表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/80

69話:仕方なかった

 朝食の席に着いた。


 パンと、煮込みと、湯。いつもと同じものだった。煮込みからは、湯気が上がっていた。野菜と、わずかな肉。塩の量は、いつも通り。匂いは、悪くなかった。


 ドラガンは器を手に持って、しばらく動かなかった。食べようとする動作が、出てこなかった。腹は減っていた。喉も渇いていた。それでも、手が動かなかった。


 器を持ち上げる動作は、できる。だが、その先——口に運ぶ動作が、できなかった。手と口の間の、わずかな距離を、超えられなかった。


 (食べられない)


 なぜ食べられないか、考えなかった。考えれば、答えが出る気がして、答えが出るのが怖かった。


 昨夜、柄を握って震えを止めた。寝台に入って、目を閉じた。眠れたかどうかは、わからなかった。気づいたら、朝になっていた。それだけだった。


 ***


 マルコが隣に座った。


 ドラガンは少し驚いた。マルコは普段、指揮官たちと食事を取る。一般の兵士の卓に来ることは、滅多になかった。


 マルコは自分の器を置いた。一口食べた。咀嚼の音は、ほとんどしなかった。それからしばらく、何も言わなかった。


 食堂は普通に動いていた。誰かが話している。誰かが笑っている。いつもと同じ朝だ。皆が、いつもと同じことをしていた。いつもと同じことをしていない者は、ドラガンと、その隣のマルコだけだった。


 マルコがゆっくり話し始めた。


「俺が最初の作戦に出たのは、二十年前だ」


 ドラガンは器を見ていた。


「同じようにした。岩の陰でな」


 ドラガンは顔を上げなかった。マルコが、ドラガンの昨日の岩陰のことを知っている、ということが、その一言でわかった。見られていた。誰かが、報告した。あるいは、マルコ自身が、見ていた。


「翌朝、お前と同じように食えなかった。マッコといういい先任がいて、俺の隣に座った。今、俺がしているのと、同じことをしてくれた」


 マルコがまた一口食べた。


「マッコはな、その三日後に死んだ。エルフの矢でだ。だから俺は、お前にも話している。誰かが死んでから話すのは、遅い」


 ドラガンは何も言わなかった。


 マッコ、という名前を、ドラガンは覚えた。覚えるつもりがなくても、覚えた。マルコは、その名前を、二十年経った今でも、覚えていた。二十年前の三日。その三日のことを、マルコは、繰り返し、思い出している。それが、声の調子から、わかった。


 ***


「エルフが我らの集落に何をしたか、お前は知っているか」とマルコは続けた。


「ケシェドのことは聞きました」


「ケシェドだけじゃない。二十年前にも、十五年前にも、似たことがあった。記録に残らないものまで含めれば、もっとある。やられてきた。ずっとだ」


 ドラガンはやはり、何も言わなかった。


 マルコの言うことは、嘘ではない、と感じた。マルコの声に、嘘の音はなかった。経験として、語っている。脅すために、語っているのではなかった。


「やらなければ、やられる。それが今の戦争だ。お前が昨日見たものは——お前が見なかったことにしたものは——必要なことだった」


「必要」とドラガンは呟いた。


「ああ」


 ドラガンは、しばらく沈黙した。


「子供の上着が、寝台にありました」


 言ってから、自分でも、なぜそれを言ったのか、よくわからなかった。マルコに反論しようとしたのではない。だが、何かを、言わないと、自分の中の何かが、消えていく気がした。子供の上着が、自分の頭の中から、消えてしまう気がした。消える前に、誰かに、言葉として、置きたかった。


 マルコがドラガンを見た。少しの間があった。


「俺たちの集落の寝台にも、子供の上着があった」とマルコは言った。「焼かれた家の中で、灰になっていた。三歳の子だった。俺の従姉妹の子だ。名前は、ヤンカ」


 ヤンカ。


 マルコは、その名前も、覚えていた。


 ドラガンは器を見続けた。


 マルコは、ドラガンの「子供の上着」を、自分の「ヤンカ」で、置き換えてみせた。あちらの上着とこちらの灰の上着が、同じ秤の上に乗った。秤は、平衡を保つ向きに、動いた。少なくとも、マルコの中では、平衡を保つ向きに、動いた。


 ***


 マルコは食べ終わって、立ち上がった。去り際にもう一度言った。


「慣れろ。それしかない」


 マルコが去った後、ドラガンは器を見たまま座っていた。


 「仕方なかった」


 声に出した。


 誰にも聞こえない程度の小さな声だったが、自分の耳には届いた。


「仕方なかった」


 もう一度言った。


 言葉にすると、何かが収まった。胸の中の、ざわついていたものが、所定の位置に置かれたような感覚だった。「仕方なかった」という言葉が、入れ物として、ちょうどよく、機能した。中身が、その入れ物に、すっぽりと収まった。


 しかし——


 (仕方なかった、と思えるのが怖い)


 その問いが来た。


 父は「変わるな」と言った。仕方なかったと思えることが、変わったということかもしれない。


 父が言った「迷いのなさには、二種類ある」。考え切った後の迷いのなさと、考えるのをやめた後の迷いのなさ。今、自分が「仕方なかった」と言えているのは、考え切ったからではない。考えるのを、やめたからだ。


 考えるのをやめれば、楽だ。


 「楽」という言葉が、また、頭の中に来た。


 ドラガンは答えを出さなかった。出せなかった。


 器を取って、食べた。冷たくなっていた。それでも食べた。口に運ぶ動作が、今度は、できた。一口、また一口。咀嚼する音が、自分の頭の中で、響いた。食べ終わるまで、味はわからなかった。


 ***


 午後の会議で、新しい作戦の概要が告げられた。


 規模はこれまでより大きかった。エルフ軍の補給線を断つ、と言われた。経路に複数の集落がある。集落の数は、四つ。住民の合計は、八百人ほどと推定されていた。


 「経路上の集落の扱いは」と誰かが聞いた。


「同じだ」とクリンが言った。「武装勢力が潜伏している可能性がある場所は、確保する」


 「可能性がある」という言葉が、ドラガンの耳に、少し長く残った。「潜伏している」ではなく、「可能性がある」。その言葉の隙間に、判断の幅があった。幅があれば、どちら側にも、倒せる。倒し方は、現場の判断、ということだった。


 志願者を募る場面になった。


 ドラガンは自分の手を挙げる前に、頭の中で一度言った。


 (仕方ない)


 言ってから、手を挙げた。


 手を挙げる動作には、迷いがなかった。前の作戦のときよりも、迷いがなかった。それを、ドラガンは、自分でも、感じた。感じたが、その感じを、深く掘り下げなかった。


 掘り下げないことに、もう、慣れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ