90話:デジャヴュ
夢の中で、ルシェンは、知らない都市にいた。
高い建物が、列を成して並んでいた。窓ガラスがあった。電線のようなものが、建物の間に張り巡らされていた。
ルシェンは、その風景を、知らなかった。シャヘルではない。メシャラでもない。だが——同時に、知っていた。
知らないのに、知っている。それが、夢の中の感覚だった。
***
高い建物の屋上から、煙が上がっていた。
砲撃の音が、遠くから来ていた。一定のリズムで、何かが落ちる音。地面が揺れる音。それから、間隔を空けて、また音。
ルシェンは、瓦礫の中を歩いていた。
瓦礫の中に、何かが見えた。最初は、何かわからなかった。近づくと、それは、子供の体の一部だった。腕が一本、瓦礫の隙間から出ていた。袖の布の色が、青だった。
ルシェンは、その腕を、長く見ていた。
***
場面が、変わった。
今度は、緑の山だった。山の麓に、草原があった。草原に、白い柱が、列を成して立っていた。
白い柱は、墓標だった。
ルシェンは、その柱の数を、数えようとした。数えきれなかった。数百はあった。数千かもしれなかった。
柱のひとつに近づいた。柱には、名前が刻まれていた。読めなかった。ルシェンの知っている文字ではなかった。
しかし、何かがわかった。
全ての柱に、男の名前が刻まれていることが、わかった。女の名前は、なかった。
***
ルシェンは、目を覚ました。
夜だった。自室の窓の外に、月が見えた。
体が、汗で濡れていた。
ルシェンは起き上がった。ランタンに火を点けた。
手が、わずかに震えていた。
***
しばらく、机に座っていた。
夢の内容が、頭の中で、まだ繰り返されていた。高い建物。瓦礫の中の青い袖。緑の山の白い柱。
ルシェンは、それらを、見たことがなかった。シャヘルでも、メシャラでも、移動の途中の街でも、見たことがなかった。
しかし、知っていた。
(あれは、前世の記憶だ)
ルシェンの中で、その判断が、来た。
判断を下したのは、ルシェン自身ではなかった。ルシェンの中の、別の何か——前世の文字の海の一部だった。
***
ルシェンは、紙を取った。
羽根筆を構えた。
書き始めた。
「予測——今後三年」
一行目を書いて、止まった。
書こうとしていることが、まとまっていなかった。書きながら、まとめていく。それが、ルシェンの考え方だった。
***
書き続けた。
「一。シャヘル包囲、長期化する。月単位ではなく、年単位を想定すべき」
「二。混住地域のどこかで、大規模な虐殺が起きる。混住していた村か、避難民の集積地で。あの夢の白い柱は、その後に立つ」
「三。外部勢力の介入。人道の名で。実態は、勢力圏の確保」
「四。和平は、誰も納得しない形で来る」
四行を書いて、それ以上は、書けなかった。書ける言葉は、もっとあった。具体的な年数、具体的な人数、具体的な経路——前世の構造として、頭の中にはあった。だが、それを紙の上に書き付けることは、ルシェンには、できなかった。書けば、「予言」になる。予言として扱われれば、自分が「知っている者」として扱われる。それが、最も避けたいことだった。
四行は、書ける限り曖昧な、四行だった。具体は、頭の中に留めた。頭の中で抱える方が、紙の上に固定するより、重かった。だが、その重さは、自分のものだった。誰にも、肩代わりさせない。
***
書き終えて、紙を見た。
四行の予測が、そこにあった。
ルシェンは、しばらく、その紙を見ていた。
書いた内容は、自分の前世の知識の延長線上にあった。具体的な世界も、地名も、思い出せない。だが、構造として、来ていた。
書いたものを、誰に渡すか——考えた。
誰にも渡せなかった。
ミラに渡せば、「お前は、なぜそんなことを知っている」と聞かれる。答えられない。答えれば、前世のことを話さなければならなくなる。話せない。
ファトマに渡せば、ファトマは、何を聞かずに受け取るかもしれない。だが、ファトマは、もう長く動けない。受け取っても、活かせない。
ベシムに渡せば、ベシムは、ルシェンを心配する。心配することが、ベシムの仕事ではなかった。
***
ルシェンは、紙を畳んだ。
引き出しの底に、入れた。
引き出しの底には、すでに、別の紙があった。ドラガンの名前のあるページ。今夜、もう一枚が、その下に加わった。
引き出しを閉めた。
***
窓の外で、夜が、明けかけていた。
ルシェンは、窓を開けた。
冷たい空気が、入ってきた。
ルシェンは、しばらく、窓辺に立っていた。
夢の中の白い柱が、まだ、頭の中にあった。
数千の柱。男の名前。女の名前は、なかった。
(あれは、誰だったのか)
ルシェンは、自分に問うた。
答えは、来なかった。
(あれは、まだ起きていない。あれは、これから起きる)
その認識が、来た。
ルシェンは、窓を閉めた。
***
夜明けの少し後、扉が叩かれた。
ミラだった。
ミラが扉を開けて、入ってきた。ルシェンの机を、ちらっと見た。何かを書いた跡が、机の上に残っていた。ルシェンは、紙そのものは引き出しに入れていたが、机の上の整理が、十分でなかった。
「お前、寝ていないな」とミラが言った。
「寝ました」
「嘘をつけ」
ミラはそれ以上、追及しなかった。
ルシェンは、答えなかった。
***
「今日、午前中の作戦会議は、お前なしで進める」とミラが言った。「お前は、寝ろ」
「会議に出ます」
「お前は、寝ろ」とミラが繰り返した。「お前が今日、判断を出して、その判断が、お前の睡眠不足のせいで間違えば、何人死ぬかわかるか」
ルシェンは、何も言わなかった。
「寝ろ」とミラはもう一度言った。それから、扉を閉めて、去った。
***
ルシェンは、寝台に戻った。
目を閉じた。
眠れるかどうか、自信はなかった。だが、ミラの言うことは、正しかった。判断を間違えれば、人が死ぬ。それは、ヨレシュで学んだことだった。
眠ろうとした。
夢を見ないことを、願った。
しかし、願いは、たぶん、叶わない。前世の文字の海は、また、別の何かを送ってくる。それは、ルシェンの意思では、止められない。
ルシェンは、目を閉じたまま、しばらく、何も考えなかった。
考えないようにしながら、考えていた。




