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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

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77話:エルフの正義

 朝、評議会の副官が報告書を抱えてきた。


 南部からの戦果報告だった。エルフ軍の前線部隊が、オーク系集落の制圧に成功した。報告書はそれを伝えていた。


「ティセラ、これを清書しろ」と副官は言った。「明日、北部全土へ通達される」


 ティセラは報告書を受け取った。紙の重さは、軽かった。だが、書かれている内容の重さは、その軽さとは別だった。


「わかりました」


 ***


 書記台に戻って、報告書を読んだ。


 ヴェスナ集落のテロリスト勢力を制圧。武装勢力十二名を排除。民間人への被害は確認されず。集落の機能は維持されている。


 簡潔な報告書だった。四行で済む内容だった。簡潔さの中に、書かれていないことが、いくつもあった。書かれていないことの方が、書かれていることより、多かった。


 ティセラは、書記としての規則に従って、まず三回読んだ。一度目で全体を、二度目で構造を、三度目で言葉の選び方を確認する。それが、書庫で習った清書の手順だ。


 三度目を読み終えたとき、ティセラは羽根筆を取らなかった。


 代わりに、副官のところへ行った。


 ***


「テロリストとは、具体的に誰のことですか」とティセラは聞いた。


 副官が顔を上げた。怪訝な表情だった。書記が、内容について質問する、という事態を、想定していなかった顔だった。


「武装していた者だ」


「武装の証拠は」


「報告書に書かれている通りだ」


「報告書には、十二名を排除したと書かれています。武装の内訳は書かれていません」


 副官が、少し沈黙した。沈黙の中で、何かを判断している様子だった。書記の質問を、許容するか、しないか。許容しなければ、何かが起こる、と予期しているのか。


「集落には、他のオークが何人いましたか」とティセラは続けた。


「お前は書記だ」と副官が言った。「質問するのが仕事ではない。書くのが仕事だ」


「わかりました」


 ティセラは下がった。副官は書類に戻った。書類に戻る動作に、苛立ちが、わずかに、混じっていた。


 ***


 ティセラは書記台に戻った。羽根筆を取った。


 羽根筆を取って、紙に向かった。


 しかし、書き始めなかった。


 報告書の文字を、もう一度見た。「テロリスト」「排除」「民間人への被害は確認されず」「集落の機能は維持されている」——これらの言葉が、どれも、ティセラが疑問を持った瞬間に、別の意味を含み始めた。


 「テロリスト」は、誰が、誰を呼ぶときの言葉か。


 「排除」は、何を意味するか。殺害か、追放か、拘束か。


 「民間人への被害は確認されず」は、確認しなかった、ということではないか。


 「集落の機能は維持されている」は、何の機能か。誰が機能しているか。


 書記の仕事は、書くことだ。質問することではない。質問は、長老の仕事だ。


 ティセラは羽根筆を構えた。


 しかし、書き始める前に、書庫番から声がかかった。


「アーリア長老から、夜になったら家に来るようにと」


 ティセラは頷いた。


 ***


 日が落ちてから、アーリアの家に向かった。


 扉を叩くと、アーリアが出てきた。すでに机に書類が広げられていた。報告書とは別の書類だった。広げ方が、整然としていた。今日のこの時間のために、用意されていた書類だった。


「読んで」とアーリアが言った。


 ティセラは座って、書類を読んだ。


 一枚目は、エルフ商人ヴラディアの口頭証言だった。ヴェスナ集落の近くを通った商人が、何を見たかを書き留めたものだった。


 二枚目は、無事に逃れたオークの少年の証言だった。少年の名前は伏せられていた。証言は短かったが、内容は鮮明だった。


 三枚目は、現場を通った旅人の覚書だった。旅人もエルフではなかった。ヒューマンの行商人だった。


 別々の出所だった。


 しかし、内容は、ほぼ一致していた。


 ***


 武装勢力ではなかった。農村だった。


 殺された者の内訳——


 老人が三人。


 女が五人。


 男が四人。男のうち二人は若かったが、武器を持っていたかどうかは、確認できなかった。


 子供が二人、連れ去られた。


 建物が焼かれた。畑が荒らされた。家畜が殺された。


 ティセラはそれを読んだ。三つの紙の上の数字を、頭の中で、整理した。三人、五人、四人、二人——合計十四人の殺害と、二人の連れ去り。報告書の「十二名を排除」とは、数字が合わなかった。


 ***


「これを、どこから」とティセラは聞いた。


「三つの経路だ」とアーリアが答えた。「商人ヴラディアは、私の遠縁の知り合いだ。少年の証言は、北の村の語り部に伝わったものを、別の語り部が私に届けた。旅人の覚書は、ヤヴェルが持ってきた」


「ヤヴェル」


 ティセラはその名前を覚えた。完全記憶は、名前を、すぐに固定する。


「いずれ会うことになるかもしれない」とアーリアは言った。「だが、今は、お前は明日の清書をしろ」


 ティセラは紙を見た。


 ***


「私は、これからこれを清書します」とティセラは言った。「『テロリストを排除した。民間人への被害は確認されず』と」


「そうだ」


「私の手で、これが『公式の事実』になります」


「そうだ」


「私の筆跡で、嘘が、紙に固定されます」


「そうだ」


 アーリアは、何も付け加えなかった。


 ティセラは、しばらく紙を見た。それから、別の紙——アーリアが持ってきた三つの証言の紙——も見た。


 二つの紙の上に、まったく別の世界が書かれていた。


 ***


 夜、自室で清書を始めた。


 ランタンを点けた。


 報告書を机に置いた。新しい紙を、その隣に置いた。


 書き始めた。


 「ヴェスナ集落のテロリスト勢力を制圧——」


 手が震えた。


 震えに気づいて、止めようとした。止まらなかった。それでも、書いた。


 「——武装勢力十二名を排除——」


 書きながら、ティセラは、十二人の顔を思い浮かべないようにした。顔は、報告書に書かれていない。書かれていないものを、書記が思い浮かべるべきではない。


 しかし、別の紙には、書かれていた。


 老人三人、女五人、男四人。


 書記は、何を書くか選べない。選ぶのは長老だ。書記は、書く。


 「——民間人への被害は確認されず——」


 ここまで書いたとき、涙が、紙の上に落ちた。


 ***


 涙を拭く前に、文字が滲んだ。


 ティセラは涙を拭いた。袖で拭いた。一度では拭ききれなかった。何度も拭いた。


 拭き終わって、紙を見た。


 文字の一部が、滲んで、判読が難しくなっていた。


 書き直さなければならなかった。


 ***


 書き直した。


 新しい紙に、同じ言葉を書いた。


 「ヴェスナ集落のテロリスト勢力を制圧。武装勢力十二名を排除。民間人への被害は確認されず。集落の機能は維持されている」


 今度は、涙を落とさなかった。涙が出ないようにしたのではなかった。涙が出る前に、書く動作が、終わっていた。慣れた、というのではない。速くなった、というのが、近かった。


 書き終えた。


 書き終えたとき、ティセラは自分が何をしているのか、もう一度わからなくなった。


 (私は嘘を書いているのか。それとも、嘘が固定される過程を「記録」しているのか)


 ***


 完全記憶が、ここで呪いになる、とティセラは思った。


 書いた言葉も、書きながら感じたことも、永遠に忘れない。明日も覚えている。十年後も覚えている。


 覚えている。


 ティセラは羽根筆を置いた。


 窓を開けた。


 森が静かだった。風はあるが、葉が薄い。秋の気配だった。葉が落ち始めていた。森が、冬に向かって、色を変え始めていた。


 ティセラは小さく声に出した。


「私は、傍観者にはならない」


 声は、自分の耳にしか届かなかった。


 誰にも届かなかった。


 しかし、声にしたことで、何かが決まった。何が決まったかは、まだ、ティセラ自身にもわからなかった。


 手元の紙には、嘘が、固定されていた。明日の朝、副官に渡されて、北部全土に通達される。


 別の紙には、真実が、書かれていた。アーリアの家に、戻る予定だった。


 二つの紙が、別々の場所で、別々に保存される。ティセラの完全記憶の中では、両方が、同じ重さで、保たれる。


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