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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

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68/80

68話:一線

 命令は短かった。


「武装勢力が集落に潜伏している。排除する」


 それだけだった。場所と人数と進入経路が告げられた後、各小隊が割り当てられた。質問は出なかった。誰も質問しなかった。


 ドラガンも質問しなかった。質問する者がいない、ということに、少しだけ気づいた。気づいたが、自分も質問する側に回らなかった。質問することと、しないことの間に、線があった。その線を、誰も越えなかった。


 ***


 集落に入った時、ドラガンが最初に見たのは家畜だった。


 山羊が二頭、垣根の中にいた。畑があった。麦が膝の高さで揺れていた。土の道に、誰かが落とした籠が転がっていた。籠の中に、洗い終えた野菜が、まだ濡れたまま残っていた。さっきまで、誰かがそこで仕事をしていた。


 武装勢力——という言葉から想像されるものは、そこになかった。


 武装している者の気配がない。見張り台もない。柵もない。普通の農村だった。十数軒の家が、緩やかに並んでいるだけの、小さな集落だった。


 ドラガンの小隊が割り当てられたのは、北端の三軒の家だった。「確保しろ」とクリンが言った。中の安全を確認し、占拠する。それだけだ。


 一軒目に入った。


 空だった。テーブルの上にパンが半分残っていた。指で触ると、まだ柔らかい。誰かがさっきまでそこにいた。皿の脇に、木のスプーンが二本。子供用と、大人用。


 二軒目に入った。


 空だった。寝台の上に、子供の上着が置かれていた。小さい。五歳くらいか。袖口に、繕い跡があった。何度も繕った跡だった。


 三軒目に入った。


 空だった。床に、糸巻きが転がっていた。糸が少し、ほどけていた。


 ドラガンは、三軒の中で、何も「武装勢力」と呼べるものを見なかった。


 ***


 建物の確認が終わった頃、外で音がした。


 女の声だった。


 短く、何かを呼んだ。子供の名前のように聞こえた。


 それから子供の声。


 それから——音が消えた。


 音が消える、ということが、何を意味するか——ドラガンは、頭の中で考えそうになった。考えそうになって、止めた。考えれば、出てくる答えがある。その答えを、見たくなかった。


 ドラガンは建物の中にいた。窓の脇に立っていた。外を見れば、何が起きているかわかる。


 見なかった。


 壁を見ていた。漆喰が剥がれかけている部分があった。長年の雨と日差しで、表面にひびが入って、内側の土が見え始めている部分だった。その剥がれ方を、見ていた。剥がれ方には、規則性があった。雨が当たる場所から、ひびが広がっていく。物理的な現象として、説明できる。


 説明できるものだけを、見ていた。


 しばらくして、また外で音がした。今度は男の声だった。短く、何かを言った。命令の語調だった。それから音が消えた。


 ドラガンは壁を見続けた。


 壁を見ている時間が、長くなっていた。普通に確認するだけなら、もう外に出ていい時刻だった。だが、出なかった。出る理由を、自分の中で、作れなかった。


 ***


 撤収の道。


 集落を出るときも、ドラガンは、振り返らなかった。誰も振り返らなかった。それが、自然なことだった。


 誰かが冗談を言った。何の冗談だったかは、ドラガンにはわからなかった。聞こえてはいたが、内容として、入ってこなかった。耳の表面で滑って、頭の中まで届かなかった。


 誰かが笑った。何人かが笑った。


 ドラガンは答えなかった。


 答え方がわからなかった。冗談に笑うことが、できなかった。今、ここで、笑うべきものではない、と感じていたわけではない。むしろ、笑う方が、普通だった。皆、笑っていた。笑えない方が、おかしかった。


 「お前、どうした」と隣の兵士が言った。


「いや」


「そうか」


 それで会話は終わった。誰も追わなかった。「いや」で済む話と、済まない話の区別を、皆が、暗黙のうちに、覚えていた。


 ***


 夜、自室に戻った。


 蝋燭に火を点けた。テーブルの前に座った。


 右手が、震えていた。


 最初は気づかなかった。蝋燭を置こうとして、手元が定まらないことで気づいた。震えは小さかった。だが、止まらなかった。一定の周期で、細かく、震えていた。


 ドラガンは右手を見た。


 止めようとした。左手で押さえた。押さえている間は止まる。離すと、また震える。震えは、押さえれば止まる種類の震えだった。だが、押さえていなければ、止まらない種類でもあった。


 (なぜだ)


 戦闘ではなかった。剣を抜いていない。誰も殺していない。建物の中にいて、壁を見ていた。それだけだ。


 それだけのことで、なぜ手が震える。


 (俺は何をしたか)


 答えは出なかった。何もしていない。何もしていないということが、何かをしたということなのか——ドラガンには判断がつかなかった。


 判断がつかないこと自体が、何かを示している気もした。だが、それも、考えなかった。


 ***


 荷物の底から、金槌の柄を取り出した。


 頭は工房に置いてきた。柄だけだ。父から受け継いだものだった。ボグダンが何千回と握った場所が、わずかにへこんでいる。


 ドラガンは震える右手を、その柄に巻きつけた。


 握った。


 柄は硬かった。木の硬さが、手の中で、しっかりと座った。鍛冶場で、何度も握った感触。子供の頃から知っている感触。父の手の油が、長い年月をかけて染み込んで、独特の艶が出ている柄だった。


 震えが、止まった。


 握っている間は、止まる。離せば、また震えるかもしれない。だが、今は止まっている。それで足りた。


 ドラガンはしばらく、そのまま座っていた。柄を握ったまま、蝋燭の火を見ていた。


 火は、ゆっくりと揺れていた。揺れているが、消えなかった。蝋燭の芯が、まだ、しっかりとしていた。


 (明日も、握ろう)


 その思考が、ふと来た。


 来てから、ドラガンは、その思考が何を意味するか——考えなかった。


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