73話:北部の森
北部森林領の都市シルヴァローズに着いたのは、夏の終わりだった。
メシャラを出てから、二か月と十一日が経っていた。ティセラは数えていた。エルフの完全記憶は、選んで数えないことを許さない。出発の朝に父と母と一緒に村の門を出てから、一日ごとに記憶が積み上がっていた。
道中、父と母とは別れた。両親は北部の親族のところへ向かい、ティセラはアーリアの呼び出しに応じて、別の経路でシルヴァローズに向かった。「いずれ会う」と父は言った。「いずれ」という言葉が、いつになるかを、誰も口にしなかった。
***
シルヴァローズの朝は、銀色だった。
古い樹々が空を覆っている。葉の裏が銀色で、朝霧の中で光った。建物は幹と石で組まれている。窓は丸い。扉は低い。歩道は石畳だが、苔が生えていて、足音を吸い込む。
歩く人々は、全員エルフだった。
ティセラはそれに気づくのに、半日かかった。意識的に観察するより前に、街の空気が、自分の中で違和感として、組み上がっていた。違和感の正体に名前を付けたのが、半日後だった。
気づいたとき、奇妙な感覚があった。メシャラのバザールでは、エルフを見つけるのに少し時間がかかった。他の種族の方が多い時間帯もあった。ここでは——他の種族を見つけることが、できない。
(整っている)
最初に浮かんだ言葉が、それだった。整っている。揃っている。同じ言語、同じ歩き方、同じ服の色味、同じ静けさ。声の高さの幅まで、狭かった。子供の声はあるが、それも、エルフの子供の声の幅の中にあった。
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アーリアの新しい住まいは、都市の西区にあった。
書室と居室がひとつに繋がっている、こぢんまりとした家だった。古い樫の木の根が、家の片側を支えている。エルフ建築では、樹を切らずに家を建てる方が良いとされる。アーリアはその伝統に従っていた。樹の根は家の外壁を縫うように走り、内側からは梁の代わりに見えていた。
扉を叩くと、アーリアが出てきた。
二か月分老けていた、と言うのは違う。エルフは二か月では老けない。ただ、何か別のものが、少し変わっていた。目の周りの、わずかな影だった。眠れていない、というよりは、眠ることに、別の質感が混じり始めている、という影だった。
「無事に着いたか」とアーリアは言った。
「着きました」
二人ともそれ以上の言葉を、すぐには探さなかった。メシャラの空気は、ここにはない。それを二人とも知っていた。お互いに、それを口にしない方が、楽だった。
ティセラは中に入った。書棚の匂いがした。古い紙と、松脂の塗装の匂い。アーリアの語り部の庭にあった書室と、似たような匂いだった。匂いだけは、メシャラから持ってきたものに、近かった。
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昼食の時間に、アーリアが街を案内してくれた。
市場を通った。エルフのみの市場だ。商品の並べ方が整っている。野菜は色ごとに、布は質ごとに、書物は時代ごとに並んでいる。値段交渉の声がほとんど聞こえない。皆、提示された値段で買う。
メシャラのバザールとは、根本的に違っていた。
メシャラでは、ドワーフの干物屋の前でヒューマンが値段を半分にしようとして、エルフが間に立って仲裁することがあった。仲裁が長引いて、最終的に三人で笑い合うこともあった。声の大きさが街全体の音を作っていた。
ここの市場は、静かだった。誰かが何かを売り、誰かが何かを買う。それ以外の音が、ほとんどしなかった。やり取りの後に、笑い声が続くこともなかった。
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夕方、広場の端でエルフの少女に声をかけられた。
十二、三歳くらいか。書物を抱えて、語り部の弟子のように見えた。アーリアの弟子になる前のティセラ自身に、少し似ていた。
「あなたは中央盆地から来たのね」
「はい」
「ドワーフやヒューマンと住んでいたって、本当?」
「本当です」
「どんな感じだったの」
ティセラは少し考えてから、答えた。
「……うるさかった、です」
少女が笑った。
「うるさいって、何?」
その問いに、ティセラは答える言葉をすぐに見つけられなかった。
うるさい、というのは、どう説明すれば伝わるのか。三つの言語が同時に飛び交うこと。鍛冶場の金槌の音と、エルフの祭りの竪琴と、ヒューマンの子供の駆け回る音が、ひとつの広場で重なること。誰かが歌い、誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが料理の匂いをさせていること。
それを「うるさい」と一言で言ってしまったことが、急に申し訳なくなった。亡くなった音たちに、一言で蓋をしてしまった気がした。
「……色々な音が、同時にしていました」
少女は頷いたが、よくわかっていない様子だった。
ティセラは(私は、まだ「うるさい」が何かを覚えている。ここの誰も、それを知らない)と思った。覚えていることが、ティセラと、この街の少女との間に、距離を作っていた。距離は、少女のせいではなかった。少女は、知らないだけだった。
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夜、アーリアと向き合った。
火が小さく燃えていた。お茶が出された。エルフ式の白い陶器の杯だ。
「明日、評議会に呼ばれている」とアーリアが言った。「お前も来なさい」
「理由は」
「行けばわかる」
アーリアはそれだけ言って、お茶を飲んだ。ティセラはお茶を見た。湯気が立っていた。透明な湯の中に、緑の葉が一枚、揺れていた。葉は、ゆっくりと、杯の底に沈んでいった。
***
夜、自室で眠れなかった。
窓を開けた。
森が静かだった。鳥の声もない。風の音はあるが、それは葉の擦れる音で、メシャラの夜風とは異なる音だった。メシャラの夜風は、麦の匂いを運んでいた。ここの風は、樹の匂いだけだった。
ティセラは星を見上げた。
星の数だけは、メシャラと同じだった。
配置も同じだった。空のどこに何があるか、ティセラは記憶している。北の竜の尾、東の語り部、西の杯——どれもあった。位置も、明るさも、メシャラで見たものと、寸分も違わなかった。
しかし、その同じ星の下で、街の音は、まったく違っていた。
ティセラは、しばらく星を見ていた。星を見ている時間が、ティセラには、必要だった。




