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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

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8話:月下の弓

 月が出ていた。


 満月より二日ほど欠けた月が、雲の切れ間から青白い光を落としている。村の東端、アーリアの庭よりさらに奥にある空き地に、ティセラは一人で立っていた。


 手にしているのは母の弓だった。


 エルフの弓は長い。ティセラの背丈と同じほどあり、白樺の木を薄く削り出して何層にも貼り合わせた複合弓だった。握りの部分に銀の象嵌が施され、月光を受けて微かに光っている。母リューバが北部森林領から嫁入りのときに持ってきた弓——実用品であると同時に、エルフの女性が母から娘に受け渡す伝統の品だった。


 ティセラは弦を張った弓を構え、的を見据えた。二十歩先の楡の幹に括りつけた麻布の的。白い布が月明かりの下でぼんやりと浮かんでいる。


 息を吸う。止める。弦を引く。


 エルフの弓術は、力ではなく呼吸で引く。腕の筋力に頼れば矢はぶれる。吸った息を体の芯に沈め、背中の筋で弓を支え、指先は弦に触れているだけ。放つのではなく、指を開く。矢は自ら飛んでいく。


 放った。


 風を切る微かな音。的の中央から指二本分左に、矢が突き刺さった。


 悪くない。だが、中央ではない。


 ティセラは二本目の矢を番えた。呼吸を整え、的を見る。月光が的の布を照らし、先に刺さった矢の影が斜めに伸びている。


 放った。今度は中央から指一本分右。


 三本目。中央。


 音もなく矢が的を穿ち、布の真ん中に沈んだ。ティセラは弓を下ろし、小さく息を吐いた。三本目で中央に当てられるようになった。半年前は五本必要だった。


「すげえな」


 背後で声がした。


 振り返ると、ルシェンが空き地の入り口に立っていた。鍛冶場の作業着のまま、腕を組んで感心したように的を見ている。


「いつから見てたの」


「一本目から」


「声をかけてくれればよかったのに」


「邪魔しちゃ悪いと思って。それに——綺麗だった」


 ティセラは一瞬、耳の先端に手が伸びかけた。押し戻した。


「弓が?」


「弓も。撃つ姿も」


 ルシェンは無造作にそう言った。本人に気障な意図はないのだろう。ただ見たものを口にしているだけだ。だからこそ厄介だと、ティセラは思った。


「撃ってみる?」


 なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。エルフの弓を他種族に触らせることを、母はあまり好まない。だが、ルシェンになら——


「いいのか?」


「簡単じゃないけど」


 ルシェンが近づき、弓を受け取った。持った瞬間、重さに驚いた顔をした。


「思ったより重い」


「白樺の複合弓だから。引くのにはかなりの力がいるわ」


 ルシェンが弦に矢を番えた。形は我流だった。エルフの構えとはまるで違う。肘の角度も、足の開きも、弦を引く指の位置も。ティセラはいくつか直そうとしたが、ルシェンはすでに弦を引き始めていた。


 腕が震えている。エルフの弓を引く筋力が足りない。それでも、ルシェンは的を見つめ、息を止め——


 放った。


 矢は的の端を掠め、後ろの楡の幹に突き刺さった。的からは外れている。だが——


「悪くない」


 ティセラは少し驚いていた。初めてエルフの弓を引いた者が、的の方向に飛ばせたことが珍しかった。大抵は弦が指に噛んで明後日の方向に飛ぶか、そもそも引ききれない。


「勘がいいのね、あなた」


「勘っていうか、見てたら何となく」


「何となく、ね」


 ルシェンにはそういうところがあった。教えられていないことを、見ただけで真似る。完璧ではないが、核心に近い部分を直感で掴む。エルフ語の古い言い回し、ドワーフの鍛冶技術、そして今度は弓。あらゆるものを吸収する海綿のような少年。


 それがヒューマンの特性なのか、ルシェン個人の資質なのか、ティセラにはわからなかった。


 ***


 矢を回収し、弓の弦を外して布で拭いていると、家の方から灯りが揺れてきた。


 母リューバだった。手燭を持ち、庭の道を歩いてくる。


「ティセラ。まだ練習していたの。ルシェンも一緒?」


「すみません、お邪魔してます」


「いいのよ。夜は冷えるから、中に入っていらっしゃい」


 三人は庭の石段に腰を下ろした。リューバが温めた薬草茶を運んできてくれた。湯気が夜風に流れ、月明かりの中で白く揺れる。


 しばらく他愛のない話が続いた。祭りの話、鍛冶場の話、明日の天気。やがてルシェンが薬草茶を飲み干し、「そろそろ戻ります」と腰を上げた。


 ルシェンの背中が交易路に消えた後、リューバが茶碗を両手で包みながら口を開いた。


「ティセラ」


「何、母さん」


「北部のタマラおばさんから手紙が来たの」


 タマラはリューバの姉だ。北部森林領のエルフの都市に住んでいる。


「あちらでは、エルフはエルフだけで暮らしている。ここのように混ざり合ってはいないわ」


 ティセラは母の横顔を見た。月光に照らされた銀髪が風に揺れている。リューバの表情は穏やかだったが、いつもの柔和さの裏に何かが潜んでいた。


「タマラおばさんは、私たちにも戻ってきてほしいって言ってるの?」


「直接はそうは書いていない。でも——あちらの方が安心だと。エルフの子供はエルフの中で育つ方がいいと」


「私はここが好き」


 ティセラは迷わずに言った。


「ルシェンもドラガンもいるし、アーリア長老の修行もある。みんな一緒にいるのが普通だと思う」


 リューバが微笑んだ。だが、その微笑みが消えるのは早かった。


「普通、というのは」


 母が茶碗から視線を上げた。翠の瞳が月光を受けて深く光っている。


「誰が決めることなのかしらね」


 ティセラは答えられなかった。


 母の言葉の意味が、すぐには掴めなかった。普通は普通だ。この村で暮らすこと、エルフとドワーフとヒューマンが隣り合っていること、友達が異種族であること——それが普通ではないのだとしたら、何が普通なのか。


 リューバは立ち上がり、茶碗を持って家の中に入っていった。戸口で一度だけ振り返り、娘を見た。


「寒いから、早く入りなさいね」


 母の声はいつも通り穏やかだった。


 ティセラは庭に残り、月を見上げた。弓の感触がまだ手のひらに残っている。母の弓。エルフの弓。北部森林領から運ばれてきた、エルフの伝統が込められた弓。


 自分はエルフだ。それは事実だ。


 だが、この村で生まれ、この村で育ち、ヒューマンの少年とドワーフの少年と一緒に笑っている自分は、北部のエルフたちと同じエルフなのだろうか。


 その問いには、まだ答えが出ない。


 月が雲に隠れた。庭が暗くなり、ティセラは弓を抱えて家の中に入った。


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