87話:名前のない英雄
パルチザン内で、ルシェンの名が、知られ始めていた。
始まりは、噂だった。「ルシェンが立案した作戦は、十回中九回成功する」——具体的な数字が、独り歩きしていた。実際の比率は、もう少し低かった。八割程度だった。だが、八割でも、この組織では極めて高い数字だった。
噂の数字は、誰かが計算したものではなかった。「九割」という響きが、覚えやすかったから、定着した。語る側にとっての、語りやすさで、数字が決まっていた。
新兵が入ってくると、最初に「ルシェンに会いたい」と言うようになっていた。
***
残りの二割の話を、誰もしなかった。
二週間前、北東の橋頭堡の防衛戦で、混成部隊の伝令が、数字の符牒を読み違えた。夜の暗さで、エルフの伝令が指で示した「七、退避」を、ドワーフの中継者が「十二、解散」と読み違えた。最後尾の小隊が、退避路を取らずに散開した。死者三名、重傷一名。
ルシェンの符牒は十六まで完全な体系だったが、夜の指の合図では、混同し得る組み合わせがあった。それを考慮していなかった。手帳には三人の名前——マリア、ヨシュ、トルカ——とともに、一行が書かれていた。
「賢さは、漏れる場所を持っている。その漏れに、人が落ちる」
その夜の作戦会議で符牒の改訂案を出した。誰も責めなかった。責められないことの方が、重かった。
***
ルシェンは、その変化を、不本意に思っていた。
新兵が来ても、自分は会いに行かなかった。会えば、何か期待される。期待を返す立場に、自分はなりたくなかった。
しかし、避けていられないこともあった。
ある朝、若いドワーフの新兵が、ルシェンの部屋の前に立っていた。
「ルシェン様ですか」
「俺は参謀でいい。様付けはやめてくれ」
「俺の隊の判断を、仰ぎたいのです」
「お前の隊の隊長は誰だ」
「リアンです」
「リアンに聞け。リアンが判断する」
「リアンが、ルシェン参謀に聞け、と」
ルシェンは少しの間、新兵を見た。それから扉を開けて、中に入れた。
新兵が判断を求める案件は、地形の細部の話だった。ルシェンが三分で答えを出した。新兵は頷いて、礼を言って、出ていった。
扉が閉まった後、ルシェンは、しばらく机を見ていた。
***
その日の夕方、ミラが部屋に来た。
「お前を、正式な指揮官の位に上げる」とミラは言った。「混成部隊の正式な隊長として」
「断ります」
ミラは少しの間、止まった。
「理由は」
ルシェンは、用意していた答えを言った。
「名前が広がれば、敵にも知られます。狙われる対象は、組織を脆弱にします。俺が表に立つよりも、判断だけ出して、別の人間が指揮を取る形の方が、組織として強い」
「それだけか」
「それだけ、ということにしてください」
ミラは少しの間、ルシェンを見ていた。ミラの目は、答えの「それだけ」を、信じていない目だった。
「もうひとつ、理由があるな」とミラが言った。「それを聞かせろ」
***
ルシェンは少し考えてから、答えた。
「メシャラの長老に、教わったことがあります。属さないことが力だ、と。外から来る言葉は、届く角度が違う、と」
「ファトマさん、だな」
「はい」
「あの女らしい」
ミラは少し笑った。だが、その笑いは、長くは続かなかった。すぐに、別の表情に戻った。
「お前は、ファトマに似ている」とミラは言った。
「似ているかどうかは、わかりません」
「いずれ、わかる」とミラは言った。「だが、お前が断るなら、断らせよう。今は、形だけ参謀のままでいい。だが——」
ミラは少し間を置いた。
「お前が事実上、判断している、ということは、組織の中で誰もがわかっている。表の形と、中身の形が、ずれている。そのずれは、いずれ、何かを呼ぶ」
「何を呼びますか」
「わからない」とミラは言った。「予感だけだ」
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その夜、ファトマのところへ行った。
ファトマは、いつもの治療師の家にいた。脇腹の傷は、概ね治癒していた。だが、長く動くのは難しいままだった。シャヘルの市民組織を、寝ながら動かしていた。
ルシェンが座った。ファトマがお茶を出した。動作は、ゆっくりだった。だが、お茶を入れる動作の中に、迷いはなかった。
「お前は、まだ、何者でもないのか」とファトマが言った。
ルシェンは少し驚いた。
「ファトマさん、誰かから聞きましたか」
「ミラから」
「ミラ、ですか」
「あの女は、私のところに、時々、相談に来る。あの女が誰かに頭を下げるのは、私だけだ。だから、聞いた。お前が指揮官の位を断った、と」
ファトマがお茶を一口飲んだ。
「お前は、まだ、何者でもないのか」と、もう一度聞いた。
「わかりません」とルシェンは答えた。「ですが、なろうとは、していません」
「いずれ、なるかもしれない」
「はい」
「なってしまったとき、お前は気づかないかもしれない」
「気づかないでしょうか」
「気づかない方が、多い。気づくのは、変わってからだ」
ルシェンは何も言わなかった。ファトマの言葉が、胸の中に、しばらく残った。
***
「お前は」とファトマは続けた。「私の言ったことを、いつまで覚えていられる」
「覚えています」
「言葉として覚えていることと、生きていることは、別だ」
「わかっています」
「わかっているなら、覚えていないかもしれない」
ファトマは少し笑った。
ルシェンも、少しだけ笑った。ファトマの「わかっているなら、覚えていないかもしれない」という言い方は、ファトマ独特の論理だった。聞いたときにはわからなくて、後で来る種類の言葉だった。今は、まだ来ていない。いつか、来る。
***
部屋を出る前に、ファトマが言った。
「ルシェン」
「はい」
「いずれ、お前は将軍と呼ばれるようになる」
ルシェンは止まった。
「私は、それを止めない」とファトマは続けた。「止められない。だが、お前が将軍になってからも、私のところに来い。私が、お前の名前を、ルシェンと呼び続ける。お前が、ルシェンであり続けるために」
「……ありがとうございます」
「礼じゃない」とファトマは言った。「これは、私の役目だ。私は、お前の中の、お前を覚えている」
ルシェンは頷いた。
扉を閉めた。閉まる音が、静かだった。閉めた瞬間に、ファトマの言葉が、もう一度、頭の中で繰り返された。
***
夜、革なめし職人の地下に戻った。
手帳を開いた。
名前を数えた。手帳の最初の頁から、数えていった。一頁ずつ、めくっていった。
二十三になっていた。
最初の名前は、カイル・テラエン。最後の名前は、三日前の作戦で死んだヒューマンの伝令、シャラ。
二十三人。
ルシェンは、手帳を閉じた。閉じる前に、最後の頁を、もう一度見た。シャラの名前の下に、わずかな空白があった。次の名前が、いずれ、そこに置かれる。空白は、長くは続かない。
***
その夜、寝る前に、ミラの言葉を思い出した。
「お前を将軍にする日が、近づいている」
ルシェンは、目を閉じた。
眠ろうとした。
眠れなかった。
手帳の数字が、瞼の裏に浮かんでいた。二十三。次は、二十四。その次は、二十五。数字が、止まらなかった。




