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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

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89話:ミラの過去

 夜、作戦本部の地下に、ルシェンとミラの二人だけがいた。


 他の者は、地上の宿舎に戻っていた。当直は、別の階の見張り台にいた。地下のこの部屋には、二人だけが残っていた。


 ミラが、酒を一杯持ってきた。陶器の杯に、安い蒸留酒を注いだ。


「お前は、酒を飲むのか」とミラが聞いた。


「あまり飲みません」


「今夜は、付き合え」


 ルシェンは杯を受け取った。


 ***


「お前は、俺の過去を聞かないな」とミラが言った。


「聞いていいかどうか、判断していました」


「聞け」


「では、聞きます」


 ミラは一口、杯を傾けた。


 ***


「母は、ヒューマンの娼婦だった」


 ミラは平らな声で始めた。


「父は、オークだった。客の一人だ。名前も、正確にはわからない。母も、たぶん知らなかったと思う」


「……」


「生まれた村で、両方の種族から、弾かれた。ヒューマンの村では、『オークの子』と呼ばれた。オークの集落に近づくと、『ヒューマンの娼婦の子』と呼ばれた。どちらの側にも、自分の場所はなかった」


「父は」


「早く死んだ。俺が三歳のとき。母が、父の名を覚えていなかったのは、たぶん、覚えておきたくなかったからだ」


 ミラは、もう一口飲んだ。


「母は、俺が十歳のとき、別の男と一緒になって、出ていった。俺を連れていけない、と言った。連れていけば、新しい男に拒まれる、と。母は、新しい家庭が欲しかった。俺は、その障害だった」


「十歳から、一人で」


「一人で生きた。十六まで」


 ***


「どう生きたか、聞きたいか」とミラが聞いた。


「聞いていいなら」


「あまり、いい話じゃない」


「いいです」


 ミラはまた飲んだ。


「物乞いをした。盗みもした。掃除人の見習いをしたこともある。鍛冶屋の弟子をしたこともある——三日でクビになった。理由は、オークの顔だから、と言われた。鍛冶屋の客が、嫌がる、と」


「ヒューマンの村でも、オークの顔と言われたのですか」


「ヒューマンの村では、オークの顔だ。オークの集落では、ヒューマンの顔だ。混血の顔は、両方の側から、よく見えない側の特徴だけが、目立つ」


 ミラは、もう一口飲んでから、別のことを付け加えるように、続けた。


「もう一つあった。十三のときに、男として通すようにした。髪を切って、声を作って、一人称を変えた。混血の女、というのは、両方の種族から、別の種類の標的になる。男として通る方が、効率が良かった」


 ルシェンは、少し顔を上げた。


「『俺』は、それで」


「それでだ。生き残るための形だった。生き残った後も、戻していない。戻す理由がない。戻したい、とも、思っていない」


「ミラさん、と呼ばれているのは」


「名前は、母がつけた。それだけは、変えなかった。母が、俺に残したものは、それしかない」


 ミラは、自分の顔を指した。傷の痕がいくつもある顔だった。


「十歳のとき、ヒューマンの男に殴られた。理由は、覚えていない。理由は、要らなかった。顔だけで十分だった」


「十二歳のとき、オークの女に追い払われた。集落の井戸で、水を汲ませてくれなかった。『お前の血が混じった水を、飲みたくない』と言われた」


「十六歳のとき、ある町で、ヒューマンが俺をオークだと言って、衛兵に通報した。逃げる途中で、これを受けた」


 ミラは脇腹を、軽く叩いた。服の上からだったが、傷の位置がわかる叩き方だった。


「今でも、雨の日は、痛む」


 ***


「種族で人を扱う者を、信用したことがない」とミラは続けた。


 ルシェンは聞いていた。


「種族で扱わない、というのは、思想じゃない。俺の生まれだ。生まれの結論だ」


 ルシェンは、何か言おうとして、止めた。


「お前は、何を言いかけた」とミラが聞いた。


「いえ」


「言え」


 ルシェンは、少し間を置いた。


「ミラさんの種族で扱わない、という原則を、俺は思想だと、受け取っていました」


「お前は、それを思想として、組み立てた」とミラが言った。「俺は、それを生まれとして、知っていた。違う」


「違う、というのは——」


「お前が組み立てた思想は、お前が手放そうとすれば、手放せる。俺の生まれは、手放そうとしても、手放せない」


 ルシェンは、何も言えなかった。


「生まれを思想と呼ぶのは、お前のような頭のいい奴の特権だ」とミラが言った。


 ***


 ルシェンは、少し動揺していた。


 自分の「種族で扱わない」が、ミラから見れば「特権」だと指摘されたことが、頭の中で消化できていなかった。


 ミラの言うことは、論理として理解できた。だが、論理として理解することが、まさに「思想として組み立てる」という、ミラの指摘の例証になっていた。


 ルシェンは、自分の杯を、一口飲んだ。喉が焼けた。


 ***


「お前は、ファトマに似ている」とミラは言った。


 ルシェンは少し驚いた。


「ファトマ、ですか」


「あの女も、頭で世界を組み立てる。組み立て方が、お前に似ている。だから、お前は、ファトマに会いに行く」


「ファトマさんは——」


「俺はファトマじゃない」とミラは続けた。「ファトマは、長老だ。村の中で、世界を組み立てて、世界に守られている。俺は、村の外で生きた。世界に守られたことが、一度もない」


 ルシェンは、ミラの目を見た。


 ミラの目に、何かがあった。怒りではなかった。憎しみでもなかった。もっと深い、何かだった。


 長い時間をかけて、削り取られた何かの残り、のような目だった。


 ***


「お前は、『何者でもない』と言っていたな」とミラは続けた。


「言いました」


「だが、何者でもないことには、種類がある」


 ルシェンは、聞いた。


「気をつけろ」とミラは言った。


「種類というのは——」


 ミラは、答えなかった。杯を空にして、置いた。


 ルシェンは、聞き返さなかった。聞き返せなかった。聞き返せば、ミラが答えるかどうか、確信が持てなかった。


 ***


 ミラは立ち上がった。


「もう寝る」と言った。「お前も寝ろ」


「わかりました」


 ミラが部屋を出ていった。扉が、静かに閉まった。


 ルシェンは、机に座ったまま、しばらく動かなかった。


 ミラの杯と、自分の杯が、机の上にあった。中の酒は、それぞれの量で残っていた。


 ルシェンは自分の杯を、もう一口飲んだ。


 喉がまた焼けた。今度は、少し慣れていた。


 ***


 部屋に戻る前に、ベシムの言葉が、頭の中で来た。


「ミラに、気をつけろ」


 今夜、ベシムが何を意味していたのか、少しわかった気がした。完全にはわからなかった。だが、何かは、輪郭が見えた。


 ミラは、種族で扱わない。それは、信頼できる原則だった。


 しかし、ミラは「思想」を持っていない。原則を、原則として、組み立てていない。生まれの結論として、持っている。


 原則として組み立てていないものは、状況に応じて、変わる可能性がある。


 その変わる可能性が、ベシムの言う「気をつけろ」の意味だった——のかもしれなかった。


 完全には、わからなかった。


 ***


 ルシェンは、地下を出た。


 階段を上がった。階段は、夜の中、暗かった。


 ルシェンは、手すりに手を置いて、上がった。


 手すりが、少し冷たかった。


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