76話:記憶の番人
書庫は、評議場の地下三層にあった。
書記の特権で、自由に閲覧できる。長老の許可がなくても、書記の証を見せれば、書庫番が扉を開ける。それが、ティセラに与えられた唯一の特権だった。他の特権は、何もなかった。発言する権利もない。意見する権利もない。あるのは、過去の文字を、読む権利だけだった。
ティセラは、その特権を使った。
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最初に読んだのは、ゼノヴァル帝期の地方行政記録だった。
八十年前から五十年前まで。三十年間の連邦中央の決定文書。
表向きの記録は、すでに公開されているものを書写しただけのものだった。「五種族融和」の理念、「兄弟愛と統一」の標語、各種族への文化的配慮——いずれも、ティセラがメシャラで習った歴史と一致していた。アーリアが、子供のティセラに教えた歴史も、これと同じ枠組みだった。
しかし、地下三層には、別の記録があった。
行政の実務記録だ。日付ごとに、何が決定され、何が実行されたかが書かれている。表向きの理念ではなく、現実の数字が並んでいる。理念と実務は、別の言語で書かれているように、互いに離れていた。
ティセラは、それを読んだ。
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エルフ語の学校予算が、二十年で四割削減された記録があった。
最初の削減は、ゼノヴァル帝期の中盤だった。「効率化」と「統合教育」という名目で、エルフ語専門の学校が「連邦共通教育」に統合された。統合の名のもとに、エルフ語の授業時間が段階的に減らされた。
最終的に、エルフ語の授業は、週に二時間だけになった。
共通語の授業は、週に十二時間だった。
ティセラは、その数字を、頭の中に固定した。完全記憶は、数字を、鮮明に保持する。二と十二の比率は、子供たちの言語感覚を、根本から変える比率だった。
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次に、エルフ式の祝祭の記録があった。
春の銀葉祭、夏の風読みの夜、秋の語り部の集い——いずれも、エルフが千年単位で続けてきた祝祭だ。
ゼノヴァル帝期に、これらは「地方の慣習」として分類された。
「地方の慣習」とは、行政用語だった。「地方の慣習」は、規模を制限される対象になる。集まりは五百人までに制限される。共通語の演説を含めなければならない。連邦の旗を掲げなければならない。
銀葉祭は、本来、千人を超える集まりだった。エルフ語で語り、エルフの旗を掲げる祭りだった。
規模制限の下で、それは別の祭りになった。同じ名前を使い続けたが、中身が変わっていた。名前と中身の間に、ずれが生じていた。
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次に、北部森林領の自治権の記録があった。
ゼノヴァル帝期に、北部森林領の自治権は段階的に縮小された。
最初は、税の徴収権が連邦中央に移った。
次に、警備権が連邦に統合された。
最後に、長老会議の決定権の一部が、連邦中央の承認を要するようになった。
三十年間で、北部森林領は、自治州から、ほぼ連邦の地方行政区に近い形になった。形だけは「自治州」と呼ばれ続けたが、決定権の中身は、空洞化していた。
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ランタンの油が、少なくなっていた。
ティセラは、別の棚に移った。
次に読んだのは、現在のエルフ評議会の決定文書だった。書庫には、最新の決定もすべて保管されている。書記の特権で、それも閲覧できた。
ティセラはそれを読み始めた。
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現在のエルフ評議会は、南部のオーク系住民の自治権を、段階的に縮小していた。
昨年、税の徴収権の一部を、エルフ評議会が引き受けた。「治安維持の名目で」とあった。
今年に入ってから、オーク式の集会に対して規制が始まった。「五百人を超える集まりは事前申請を要する」とあった。
オーク語の学校への補助金が、削減されていた。「連邦共通教育の統合化を進めるため」とあった。
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ティセラは、ランタンを少し近づけた。
文書の上の文字を、もう一度読み直した。
ゼノヴァル帝期の記録と、現在のエルフ評議会の決定の文書は、別の文書だった。書き手も違う。日付も、八十年離れている。使われている用語も、少し違う。
しかし——構造が、同じだった。
学校予算の削減、祝祭の規模制限、自治権の段階的縮小。順序まで、同じだった。「効率化」「治安維持の名目」「統合化を進めるため」——名目を提供する言葉まで、似ていた。
ティセラは、ランタンの火を見つめた。
(抑圧されていたエルフが、今、抑圧している。歴史は同じ動きを、反対の向きに繰り返している)
その認識に到達したとき、ティセラは膝が震えた。震えに気づいて、両手を膝の上に置いた。両手で押さえても、震えはしばらく止まらなかった。
ティセラは、無意識に、耳の先端に触れた。感情を抑えるときの、自分の癖だった。触れている間、震えが、わずかに、弱くなった。
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書庫を出たのは、夜更けだった。
地下三層から階段を上がる間、ティセラは数字のことを考えていた。
予算の四割削減。週に二時間。五百人の上限。三十年で連邦の地方行政区。
数字は、完全記憶の中で、消えなかった。階段を上がる足音の数も、数えていた。一段、二段、三段。階段の段数は、書庫から地上まで、五十二段だった。
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翌朝、アーリアの家に向かった。
扉を叩くと、アーリアは起きていた。すでに昇った日に、書物を読んでいた。ティセラを座らせた。
「読みましたか」とティセラは言った。
「読んだ」とアーリアが答えた。
ティセラがどの記録のことを言っているか、アーリアは聞かなかった。聞かなくても、わかっていた。あの記録に、いずれティセラが辿り着くことを、アーリアは予期していた。予期した上で、ティセラに、書記の道を開いていた。
「どう思った」
ティセラは少し間を置いて、言った。
「エルフが受けた抑圧は、本物でした」
「そうだ」
「でも、それが今、別の種族を抑圧していい理由になっていません」
「そうだ」
「ヴークは、過去の抑圧を理由にしています」
「そうだ」
「それは、間違っています」
アーリアは少し時間を置いてから、答えた。
「それを、言葉にできる者が、今、評議会の中にどれだけいるか——わかるか」
ティセラは答えなかった。答えは、知っていた。極めて少ない、というのが、答えだった。下手をすれば、アーリア一人、あるいは、いない、というのが、答えだった。
アーリアは、火を見ていた。
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「言葉にできるだけでは、足りない」とアーリアが続けた。「言葉にすると、敵ができる。敵を作る覚悟があるかどうか、自分に問うてみるのがいい」
ティセラは何も言わなかった。
アーリアもそれ以上は言わなかった。
しばらく二人で、火を見ていた。火が、薪をひとつ食う音がした。
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その夜、自室に戻った。
寝台に入った。
目を閉じた。
眠ろうとした。
しかし、書庫で読んだ数字が、瞼の裏に浮かんだ。
予算の四割削減。週に二時間。五百人の上限。三十年で連邦の地方行政区。
ティセラは目を開けた。
完全記憶は、選んで忘れることができない。明日も、これを覚えている。十年後も、覚えている。覚え続けることが、ティセラの能力であり、ティセラの義務であり、ティセラの罰でもあった。
天井を見た。樹の根が、天井の梁になっている部分があった。その根が、灯りのない部屋でも、微かに見えた。
ティセラはそれを見ながら、眠ろうとしないことに決めた。眠っても、夢の中に、数字が出てくるはずだった。それなら、起きていて、向き合う方が、楽だった。




