78話:銀の髪飾り
その夜、ティセラは清書の仕事から早めに離れた。
明日の通達は、副官の手で発送される。ティセラの仕事は終わっていた。終わった、というよりは、終わらせた。これ以上、机に向かっていれば、もう一度、紙の上に涙を落としてしまう気がした。
自室に戻った。
ランタンの火を、一段小さくした。
***
荷物の底に、布包みがあった。
メシャラから持ってきた数少ない私物の中の、ひとつだ。途中、いくつかの荷物を手放した。重さを減らさなければならない場面が、何度かあった。だが、この布包みだけは、最後まで残した。
ティセラはそれを取り出した。机の上に置いて、ゆっくりと包みを開いた。布は、何度も畳まれていた折り目が、線として残っていた。
中に、銀の髪飾りがひとつあった。
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ひとつしかない髪飾りだった。
ティセラは、よく覚えている。完全記憶は、こういう細部をすべて保持している。
村の古い樹の下で、ルシェンが布包みを差し出した。中にあったのが、この髪飾りだった。弧はわずかに歪んでいた。磨き切れなかった細い傷も残っていた。
「ルシェンが作ったの?」
「……下手だろうけど」
ティセラは、その場で髪に差した。
「覚えている」と言った。「この感触も」
ルシェンは、何も答えなかった。答えなかったが、古い樹の下の沈黙は、居心地が悪くなかった。
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その後、ティセラは髪飾りを大事にした。
祭りの日には、必ず付けた。普段は箱に入れて、机の引き出しの奥に置いた。そこにあることは、確認しなくても知っていた。それでも、ときどき引き出しを開けた。
ひとつしかないから、半分に分けることはできなかった。
作った者の手から、受け取った者の手へ渡った。それだけだった。それだけの移動を、ティセラは何年も覚えていた。
***
メシャラを発つ朝、ティセラはルシェンの家に行った。
村の記録の巻物を渡した。その後で、懐から銀の髪飾りを取り出した。
渡さなかった。ただ、見せた。
「覚えている」と言った。
以前の約束の続きだった。村のことも、三人のことも、ここで交わした言葉も、まだ自分の中にある。その証拠として見せた。
ルシェンは、ティセラの名前だけを呼んだ。
髪飾りは、ティセラの手に残った。巻物は、ルシェンの手に残った。
二人が同じものを持つ必要はなかった。互いに、相手が預かったものを知っていた。それで、約束は切れなかった。
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ティセラは髪飾りを、掌に乗せた。
形は、わずかに歪んでいた。銀の表面に、ルシェンの金槌の跡が残っていた。均一ではない。職人が見れば、直すべき場所をいくつも見つけるだろう。
だが、直されていないから、ルシェンが打ったものだとわかった。
ティセラはそれを見ながら、メシャラのことを思い出した。
完全記憶ゆえに、すべてが鮮明だった。
鍛冶場の音。ルシェンの背中。ドラガンの笑い声。夏の畑の麦の匂い。冬の暖炉の煙。五種族の祭りの色。秋の収穫の労働歌。最後の夜、丘の上で三人で見上げた星——すべてが、今この瞬間にも、戻ってくる。
戻ってくる、というよりは——常にそこにある、と言うべきだった。完全記憶は、思い出す動作を必要としない。記憶はずっとそこにあって、ティセラが意識を向けるかどうかだけが、変数だ。
今は、意識を向けていた。だから、すべてが鮮明だった。
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「覚えている」とティセラは独り言で言った。
誰にともなく。
村にも、ルシェンにも、ドラガンにも、過ぎ去った時間にも。
覚えていることは、エルフの美徳だ。アーリアが昔から繰り返し言っていたことだ。「忘れないことは美徳だ」——だが、アーリアはこうも言った。「忘れないことは、呪いでもある」。
今、ティセラは、その後半を、深く理解した。
***
覚えていることが、辛い。
覚えていることが、罰のように働いている。
なぜ罰なのか——
覚えていない人たちがいるからだ。シルヴァローズのエルフの少女、メシャラのうるさい広場を知らない子。エルフ評議会の長老たち、ヴーク。彼らは、メシャラのような場所を、覚えていない。覚えていない場所のことを、想像で論じている。
ティセラは、覚えている。
覚えているから、彼らの議論が、想像の上の話だとわかる。
わかることが、辛い。わかっていて、何もできないことが、もっと辛い。
***
ティセラは髪飾りを、しばらく握っていた。
握っているうちに、銀が手の温度を吸って、温まった。冷たい金属が、生き物のような温度になった。
冷たい銀ではなくなった瞬間に、ティセラは目を閉じた。
ルシェンの手元には、村の記録がある。ティセラの手元には、ルシェンが打った銀がある。
別々の場所で、互いが預かったものを持っている。
***
しばらくして、ティセラは目を開けた。
髪飾りを布で包み直して、荷物の底に戻した。
ランタンの火を、もう一段小さくした。
寝台に入った。
眠れるかどうかわからなかった。眠れなくてもよかった。
今夜のこの数刻を、自分は永遠に覚えているだろうと、ティセラは知った。覚えているなら、それで十分だった。




