71話:手紙
夜、自室にいた。
蝋燭は一本だけ点けた。机に紙を置いた。筆を取った。
紙は、砦の補給品の中から、何枚かを、自分の部屋に持ち込んだものだった。書類用の、固めの紙だ。手紙を書くために用意された紙ではなかった。だが、それで十分だった。
書こうとしていたのは、ルシェンへの手紙だった。届く宛もない。送る方法もない。それでも、書こうとしていた。理由はうまく言えなかった。
言えない理由を、書きたかった、というのが、近いかもしれなかった。書けば、自分の中で、何かが整理されるかもしれない、と思っていた。整理されなくても、書いたという事実だけは、残る。それだけのために、筆を取った。
***
最初の一行は書けた。
「ルシェン。元気か?」
書いて、止まった。
次が書けない。
ドラガンは筆を置いて、紙を見た。短い問いかけだけが、白い面の上に残っていた。書いた文字の隣に、書いていない白い空間が、広く広がっていた。その白い空間が、急に、重く感じられた。
別の紙を取った。
「ルシェン。元気か? 俺は元気だ。小隊長になった」
書いて、また止まった。
元気というのは、本当か。
体は健康だ。怪我もしていない。食事も取れている。前哨基地への参加でも、無傷で戻った。最近の作戦でも、無傷で戻った。三回連続で、無傷だ。それは元気と呼べるはずだ。
しかし——
手紙の中で「元気だ」と書こうとすると、何かが詰まった。「元気」という言葉が、自分の今を指していない気がした。
元気、というのは、ルシェンとドラガンが、子供の頃に、お互いに使い合った言葉だった。夏の祭りの朝、ルシェンが「元気か」と聞いて、ドラガンが「元気だ」と答える。そういう種類の言葉だった。あの「元気」と、今の自分の状態の間に、距離があった。同じ言葉では、もう、繋がらなかった。
その紙も置いた。
***
また別の紙を取った。
「ルシェン。」
書いて止まった。
「俺は——」
書いて止まった。
「俺は仕方なく——」
書いて止まった。
「仕方なかったんだ、いろいろと——」
筆を止めた。
「仕方なかった」とは、具体的に何を指して書こうとしているのか。
考えると、出てくる。子供の上着。空の家。外の音。壁の漆喰の剥がれ。震えた右手。父の杯。マルコの肩への一撃。「最初はそういうものだ」。「慣れろ」。ヤンカの名前。マッコの名前。
それを書くのか。
書いたところで、ルシェンに何が伝わる。ルシェンが何を思う。
(あいつなら、何と言うか)
その問いが、来た。
答えは——わからない、というのが、答えだった。今のルシェンが何を考える人間か、ドラガンは知らない。一年前のルシェンなら答えられた。一年前のルシェンなら、「お前、それは違う」と言うかもしれないし、「わかる」と言うかもしれなかった。どちらでも、想像がついた。
今のルシェンは、想像できなかった。
ルシェンが、どこにいるのか、何をしているのか、誰と一緒にいるのか——何も知らない。生きているのか、死んでいるのかも、確証はなかった。生きている、と信じていた。だが、信じることと、知ることは、違っていた。
その距離が、急に重くなった。
***
「すぐ戻る」。
あのとき、ルシェンが言った。ドラガンも言った。信じて言った。「すぐ戻る」「すぐ戻る」と、三人で、お互いに、繰り返した。ティセラもいた。ティセラも、何か言ったはずだった。何を言ったか、思い出せなかった。覚えていない、ということに、ふと気づいた。あんなに大事な夜のことを、覚えていない。
今、戻れるか。
戻ったとして、何を言うか。
ルシェンに会って、何の話をする。
「小隊長になった」と言うのか。「仕方なかった」と言うのか。「集落の建物の中で壁を見ていた」と言うのか。「マルコ将軍が肩を叩いた」と言うのか。「ボグダンが酒を飲むようになった」と言うのか。
どれも言えない気がした。
言ったとき、ルシェンの顔がどう変わるかが、想像できなかった。想像できないということが、すでに、何かを意味していた。
***
筆を置いた。
右手の中指と薬指を、左手の中指と薬指に絡めた。
三人の握り方だ。ルシェンとベシムと、自分。ベシムが言い出した子供の頃の遊びで、最後の別れでもそうした。三人の指を、同じ動きで絡める。それで「また会う」の約束だった。
指が、その動きを覚えていた。
考えなくても、形を取れた。何年も、その動きをしていなかったのに、指の方が、覚えていた。動かそうとして、動かしたのではない。動かしたら、その形になっていた。
しばらく、そのまま座っていた。指を絡めたまま、机の上の紙を、見ていた。書きかけの文字が、いくつかの紙の上に、散らばっていた。
***
書いた紙を、まとめた。
破った。
一気に、一度で破った。何枚もあったが、束ねたまま破ったので、音はひとつだった。短く、はっきりとした音だった。
炉に投げた。
炎が一瞬大きくなった。紙の縁が、すぐに黒くなって、内側へ向かって、灰色に変わっていった。それから落ち着いた。紙は、すぐに灰になった。
ドラガンは火の前に座って、灰になるまで見ていた。何も書かれていなかった紙のように、灰は均一だった。書いた文字の跡は、残っていなかった。書かれていたかどうかも、灰からは判別できなかった。
書かなかった、ということに、できる。
書かなかったから、伝えなかった。
伝えなかったから、ルシェンは、知らない。
ドラガンが、今、どこで、何を考えているか、ルシェンは、知らないままでいる。それでいい、と、自分に言い聞かせた。
***
火が落ち着いた頃、寝台に入った。
目を閉じた。
夢は見なかった。
夢を見なかった、ということに、朝、気づいた。気づいたとき、安堵があった。同時に、別の何かもあった。それが何かは、考えなかった。




