一章6 染まった恐怖
目の前は暗闇。先程までの痛みは消えていた。
全身が激痛で、一刻も早く意識を失いたいと思う程のそれが綺麗さっぱり消えていたのだ。
「…は?」
あまりの事実に思わず声が出てしまった。
レイの手元にあったのは見知った箱型のスイッチ。それは、この世界に来て一番最初に視界に入ったものである。銀色の箱に赤いボタン。典型的で如何にも怪しいボタン。押したくなるが、怖くて押せていない謎のボタン。
レイは最初の部屋、スタート地点に戻って来たのだ。場所も時間も全てが巻き戻り、この世界に召喚されたその時まで。
すべての出来事は何もなかったことになっていたのもそれが理由であった。
だが、いくらその出来事が無かったことになっても記憶は鮮明に残っている。
あのとき味わった痛みも恐怖も、死ぬ感覚も。そのどれもがレイの脳裏には深く刻まれていた。
その記憶を必死に思い出さないよう、深呼吸を何度もする。何も考えないように、頭を空にするようにまた一つ深く呼吸する。
この状況に戸惑っていると、扉の開く音がした。
古びた扉を無理矢理開けたのか、ミシミシと音を立てながら、誰かがこの部屋に入って来る。
ゆっくりと開くそれは、ホラー映画で扉が勝手に開くような光景のそれである。フィクションならともかく、これは現実で何かの催しでもない。その事実が更に恐怖を駆り立てる。
暗闇の中、誰が入って来たのかは分からない。だが、レイの脳裏に浮かぶのは一人の少女、サリエルであった。その姿を思い浮かべただけで、もう体が勝手に震えてしまう。それ程までにレイの脳は恐怖に染まりきっていた。
「……あ、ぁ……」
声をあげようも、恐怖でそれは叶わない。
ホラー好きで怖いものには慣れているレイであっても、所詮は一人の人間。狂人でもない限り、平和な世界で暮らしてきた者が本物のホラーに恐怖を抱かずにいれるはずもなかった。
「あれぇ? この部屋、暗いなぁ」
その声は間違いなくサリエルであった。囁くように柔らかく、狂気さを感じるようなその声質はここ最近は飽きるほどに聞いている。
本来であれば、サリエルがこの部屋に訪れるのはもう少し後のはずである。だが、このゲームの第五階層の設定がそのシナリオを崩したのだ。
毎回ランダムにステージが変わる特殊なゲームシステム。そのシステムが時を戻しても適用されたのだ。故にサリエルが来るタイミングも必然的に変わってしまう。そのタイミングが今なのであった。
最悪の一言に尽きる。レイに思考の時間も与えられず、気持ちの整理もついていない状況での遭遇は本当に最悪であった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
レイはすぐさま扉の音がした方へと一目散に逃げだす。
その間にサリエルに気づかれなかったのは不幸中の幸いなのだろう。だが、レイはそんなことも気にせず、ただ真っすぐ走りぬく。
暗闇で見えない通路をひたすらに走り続けた。
振り返ればサリエルがいるかもしれない。そう思うと、レイは冷静にはいられず、走る速度を上げる。一歩進むごとにその考えが過り、恐怖は肥大する。
息も切れそうで、心拍数も異常なほどにまで上がっても、それでも恐怖が走る源となり、足を止めることは無かった。
だが、それも長くは続かない。
「――っ! に、にげないと……」
レイはその場に倒れ込んだ。バタンと音を立て、体全身の力が抜ける。
いくら気合を入れて走っても体の限界を迎えれば走れなくなるのは当然で、それがたとえ恐怖から来たものだとしても同じだ。
レイの体はもうとっくに限界を迎えており、既に走る体力どころか、立ち上がる力さえない。
それでも立ち上がろうと一回体を起こし、座るところまで持ち込んだ。
そして、もう一度立ち上がろうとしたその時、背後から聞きなれた声が聞こえた。
「大丈夫? 体調が悪そうだけど」
恐怖で声が出なかった。数分前に聞いた声と全く同じ。その声は身体に刻まれており、トラウマになりつつある。
だが、何が切っ掛けでサリエルの逆鱗に触れるか分からない。その場から後ろ振り向くどころか、動くことさえ出来ない。
恐怖に染まりきったレイはただじっとすることしか叶わなかった。
「おーい。大丈夫なのか?」
サリエルは何度も何度もレイに声を掛ける。
それに返事をしなけれないけないということは頭では分かっている。だが、体が思い通りに動かず、どうしても恐怖で口が震えてしまう。
サリエルが機嫌を損なう前に早く返事をしなければいけないのに。
「えーっと、どうしようか? あ!」
サリエルは何かを思い浮かんだのか、レイの隣に来て、そこに座り始めた。
そして少し微笑みながらレイの方を向いてくる。
「暗いのが怖いんだぁ~。ふふ、初心だねぇ」
突如としてサリエルはレイを揶揄いだした。
その表情は本当に愉しそうで、小悪魔の様であった。
「わたしの名前はサリエル。君の名前は?」
暗闇の廊下の真ん中に二人が座っている。
一人は恐怖で行動不能のレイ。そしてもう一人はレイにしつこくかまうサリエルであった。
「それで、名前は教えてくれないのかな?」
サリエルはレイに何度も名前を尋ねているが、当の本人は口が震えて上手く声を出せていない。
小刻みな呼吸をどうにかして落ち着かせようとするも、意識すればするほど焦ってしまう。
そんな彼の状況を理解したのか、サリエルは自分語りを始めた。
「まあいいや。そのままでいいから、少し聞いてくれるかな」
先程までの陽気な雰囲気から一転、少し暗い感じの雰囲気に変化するのが肌で感じ取れた。
「ここに来る前に覚えている私の犯した過去の過ち」
サリエルは地面に視線をゆっくりと落とすように俯いた。
次回の更新は4月22日です!!




