80話:長老の忠告
ヤヴェルとの面会から、四日が経った夜だった。
アーリアの使者が、ティセラの部屋の扉を叩いた。「今夜、家に来るように」と告げただけで、使者は去った。使者の顔は、ティセラの知らない顔だった。アーリアの周りに、ティセラの知らない人々が、いた。
ティセラは外套を取った。
***
アーリアの家には、火が小さく燃えていた。
ティセラが入ると、アーリアは椅子に座っていた。向かいの椅子を指した。ティセラは座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
火が、薪をひとつ食う音がした。
「お前は、何をしようとしている」とアーリアが言った。
ティセラは、すぐに答えなかった。
「……わかりません」
「わかっていて、ここに来たのではないか」
ティセラは沈黙した。アーリアは、ティセラの「わからない」の中身を、見ていた。わからないと言うことが、何を意味するか、もう知っていた。
***
「ヤヴェルから、書物を一冊買ったそうだな」とアーリアは続けた。
「はい」
「あの男が運ぶ書物の、半分は、書物ではない」
ティセラは何も言えなかった。
アーリアは、すべてを知っていた。書庫で誰の記録を読んだか、ヤヴェルに何を渡したか、何のために渡したか——おそらく全部を、把握している。それでいて、評議会には告げていない。
告げていないことが、忠告の前提だった。告げない、と決めた人だけが、忠告を、することができた。
***
「八十年前」とアーリアが、別の話を始めた。
ティセラは少し顔を上げた。
「私は若かった。今のお前より、少しだけ年上だった。北部森林領は、別の戦争の最中だった。相手は南の連邦軍だ。私は、北部の長老の弟子として、書庫の管理をしていた」
ティセラは聞いていた。アーリアが、自分の昔のことを語るのを、聞くのは、初めてだった。
「あるとき、別の種族の和平を模索する者たちと、密かに繋がりを持った。連邦軍の中の、戦争に懐疑的な将校たち。彼らは、自分たちの軍が間違った方向に進んでいることを、知っていた。私は、彼らとエルフ側の穏健派の橋渡しをした」
「結果は」とティセラは聞いた。
「失敗した」
アーリアの声は、平らだった。八十年経っても、平らだった。あるいは、八十年経ったから、平らだった。
「和平は成立しなかった。私の協力者が、三人、処刑された。エルフの方の協力者も、一人、評議会から追放された。私自身は、長老の弟子という立場で守られて、生き残った」
「……」
「後悔していない」とアーリアは言った。「やらなかった後悔の方が、深い、と今でも思う」
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ティセラはしばらく、火を見ていた。
「私のやっていることは、八十年前のアーリア様と同じ道です」
「そうだ」
「結果は、また失敗するかもしれません」
「するかもしれない」
「それでも、やる意味はありますか」
アーリアは少し時間を置いてから答えた。
「意味があるかどうかは、後から決まる。今、それを問うても、答えは出ない。今、問うべきは——お前が、やらない後悔とやって失敗した後悔の、どちらに耐えられるか、ということだ」
ティセラは火を見続けた。
ランタンの油が、わずかに残り少なくなっていた。
***
「やらない方が、耐えられません」とティセラは最後に答えた。
「わかった」とアーリアは言った。
それだけの会話だった。だが、それで、何かが決まった。
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「実用的な助言がある」とアーリアが続けた。「お前が今後やることに関する助言だ」
ティセラは姿勢を正した。
「ひとつ。通信の経路は、最低三段重ねること。お前から相手まで、直接の線を作らない。間に必ず二人以上を入れること。一段だけだと、一人を捕らえれば全員が露見する。三段なら、二人を捕らえても、まだ守れる」
「二つ。同じ商人を、二度連続で使わないこと。ヤヴェルに次の用件がある場合は、間に別の経路を一回挟む。動きが規則的になると、観察者に読まれる」
「三つ。自分の筆跡を、密書には残さないこと。書記の筆跡は、評議会に見本が登録されている。お前の筆跡は、すでに把握されている」
「四つ。必ず、詩や歌の形を取ること。直接の指示や情報の形を取ったものは、密書だと見抜かれる。詩や歌の形なら、聞く耳のある者にしか意味が伝わらない。聞く耳のない者には、ただの詩だ」
「五つ。密書という形では、絶対に書かないこと。書く必要があるなら、別の文書の余白や、別の書物の頁の間に、自然に紛れ込ませること。発見されても、『誰が入れたかわからない』という形を残すこと」
ティセラは、それらを完全記憶に留めた。一度聞けば、忘れない。八十年前の経験から、抽出された五つの教えだった。アーリアが、しくじりから、ゆっくり、組み上げてきたものだった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」とアーリアは言った。「これは、八十年前に私がしくじったことの、再演だ。お前にはしくじってほしくない」
***
火が、また薪をひとつ食った。
ティセラはふと、聞きたいことを思い出した。
「アーリア様は、なぜ私に教えてくださるのですか。発覚すれば、アーリア様も連座します」
アーリアは少し時間を置いてから、答えた。
「私はもう、八十年前のしくじりを背負って、ここまで来た。背負い続けて、ここまで来た。お前が今、私と同じ道に入るなら——せめて、私のしくじりの分だけは、お前のしくじりから引いてやりたい」
「……」
「個人的な理由だ」とアーリアは少し笑った。「公の理由ではない。だから、礼を言われると、困る」
ティセラは、何も言わなかった。
言葉が見つからなかった。八十年という時間の重さに、ティセラの言葉は、まだ追いついていなかった。
***
退出する前に、アーリアが言った。
「ヴークが、お前に目をつけている。気をつけなさい。次の評議会で、お前を試すかもしれない」
「試す」
「ヴークは、お前を、味方にしたいのか、排除したいのか、まだ決めかねている。だから、試す。試して、お前の答え方を見て、決める」
「答え方によっては」
「味方なら、お前を取り込もうとするだろう。お前の能力は評議会に大きな力になる。だが、排除と決めれば、お前は書記の職を失うだけでなく、命の保証もなくなる」
ティセラは頷いた。
「わかりました」
***
扉の前まで来て、ティセラはもう一度振り返った。
「アーリア様の八十年前の協力者の名前は、誰でしたか」
アーリアは少し驚いた顔をした。それから、笑った。
「お前は、書記だな。やはり、名前を聞く」
「覚えておきたかったのです」
「リサンドラ・タロン」とアーリアは言った。「エルフ側の協力者だ。追放されてからの消息は、私も知らない」
「リサンドラ・タロン」とティセラは繰り返した。声に出して、繰り返した。完全記憶に留めるのに、声に出す必要はない。だが、声に出した。声に出すことで、その名前を、自分の中で、別の位置に置いた。
「あとの三人——連邦軍側の将校たちの名前も、教える」
アーリアは三つの名前を言った。ティセラは記憶に留めた。三つとも、ティセラには馴染みのない名前だった。
***
「覚えています」とティセラは言った。
「うむ」とアーリアは頷いた。「それでいい」
ティセラは外套を取って、扉を開けた。
夜の森に出た。
ランタンを持っていなかった。月だけが、道を照らしていた。
ティセラは、四つの名前を、頭の中で繰り返しながら歩いた。リサンドラ・タロンと、三人の連邦軍の将校。八十年前に、和平を試みて、失敗して、四人とも処分された者たち。彼らの名前を、今夜、ティセラが受け継いだ。




