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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

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72話:金槌

 作戦前夜の砦は、静かだった。


 声は少ない。だが音はあった。砥石に刃を当てる音。革帯を締める音。装備を点検する金属の音。皆が、それぞれの場所で、それぞれの準備をしていた。


 これまでの作戦より、規模が大きい。三日かけて山を越え、平地に出る。経路上に、四つの集落がある。住民の合計は、八百人ほどと推定されていた。「武装勢力が潜伏している可能性のある場所は、確保する」——その方針が、出発前から、伝えられていた。


 ドラガンも自分の装備を整えていた。


 ドラガンは小隊長として、二十人を率いる。


 ***


 装備の確認が一通り終わって、ドラガンは荷物の前にしばらく座っていた。


 他の兵士はもう眠りに入っていた。明日に備えて、早く休む。当然のことだ。眠ることも、兵士の仕事の一部だった。眠れなければ、明日の判断が、鈍る。鈍れば、誰かが、死ぬ可能性が、上がる。


 ドラガンは眠れる気がしなかった。


 眠れる気がしない、ということが、自分の中で、奇妙だった。最近、ドラガンは、よく眠れていた。「仕方なかった」と頭の中で言うことが、習慣になってから、夜の眠りが、深くなっていた。考えないことが、眠ることの助けになっていた。


 しかし今夜は、違った。今夜だけ、眠れる気がしなかった。


 荷物の底に手を入れた。


 金槌の柄を取り出した。


 ***


 頭は工房に置いてきた。


 砦に来て三か月、最初の頃に持ち出した。鍛冶場の道具だ。頭をつけたままでは重い。戦闘で使うわけではない。柄だけにした。


 持ち出したとき、ドラガンは、自分が何を持ち出したのか、明確には説明できなかった。父の道具を、手元に置きたかった、というのが、近かった。だが、それだけでもなかった。柄だけを選んだ理由を、自分でも、はっきりとは知らなかった。


 それを今、机の上に置いた。


 握った。


 重さを知っている。長さを知っている。木目の感触を知っている。父ボグダンが何千回——いや、何万回と握った場所が、わずかにへこんでいる。


 そのへこみに、ドラガンの指が収まる。


 収まり方が、年々、深くなる気がした。父の指の跡を、自分の指が広げているのか。それとも、自分の指の跡が父の跡の上に重なっているのか——どちらか、よくわからなかった。


 わからなかったが、収まることは、確かだった。指の方が、迷わずに、その位置を、覚えていた。


 ***


 (父は、これで鉄を打った)


 ドラガンは柄を見ていた。


 (鉄を打って、刃を作った。鋤を作った。鍋を作った。それで暮らしを作った。村の鍛冶場で、何十年もそれをやってきた)


 その柄が、今、ドラガンの手にある。


 (刃で守った、こともあった)


 ボグダンの作った刃で、村が一度だけ守られたことを、ドラガンは知っていた。盗賊が来た夜だ。子供の頃の話だ。ドラガンが八歳の年だった。三人の盗賊が、夜中に村に入った。村の自警団が、ボグダンの刃で武装して、追い払った。怪我人は出たが、死者は出なかった。


 その刃を作ったのは、この柄を握っていた手だった。父の手。


 (俺は今——何をしているんだろう)


 答えは来なかった。来ないまま、次の問いも来なかった。


 来ないまま、というのは、最近、ドラガンの中で、よくあることだった。問いが浮かぶ。問いが、答えを呼ばずに、消える。それで、終わる。それが、最近のドラガンの思考の動き方だった。


 しかし、今夜は、消えなかった。


 問いが、消えずに、ドラガンの中に、残っていた。


 ***


「叩きすぎれば折れる」


 その言葉が、ふと、来た。


 ボグダンが言った。鍛冶場で、ドラガンが何度目かの失敗をしたときだった。十二歳の年だった。ドラガンが、刃を、強く叩きすぎて、亀裂を入れた。


「合金にも、限度がある。叩けば強くなる。だが、叩きすぎれば折れる。どこで止めるかを知るのが、鍛冶師だ」


 ボグダンの声は、平らだった。叱責ではなかった。教えだった。


 あのとき、合金の話として聞いた。それ以上の話としては、聞かなかった。十二歳のドラガンは、合金の話を、合金の話としてしか、受け取れなかった。


 今、もう一度聞こえると——


 (あれは合金の話だったのか)


 判然としなかった。あの日も、今日も。


 父が他のことを含意して言ったのか、純粋に技術の話だったのか——ボグダン自身、区別がついていたのかどうか、ドラガンには判断ができなかった。ボグダンは、深い意味を込めずに、ただ技術の話として言ったのかもしれなかった。同時に、いつかの別の場面で、ドラガンがその言葉を、別の意味で受け取ることを、予期していたかもしれなかった。


 ただ、言葉だけが来る。


 ボグダンの声で、頭の中で、繰り返される。「叩きすぎれば折れる」。「どこで止めるかを知るのが、鍛冶師だ」。


 ***


 しばらく、柄を握ったまま座っていた。


 握っていることに気づかなくなるくらい、自然に握っていた。手と柄が、ひとつの形になっていた。父の指のへこみと、自分の指の位置が、ぴったりと重なっていた。


 時間が経った。蝋燭が短くなっていた。火が、少しずつ、弱くなっていた。


 ドラガンは柄を荷物に戻した。


 戻すときに、ボグダンの指の跡があった場所を、もう一度指で触れた。指の腹で、へこみを撫でた。撫でながら、ドラガンは、ボグダンの今夜の様子を、想像した。今夜も、ボグダンは、杯を持って、机に座っているはずだった。それから蓋を閉めた。


 立ち上がった。装備を最後に確認した。剣の鞘の角度。革帯の締め具合。水筒の位置。すべて、所定の位置にあった。


 寝台に座った。


 眠れなくてもいい、と思った。眠れなくても、明日は動ける。三か月の訓練と、複数の作戦が、ドラガンの体に、動く方法を、覚えさせていた。頭が眠っていても、体は動く。


 ランタンを消した。


 暗闇の中で、ドラガンは、目を開けたまま、しばらく座っていた。眠ろうとは、しなかった。眠れない夜に、無理に眠ろうとすると、かえって眠れなくなる。それは、村の頃から、知っていた。


 ***


 夜明け前、進撃の号令が来た。


 ドラガンは寝ていなかった。すでに装備を着けて、待っていた。


 外に出た。冷えた空気が顔に来た。冬の入り口の空気だった。砦の周りの山は、もう、上の方が白くなっていた。麓まで、雪が下りてくるのは、まだ先だが、空気は、すでに冬を含んでいた。


 二十人の部下が整列していた。ドラガンを見ている。次の言葉を待っている。


 二十人の顔を、ドラガンは、一人ずつ、見た。皆、ドワーフだった。皆、若かった。皆、ドラガンより、年下だった。


「行くぞ」とドラガンは言った。


 前を向いた。


 後ろは——見なかった。


 砦の方を、振り返らなかった。父が、まだ起きているかもしれない部屋の方角を、見なかった。見れば、何かを、確認したくなる。確認すれば、何かが、揺らぐ。揺らげば、二十人の判断が、鈍る。


 前だけ、見た。


 歩き出した。


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