86話:情報戦
暗号解読の机が、ルシェンの部屋の隅にあった。
商人ネットワークから集めた敵通信の写し。捕獲した敵兵の所持品から取った符牒帳。傍受した伝令の言葉。それらを並べて、規則を見つける作業を、夜に続けていた。
ルシェンは四種族の言語を全て扱える。多言語の能力が、ここで活きていた。ひとつの言語の癖を知っていれば、同じ言語で書かれた暗号の規則も、見つけやすい。書き手の母語の癖は、暗号化された後も、わずかに残る。
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ドワーフ独立軍の通信パターンを、二週間で解読した。
パターンは単純だった。曜日ごとに、特定の文字を別の文字に置き換える。さらに、月の位相に応じて、置き換えの規則が変わる。
それだけだった。
ルシェンは、解読の結果を組織内で共有した。今後、ドワーフ軍の通信の大部分は、こちらで読めることになる。ベシムの混成部隊が、傍受した情報を基に襲撃する手順を、組み立て始めた。
エルフ軍の伝令の符牒も、別の経路で進んでいた。エルフの符牒は、もう少し複雑だった。文字の置き換えではなく、意味の置き換え——「川」を「樹」と書く、「樹」を「鉄」と書く、というような語彙の置換だった。エルフの古い詩の形式から派生したものだった。
これは、もう少し時間がかかりそうだった。エルフ古語の詩集を、何冊か取り寄せる必要があった。
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ある夜、ドワーフ独立軍の人事通信を、新しく解読していた。
部隊配置の更新が、毎月送られていた。今月の更新が、ルシェンの机に来ていた。
配属、補充、降格、昇格。長い名簿だった。
ルシェンは順番に読んでいった。一行ずつ、確認した。新しい名前があれば、別の紙に書き写した。組織図を、頭の中で組み立て直すための作業だった。
ある行で、目が止まった。
「マルコ将軍指揮下、第三小隊。隊長 ドラガン・ボグダンの息子。配属確認」
ルシェンは、その行を、しばらく見ていた。
手が止まった。
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(ドラガン)
ルシェンの中で、いくつかの感情が、同時に来た。
怒り。お前は何をしているんだ。あの夜、丘の上で笑っていたお前が、なぜ。
悲しみ。あの村の鍛冶場で隣にいたお前が。
安堵。生きている。あの夜、別れたきり、生きているかどうかもわからなかった。生きていた。
恐怖。生きていて、戦っている。指揮を取る側になっている。
すべてが同時に来て、ルシェンは、どれを先に処理すればいいか、わからなかった。
ランタンの火が、揺れた。火が揺れたのは、風ではなかった。ルシェンの息が、わずかに、乱れていた。
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ルシェンは立ち上がった。
部屋を出た。地下の通路を、ぐるりと一周歩いた。何も考えなかった。歩くだけのために、歩いた。
通路の壁は、冷たかった。手を触れると、岩の温度が、手の平を冷やした。冷たさが、頭の中の熱を、少しずつ、吸い取っていった。
戻ってきた。
もう一度、机に座った。
通信の続きを読み始めた。読まなければ、明日の作戦が組めない。それは、変わらない。
ドラガンの名前のある行を飛ばして、次の名前を読んだ。次の名前は、知らない名前だった。次の名前も、知らない名前だった。知らない名前が続いた。それで、楽になった。
***
通信全体の解読が終わったとき、夜が明けかけていた。
ルシェンは、解読のメモを束ねた。
ドラガンの名前のあるページだけを、別にした。
そのページを、燃やそうとした。
燃やせなかった。
燃やそうとして、ランタンの火に近づけた。紙の縁が、わずかに温まった。それ以上は、近づけられなかった。手が、止まった。手が止まったことに、ルシェン自身が、少しだけ驚いた。
代わりに、引き出しの底に入れた。鍵をかけられる引き出しではない。ただの机の引き出しの、底だった。
他の紙の下に、隠した。
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翌朝、傍受情報を基に、作戦を組んだ。
ドワーフの補給隊が、シャヘル北東の街道を通る。三日後の午後。護衛は十二名。
ベシムの混成部隊が、襲撃を担当した。地形は、二週間前と似ていた。
作戦は、成功した。物資を確保した。損害ゼロ。
ルシェンは作戦の成功を、平らな声で報告した。誰も、ルシェンが昨夜何を読んだか、知らなかった。声の調子に、不自然な揺れが、混じっていないかを、ルシェンは自分で、注意深く確認していた。
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その日の夕方、ベシムが部屋に来た。
ベシムが机の上を見た。何枚かの紙が、雑然と置いてあった。傍受の符牒、解読のメモ、地図。
ベシムが目を留めた紙があった。「マルコ将軍指揮下、第三小隊」と書かれた、写しの一部だった。
ルシェンは気づかなかった。引き出しの底に入れたのは、別のページだったが、書き写す途中の紙が、机の上に残っていた。
ベシムが、その紙を、しばらく見た。
「ドラガンか」とベシムが聞いた。
ルシェンは答えなかった。
ベシムが、それ以上聞かなかった。
「わかった」とだけ言って、出ていった。
ベシムは、引き出しの底のことは、聞かなかった。聞かなかったが、ベシムも、その辺りに何かが入っているだろうと、推測しているはずだった。互いに、推測し合っていることを、口に出さなかった。
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夜、ルシェンは引き出しの底のページを取り出した。
「ドラガン・ボグダンの息子」
その文字を、見た。
ルシェンは、紙を裏返した。裏に、自分の手で、書き足した。
「生きている。ドワーフ独立軍。マルコ将軍指揮下。第三小隊長」
書いてから、また裏返した。元のドワーフ独立軍の名簿の文字に戻した。
引き出しの底に、戻した。
***
ランタンの火を、消した。
暗闇の中で、ルシェンは、しばらく座っていた。
ドラガンは、生きている。それだけは、確かだった。
他のすべては、不確かだった。何を考えているか、どんな顔をしているか、覚えていることをまだ覚えているか——わからなかった。「すぐ戻る」と言ったあの夜のことを、ドラガンが、今も覚えているか——それも、わからなかった。
ただ、生きていた。
ルシェンは、そのことを、しばらく抱えていた。
抱えるだけで、何もしなかった。何ができるか、わからなかったからだった。




