79話:密使
ヤヴェルの店は、シルヴァローズの東区にあった。
古い書物を扱う店だ。エルフ語、共通語、ドワーフ語、稀にオーク語の書物まで揃っている。エルフ評議会と距離を置いた商人のうちの一人、というのが、アーリアからの紹介だった。
店構えは、目立たなかった。表通りから一本入った場所にあり、看板も小さい。意図的に目立たないように作られていた。客が来るのを待つ商売ではなく、客を選ぶ商売だった。
ティセラは、書物を一冊、口実として買いに行った。
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店の扉を押すと、紙と革の匂いがした。書物の店の匂いと、別の匂いが、わずかに混じっていた。蝋燭の煙の匂い。長く灯した蝋燭の煙が、書物に染み込む。何時間も、何日も、人が書物を読み続けてきた、ということだった。
奥にヤヴェルがいた。エルフだが、顔つきが少し南方系の血を引いているように見えた。中央盆地と北部森林領を往復してきた長い旅の影が、目の周りに刻まれていた。
「いらっしゃい」とヤヴェルが言った。
「アーリア長老から、紹介を受けてきました」
「ティセラ・アリアンか」
「はい」
ヤヴェルは少し間を置いてから、店の奥の扉を指した。
「裏に来い」
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裏の部屋は、小さかった。
書物の在庫が積まれていた。テーブルがひとつ、椅子が二つ。窓はなかった。換気は、扉の隙間から、わずかにあるだけだった。意図的に、密閉した部屋だった。声が、外に漏れないように。
ヤヴェルが扉を閉めた。
二人で向き合って座った。互いに、少しの間、何も言わなかった。互いに、相手の出方を、見ていた。
ティセラは、最初の言葉を選んだ。
「南の交易都市シャヘルの状況は」
「混んでいる」とヤヴェルは答えた。「難民が増えている。物資の値段が上がり始めている。包囲の話も、商人の間では出ている」
「包囲」
「まだ噂だ。だが、エルフ軍とドワーフ軍が、それぞれ北と西から圧力をかけているのは事実だ」
ティセラは、それを記憶に留めた。エルフ評議会の決定文書で読んだ「南部展開」は、商人の目には「圧力」として、見えている。同じ動きが、別の場所で、別の名前で呼ばれていた。
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「シャヘルの中に、混成抵抗組織がいると聞きました」とティセラは続けた。
ヤヴェルが少し笑った。
「お前は、誰から聞いた」
「商人の噂を、いくつか繋いだだけです」
「いい繋ぎ方だ」
ヤヴェルは姿勢を変えなかった。声の調子も変えなかった。だが、目の奥が、少し動いた。試している、ということが、伝わった。試して、ティセラの答え方を、見ている。
「いる」とヤヴェルは言った。
「指揮しているのは」
「混血の女だ。ヒューマンとオークの。名前はミラ。経歴はわからない」
「他には」
「最近、参謀が一人増えた。種族はヒューマン。名前は——名乗らないので、わからない。だが、若い。十六か、十七くらいだ。多言語を話す。四つの言語を話すという噂もある」
ティセラは、表情を変えなかった。
しかし、内心では、ひとつの可能性が、ほぼ確定した。胸の中で、心拍が、わずかに早くなった。それを、顔に出さないために、ティセラは、無意識に、耳の先端に触れた。
***
ティセラは、その可能性を口に出さなかった。
代わりに、別のことを聞いた。
「その参謀の評判は」
「悪くない。むしろ、いい。前世にどこかの戦争を見てきたみたいに、判断が早い、と聞いた。よく言われる比喩らしい」
「前世に」
「商人の冗談だ。だが、冗談に近い真実が混じっていることもある」
ティセラは少し、視線を逸らした。
ヤヴェルがそれに気づいたかどうかは、わからなかった。気づいていたとしても、ヤヴェルは、それを、指摘しなかった。商人の作法だった。気づいたことを、すべて口にする商人は、長く商売を続けられない。
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「お前は、何を望んでいる」とヤヴェルが聞いた。
ティセラは少し考えた。
「わかりません」
「わからないか」
「確かなのは——評議会の中だけで、すべての物事が決まるべきではない、ということだけです」
ヤヴェルが、椅子の背に少しもたれた。
「危ない言葉だ」
「わかっています」
「だが、誰かが言わなければならない、とも思う」とヤヴェルは続けた。「だから、今、聞いた。お前の答えがその程度で済むなら、私はお前を信用していい」
ティセラは少し、息を吐いた。気づかないうちに、息を止めていた。試されていることを、自分でも、頭ではわかっていた。しかし、体は、頭よりも、正直に反応していた。
***
ティセラは、用意してきた紙を取り出した。
エルフ古語の詩、一篇だった。書記の特権で、書庫から写してきたものだ。古典の中でも、よく知られていない一篇だった。書庫の地下三層の、奥の棚にあった。誰も読まない種類の書物だった。
「これを、南で広めてほしいのです」とティセラは言った。
ヤヴェルが受け取って、読んだ。
古い詩だった。互いに種族の異なる二人の幼馴染を悼む内容だ。一人がもう一人を、戦の中で失う。失った者が、星を見上げて、相手を呼ぶ。相手の名前は、詩の中では書かれない。ただ、「覚えている」と繰り返される。
「これを」とヤヴェルが言った。
「ただの詩です」とティセラは答えた。「聞く者には、ただの詩として聞こえます。聞く耳のある者には——別の意味が、聞こえるかもしれません」
ヤヴェルが少し笑った。
「外交官の作法だ」と言った。
「外交官ではありません」
「いや、もう、なっている」
***
ヤヴェルは詩を畳んで、内ポケットに入れた。
「次にシャヘルへ行くのは、二週間後だ。詩はそのときに持って行く。商人仲間を通じて、酒場で広める。広まるかどうかは、保証できない。聞く耳のある者がいるかどうか、私には判断できないからな」
「広まらなくても、いいのです」とティセラは言った。「私の手から離れて、世界のどこかに置かれれば、それで」
ヤヴェルは頷いた。それ以上は、確認しなかった。確認しないことが、商人としての、信用の示し方だった。
***
ティセラは立ち上がった。
ヤヴェルも立ち上がった。扉の前まで来て、ヤヴェルがふと言った。
「お前の名前は、すでにいくつかの場所で聞いている。北の評議会の外でも」
ティセラは止まった。
「どこで」
ヤヴェルは答えなかった。少し笑っただけだった。
「いつか、自分で聞きに行くといい」
ティセラは扉の前で、しばらく動かなかった。
「いつか」というのが、いつのことか、ティセラは考えないことにした。
考えれば、それは希望になる。希望は、危険な感情だ。書庫で読んだ歴史の中で、希望に動かされた者は、何度も裏切られていた。希望は、判断を鈍らせる。判断が鈍れば、ティセラの言葉も、ティセラ自身も、危険にさらされる。
ティセラは、扉を開けて、外に出た。
***
店の外は、夕方だった。
シルヴァローズの東区の路地は、樹の影が長く伸びていた。樹々の影が、石畳の上で、複雑な模様を作っていた。
ティセラは口実として買った書物を抱えて、ゆっくりと歩いた。歩く速度を、来たときと、変えないようにした。観察される可能性を、頭の隅に置きながら、歩いた。
歩きながら、ヤヴェルが言った若い参謀のことを、少し考えた。
ヒューマン、十六か十七、四つの言語、判断が早い、前世にどこかを見てきたような——
考えるのを止めた。
考えれば、それは希望になる。
ティセラはそれだけを、自分に言い聞かせた。




