69話:仕方なかった
朝食の席に着いた。
パンと、煮込みと、湯。いつもと同じものだった。煮込みからは、湯気が上がっていた。野菜と、わずかな肉。塩の量は、いつも通り。匂いは、悪くなかった。
ドラガンは器を手に持って、しばらく動かなかった。食べようとする動作が、出てこなかった。腹は減っていた。喉も渇いていた。それでも、手が動かなかった。
器を持ち上げる動作は、できる。だが、その先——口に運ぶ動作が、できなかった。手と口の間の、わずかな距離を、超えられなかった。
(食べられない)
なぜ食べられないか、考えなかった。考えれば、答えが出る気がして、答えが出るのが怖かった。
昨夜、柄を握って震えを止めた。寝台に入って、目を閉じた。眠れたかどうかは、わからなかった。気づいたら、朝になっていた。それだけだった。
***
マルコが隣に座った。
ドラガンは少し驚いた。マルコは普段、指揮官たちと食事を取る。一般の兵士の卓に来ることは、滅多になかった。
マルコは自分の器を置いた。一口食べた。咀嚼の音は、ほとんどしなかった。それからしばらく、何も言わなかった。
食堂は普通に動いていた。誰かが話している。誰かが笑っている。いつもと同じ朝だ。皆が、いつもと同じことをしていた。いつもと同じことをしていない者は、ドラガンと、その隣のマルコだけだった。
マルコがゆっくり話し始めた。
「俺が最初の作戦に出たのは、二十年前だ」
ドラガンは器を見ていた。
「同じようにした。岩の陰でな」
ドラガンは顔を上げなかった。マルコが、ドラガンの昨日の岩陰のことを知っている、ということが、その一言でわかった。見られていた。誰かが、報告した。あるいは、マルコ自身が、見ていた。
「翌朝、お前と同じように食えなかった。マッコといういい先任がいて、俺の隣に座った。今、俺がしているのと、同じことをしてくれた」
マルコがまた一口食べた。
「マッコはな、その三日後に死んだ。エルフの矢でだ。だから俺は、お前にも話している。誰かが死んでから話すのは、遅い」
ドラガンは何も言わなかった。
マッコ、という名前を、ドラガンは覚えた。覚えるつもりがなくても、覚えた。マルコは、その名前を、二十年経った今でも、覚えていた。二十年前の三日。その三日のことを、マルコは、繰り返し、思い出している。それが、声の調子から、わかった。
***
「エルフが我らの集落に何をしたか、お前は知っているか」とマルコは続けた。
「ケシェドのことは聞きました」
「ケシェドだけじゃない。二十年前にも、十五年前にも、似たことがあった。記録に残らないものまで含めれば、もっとある。やられてきた。ずっとだ」
ドラガンはやはり、何も言わなかった。
マルコの言うことは、嘘ではない、と感じた。マルコの声に、嘘の音はなかった。経験として、語っている。脅すために、語っているのではなかった。
「やらなければ、やられる。それが今の戦争だ。お前が昨日見たものは——お前が見なかったことにしたものは——必要なことだった」
「必要」とドラガンは呟いた。
「ああ」
ドラガンは、しばらく沈黙した。
「子供の上着が、寝台にありました」
言ってから、自分でも、なぜそれを言ったのか、よくわからなかった。マルコに反論しようとしたのではない。だが、何かを、言わないと、自分の中の何かが、消えていく気がした。子供の上着が、自分の頭の中から、消えてしまう気がした。消える前に、誰かに、言葉として、置きたかった。
マルコがドラガンを見た。少しの間があった。
「俺たちの集落の寝台にも、子供の上着があった」とマルコは言った。「焼かれた家の中で、灰になっていた。三歳の子だった。俺の従姉妹の子だ。名前は、ヤンカ」
ヤンカ。
マルコは、その名前も、覚えていた。
ドラガンは器を見続けた。
マルコは、ドラガンの「子供の上着」を、自分の「ヤンカ」で、置き換えてみせた。あちらの上着とこちらの灰の上着が、同じ秤の上に乗った。秤は、平衡を保つ向きに、動いた。少なくとも、マルコの中では、平衡を保つ向きに、動いた。
***
マルコは食べ終わって、立ち上がった。去り際にもう一度言った。
「慣れろ。それしかない」
マルコが去った後、ドラガンは器を見たまま座っていた。
「仕方なかった」
声に出した。
誰にも聞こえない程度の小さな声だったが、自分の耳には届いた。
「仕方なかった」
もう一度言った。
言葉にすると、何かが収まった。胸の中の、ざわついていたものが、所定の位置に置かれたような感覚だった。「仕方なかった」という言葉が、入れ物として、ちょうどよく、機能した。中身が、その入れ物に、すっぽりと収まった。
しかし——
(仕方なかった、と思えるのが怖い)
その問いが来た。
父は「変わるな」と言った。仕方なかったと思えることが、変わったということかもしれない。
父が言った「迷いのなさには、二種類ある」。考え切った後の迷いのなさと、考えるのをやめた後の迷いのなさ。今、自分が「仕方なかった」と言えているのは、考え切ったからではない。考えるのを、やめたからだ。
考えるのをやめれば、楽だ。
「楽」という言葉が、また、頭の中に来た。
ドラガンは答えを出さなかった。出せなかった。
器を取って、食べた。冷たくなっていた。それでも食べた。口に運ぶ動作が、今度は、できた。一口、また一口。咀嚼する音が、自分の頭の中で、響いた。食べ終わるまで、味はわからなかった。
***
午後の会議で、新しい作戦の概要が告げられた。
規模はこれまでより大きかった。エルフ軍の補給線を断つ、と言われた。経路に複数の集落がある。集落の数は、四つ。住民の合計は、八百人ほどと推定されていた。
「経路上の集落の扱いは」と誰かが聞いた。
「同じだ」とクリンが言った。「武装勢力が潜伏している可能性がある場所は、確保する」
「可能性がある」という言葉が、ドラガンの耳に、少し長く残った。「潜伏している」ではなく、「可能性がある」。その言葉の隙間に、判断の幅があった。幅があれば、どちら側にも、倒せる。倒し方は、現場の判断、ということだった。
志願者を募る場面になった。
ドラガンは自分の手を挙げる前に、頭の中で一度言った。
(仕方ない)
言ってから、手を挙げた。
手を挙げる動作には、迷いがなかった。前の作戦のときよりも、迷いがなかった。それを、ドラガンは、自分でも、感じた。感じたが、その感じを、深く掘り下げなかった。
掘り下げないことに、もう、慣れていた。




