68話:一線
命令は短かった。
「武装勢力が集落に潜伏している。排除する」
それだけだった。場所と人数と進入経路が告げられた後、各小隊が割り当てられた。質問は出なかった。誰も質問しなかった。
ドラガンも質問しなかった。質問する者がいない、ということに、少しだけ気づいた。気づいたが、自分も質問する側に回らなかった。質問することと、しないことの間に、線があった。その線を、誰も越えなかった。
***
集落に入った時、ドラガンが最初に見たのは家畜だった。
山羊が二頭、垣根の中にいた。畑があった。麦が膝の高さで揺れていた。土の道に、誰かが落とした籠が転がっていた。籠の中に、洗い終えた野菜が、まだ濡れたまま残っていた。さっきまで、誰かがそこで仕事をしていた。
武装勢力——という言葉から想像されるものは、そこになかった。
武装している者の気配がない。見張り台もない。柵もない。普通の農村だった。十数軒の家が、緩やかに並んでいるだけの、小さな集落だった。
ドラガンの小隊が割り当てられたのは、北端の三軒の家だった。「確保しろ」とクリンが言った。中の安全を確認し、占拠する。それだけだ。
一軒目に入った。
空だった。テーブルの上にパンが半分残っていた。指で触ると、まだ柔らかい。誰かがさっきまでそこにいた。皿の脇に、木のスプーンが二本。子供用と、大人用。
二軒目に入った。
空だった。寝台の上に、子供の上着が置かれていた。小さい。五歳くらいか。袖口に、繕い跡があった。何度も繕った跡だった。
三軒目に入った。
空だった。床に、糸巻きが転がっていた。糸が少し、ほどけていた。
ドラガンは、三軒の中で、何も「武装勢力」と呼べるものを見なかった。
***
建物の確認が終わった頃、外で音がした。
女の声だった。
短く、何かを呼んだ。子供の名前のように聞こえた。
それから子供の声。
それから——音が消えた。
音が消える、ということが、何を意味するか——ドラガンは、頭の中で考えそうになった。考えそうになって、止めた。考えれば、出てくる答えがある。その答えを、見たくなかった。
ドラガンは建物の中にいた。窓の脇に立っていた。外を見れば、何が起きているかわかる。
見なかった。
壁を見ていた。漆喰が剥がれかけている部分があった。長年の雨と日差しで、表面にひびが入って、内側の土が見え始めている部分だった。その剥がれ方を、見ていた。剥がれ方には、規則性があった。雨が当たる場所から、ひびが広がっていく。物理的な現象として、説明できる。
説明できるものだけを、見ていた。
しばらくして、また外で音がした。今度は男の声だった。短く、何かを言った。命令の語調だった。それから音が消えた。
ドラガンは壁を見続けた。
壁を見ている時間が、長くなっていた。普通に確認するだけなら、もう外に出ていい時刻だった。だが、出なかった。出る理由を、自分の中で、作れなかった。
***
撤収の道。
集落を出るときも、ドラガンは、振り返らなかった。誰も振り返らなかった。それが、自然なことだった。
誰かが冗談を言った。何の冗談だったかは、ドラガンにはわからなかった。聞こえてはいたが、内容として、入ってこなかった。耳の表面で滑って、頭の中まで届かなかった。
誰かが笑った。何人かが笑った。
ドラガンは答えなかった。
答え方がわからなかった。冗談に笑うことが、できなかった。今、ここで、笑うべきものではない、と感じていたわけではない。むしろ、笑う方が、普通だった。皆、笑っていた。笑えない方が、おかしかった。
「お前、どうした」と隣の兵士が言った。
「いや」
「そうか」
それで会話は終わった。誰も追わなかった。「いや」で済む話と、済まない話の区別を、皆が、暗黙のうちに、覚えていた。
***
夜、自室に戻った。
蝋燭に火を点けた。テーブルの前に座った。
右手が、震えていた。
最初は気づかなかった。蝋燭を置こうとして、手元が定まらないことで気づいた。震えは小さかった。だが、止まらなかった。一定の周期で、細かく、震えていた。
ドラガンは右手を見た。
止めようとした。左手で押さえた。押さえている間は止まる。離すと、また震える。震えは、押さえれば止まる種類の震えだった。だが、押さえていなければ、止まらない種類でもあった。
(なぜだ)
戦闘ではなかった。剣を抜いていない。誰も殺していない。建物の中にいて、壁を見ていた。それだけだ。
それだけのことで、なぜ手が震える。
(俺は何をしたか)
答えは出なかった。何もしていない。何もしていないということが、何かをしたということなのか——ドラガンには判断がつかなかった。
判断がつかないこと自体が、何かを示している気もした。だが、それも、考えなかった。
***
荷物の底から、金槌の柄を取り出した。
頭は工房に置いてきた。柄だけだ。父から受け継いだものだった。ボグダンが何千回と握った場所が、わずかにへこんでいる。
ドラガンは震える右手を、その柄に巻きつけた。
握った。
柄は硬かった。木の硬さが、手の中で、しっかりと座った。鍛冶場で、何度も握った感触。子供の頃から知っている感触。父の手の油が、長い年月をかけて染み込んで、独特の艶が出ている柄だった。
震えが、止まった。
握っている間は、止まる。離せば、また震えるかもしれない。だが、今は止まっている。それで足りた。
ドラガンはしばらく、そのまま座っていた。柄を握ったまま、蝋燭の火を見ていた。
火は、ゆっくりと揺れていた。揺れているが、消えなかった。蝋燭の芯が、まだ、しっかりとしていた。
(明日も、握ろう)
その思考が、ふと来た。
来てから、ドラガンは、その思考が何を意味するか——考えなかった。




