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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

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76話:記憶の番人

 書庫は、評議場の地下三層にあった。


 書記の特権で、自由に閲覧できる。長老の許可がなくても、書記の証を見せれば、書庫番が扉を開ける。それが、ティセラに与えられた唯一の特権だった。他の特権は、何もなかった。発言する権利もない。意見する権利もない。あるのは、過去の文字を、読む権利だけだった。


 ティセラは、その特権を使った。


 ***


 最初に読んだのは、ゼノヴァル帝期の地方行政記録だった。


 八十年前から五十年前まで。三十年間の連邦中央の決定文書。


 表向きの記録は、すでに公開されているものを書写しただけのものだった。「五種族融和」の理念、「兄弟愛と統一」の標語、各種族への文化的配慮——いずれも、ティセラがメシャラで習った歴史と一致していた。アーリアが、子供のティセラに教えた歴史も、これと同じ枠組みだった。


 しかし、地下三層には、別の記録があった。


 行政の実務記録だ。日付ごとに、何が決定され、何が実行されたかが書かれている。表向きの理念ではなく、現実の数字が並んでいる。理念と実務は、別の言語で書かれているように、互いに離れていた。


 ティセラは、それを読んだ。


 ***


 エルフ語の学校予算が、二十年で四割削減された記録があった。


 最初の削減は、ゼノヴァル帝期の中盤だった。「効率化」と「統合教育」という名目で、エルフ語専門の学校が「連邦共通教育」に統合された。統合の名のもとに、エルフ語の授業時間が段階的に減らされた。


 最終的に、エルフ語の授業は、週に二時間だけになった。


 共通語の授業は、週に十二時間だった。


 ティセラは、その数字を、頭の中に固定した。完全記憶は、数字を、鮮明に保持する。二と十二の比率は、子供たちの言語感覚を、根本から変える比率だった。


 ***


 次に、エルフ式の祝祭の記録があった。


 春の銀葉祭、夏の風読みの夜、秋の語り部の集い——いずれも、エルフが千年単位で続けてきた祝祭だ。


 ゼノヴァル帝期に、これらは「地方の慣習」として分類された。


 「地方の慣習」とは、行政用語だった。「地方の慣習」は、規模を制限される対象になる。集まりは五百人までに制限される。共通語の演説を含めなければならない。連邦の旗を掲げなければならない。


 銀葉祭は、本来、千人を超える集まりだった。エルフ語で語り、エルフの旗を掲げる祭りだった。


 規模制限の下で、それは別の祭りになった。同じ名前を使い続けたが、中身が変わっていた。名前と中身の間に、ずれが生じていた。


 ***


 次に、北部森林領の自治権の記録があった。


 ゼノヴァル帝期に、北部森林領の自治権は段階的に縮小された。


 最初は、税の徴収権が連邦中央に移った。


 次に、警備権が連邦に統合された。


 最後に、長老会議の決定権の一部が、連邦中央の承認を要するようになった。


 三十年間で、北部森林領は、自治州から、ほぼ連邦の地方行政区に近い形になった。形だけは「自治州」と呼ばれ続けたが、決定権の中身は、空洞化していた。


 ***


 ランタンの油が、少なくなっていた。


 ティセラは、別の棚に移った。


 次に読んだのは、現在のエルフ評議会の決定文書だった。書庫には、最新の決定もすべて保管されている。書記の特権で、それも閲覧できた。


 ティセラはそれを読み始めた。


 ***


 現在のエルフ評議会は、南部のオーク系住民の自治権を、段階的に縮小していた。


 昨年、税の徴収権の一部を、エルフ評議会が引き受けた。「治安維持の名目で」とあった。


 今年に入ってから、オーク式の集会に対して規制が始まった。「五百人を超える集まりは事前申請を要する」とあった。


 オーク語の学校への補助金が、削減されていた。「連邦共通教育の統合化を進めるため」とあった。


 ***


 ティセラは、ランタンを少し近づけた。


 文書の上の文字を、もう一度読み直した。


 ゼノヴァル帝期の記録と、現在のエルフ評議会の決定の文書は、別の文書だった。書き手も違う。日付も、八十年離れている。使われている用語も、少し違う。


 しかし——構造が、同じだった。


 学校予算の削減、祝祭の規模制限、自治権の段階的縮小。順序まで、同じだった。「効率化」「治安維持の名目」「統合化を進めるため」——名目を提供する言葉まで、似ていた。


 ティセラは、ランタンの火を見つめた。


 (抑圧されていたエルフが、今、抑圧している。歴史は同じ動きを、反対の向きに繰り返している)


 その認識に到達したとき、ティセラは膝が震えた。震えに気づいて、両手を膝の上に置いた。両手で押さえても、震えはしばらく止まらなかった。


 ティセラは、無意識に、耳の先端に触れた。感情を抑えるときの、自分の癖だった。触れている間、震えが、わずかに、弱くなった。


 ***


 書庫を出たのは、夜更けだった。


 地下三層から階段を上がる間、ティセラは数字のことを考えていた。


 予算の四割削減。週に二時間。五百人の上限。三十年で連邦の地方行政区。


 数字は、完全記憶の中で、消えなかった。階段を上がる足音の数も、数えていた。一段、二段、三段。階段の段数は、書庫から地上まで、五十二段だった。


 ***


 翌朝、アーリアの家に向かった。


 扉を叩くと、アーリアは起きていた。すでに昇った日に、書物を読んでいた。ティセラを座らせた。


「読みましたか」とティセラは言った。


「読んだ」とアーリアが答えた。


 ティセラがどの記録のことを言っているか、アーリアは聞かなかった。聞かなくても、わかっていた。あの記録に、いずれティセラが辿り着くことを、アーリアは予期していた。予期した上で、ティセラに、書記の道を開いていた。


「どう思った」


 ティセラは少し間を置いて、言った。


「エルフが受けた抑圧は、本物でした」


「そうだ」


「でも、それが今、別の種族を抑圧していい理由になっていません」


「そうだ」


「ヴークは、過去の抑圧を理由にしています」


「そうだ」


「それは、間違っています」


 アーリアは少し時間を置いてから、答えた。


「それを、言葉にできる者が、今、評議会の中にどれだけいるか——わかるか」


 ティセラは答えなかった。答えは、知っていた。極めて少ない、というのが、答えだった。下手をすれば、アーリア一人、あるいは、いない、というのが、答えだった。


 アーリアは、火を見ていた。


 ***


「言葉にできるだけでは、足りない」とアーリアが続けた。「言葉にすると、敵ができる。敵を作る覚悟があるかどうか、自分に問うてみるのがいい」


 ティセラは何も言わなかった。


 アーリアもそれ以上は言わなかった。


 しばらく二人で、火を見ていた。火が、薪をひとつ食う音がした。


 ***


 その夜、自室に戻った。


 寝台に入った。


 目を閉じた。


 眠ろうとした。


 しかし、書庫で読んだ数字が、瞼の裏に浮かんだ。


 予算の四割削減。週に二時間。五百人の上限。三十年で連邦の地方行政区。


 ティセラは目を開けた。


 完全記憶は、選んで忘れることができない。明日も、これを覚えている。十年後も、覚えている。覚え続けることが、ティセラの能力であり、ティセラの義務であり、ティセラの罰でもあった。


 天井を見た。樹の根が、天井の梁になっている部分があった。その根が、灯りのない部屋でも、微かに見えた。


 ティセラはそれを見ながら、眠ろうとしないことに決めた。眠っても、夢の中に、数字が出てくるはずだった。それなら、起きていて、向き合う方が、楽だった。


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