く抜けた過去があっても、今日の文字は残っている。


「ノア」

「はい」


「次も書くか」


ノアの目が明るくなる。


「はい」


「焦げパンなしとか、丸パンとか、そういうのも」

「はい」


「俺が覚えてることも?」


ノアは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「それは、できれば毎回」


「毎回かよ」

「はい」


ノアは真面目だった。


「日誌が忘れても、増やしていきたいです」


「じゃあ増やせ」

「はい」


ノアは日誌に手を置く。


「晴人と」


その言い方が、妙にまっすぐで、胸に残った。

俺はYESを押した。


街灯の光と、日誌の紙片が白く広がる。

最後に、ノアの声が聞こえた。


「晴人。次も、一緒に書いてください」


****


現実に戻ると、タブレットには巡回詰所が映っていた。

小さな木机。


古いランプ。

閉じられた巡回日誌。


その上に、記録ペンが置かれている。

ノアの姿はない。


でも、日誌の端に、今日のページが少しだけ見えていた。


【巡回兵:ノア】

【協力者:晴人】

【晴人と水路沿いで丸パンを食べた】

【晴人は、今日も覚えていると言った】


「……そこまで残すのか」


口に出して、少し笑ってしまった。


でも、嫌ではなかった。

むしろ、その文字が残っていることに、少しだけ安心していた。


今日のノアは、日誌にもいた。

俺の中にもいた。


たぶん、それでいい。


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