63話:山岳の砦
山の鍛冶場には、メシャラの香りがなかった。
小麦の匂いがない。ヒューマンの煮込み料理の匂いがない。エルフの焼き菓子の甘い匂いもない。広場で漂っていた、種族ごとの異なる食事の匂いが、空気の中で何重にも重なる、あの感覚がない。
あるのは松脂と、石と、金属と、煤の匂いだけだった。匂いの種類が、はっきりしていた。何の匂いか、すぐにわかる。混じり合っていないから、わかる。
ドラガンはそれに慣れるのに、二週間かかった。今は慣れた。慣れたというよりは、メシャラの匂いを思い出さない時間が、長くなった、ということだった。
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砦の鍛冶場は、岩壁を掘り込んで作られていた。
三方が岩で、一方だけが空に向いている。夏でも朝は冷えた。岩は熱を貯めない。冬になれば、もっと冷えるはずだった。炉に火を入れると、岩が温まるまでに一刻かかる。それからが仕事だった。
ボグダンが隣で金床を叩いている。
二人は言葉を交わさなかった。メシャラでもそうだった。鍛冶場では、金槌の音が言葉の代わりだった。どんな角度で打っているか、どのくらいの力を込めているか、どこで休んでいるか——そういうことが、音からわかる。隣で打っている者の状態が、音だけで伝わる。
ドラガンはボグダンの音を聞きながら、自分の仕事をした。
最近のボグダンの音は、メシャラの頃より、少し重かった。力が落ちている、というのではない。何かを抑えながら打っている音だった。ドラガンはそれに気づいていた。気づいて、何も言わなかった。聞けば、答えてもらえないと、わかっていた。
荒削りの刃。正規の部隊向けに百本の注文が来ていた。一本一本に、同じ時間をかける。同じ角度で、同じ圧力で。同じ仕事を百回続けることは、退屈ではなかった。むしろ、頭の中の余計なものが、消えていく時間だった。
(きれいな仕事だ)
自分で思ったが、それだけだった。褒め言葉を与える相手が、今は自分しかいなかった。メシャラの頃なら、ボグダンが「悪くない」と言うことが、たまにあった。ここではそれもない。ボグダンは隣にいる。だが、ドラガンの刃を見て、何かを言うことは、ほとんどなくなっていた。
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昼は砦の中庭で食べた。
石の長テーブルに、二十人ほどが座る。鍛冶師、石工、武具師、それに兵士が混ざっている。全員がドワーフだった。
これは特に珍しいことではなかった。ここはドワーフの独立軍の砦だ。当然そうなる。
ドラガンは最初のうち、それを奇妙だと感じていた。メシャラでは食事の場に複数の種族がいるのが当たり前だった。隣がエルフでも、向かいがヒューマンでも、それを意識しないのが普通だった。エルフの細い指がパンを割っているのと、ドワーフの太い指がパンを割っているのが、同じ卓の上に並んでいた。
しかし今は——
誰も自分のことをドワーフだと思わなかった。正確には、それを確認する必要がなかった。ここでは全員がドワーフだから、説明がいらない。「ドワーフですか」と聞かれない。「どこの出身ですか」と聞かれることはあるが、それは種族の確認ではなく、地理の確認だった。
それが、不思議と楽だった。
(これが「普通」だという感覚は、最初はわからなかった)
ドラガンは、自分が「楽だ」と感じていることに、少しだけ違和感を持った。違和感を持ったが、その違和感を、深く掘り下げなかった。掘り下げる時間がなかった、というのもある。掘り下げたくなかった、というのもあった。
ボグダンが向かいに座って、黙って食べていた。
誰かが遠い岩場の話をした。誰かが刃の焼入れ温度について話した。ドラガンは話に入ったり入らなかったりしながら、食べた。
***
夕方、見張り台に出た。
一日の作業が終わると、ドラガンはそこに来るようになっていた。理由はなかった。強いて言えば、山の空気が好きだった。鍛冶場の煤の匂いを、肺から出すために来ているのかもしれなかった。
見張り台から見える景色は、広かった。
東に麓の森。南に遠く平地が始まる。西に山が続く。そして——北に、緑と金のドワーフの旗が見えた。
風に揺れている。金床の紋章が縫い込まれた旗だ。
ドラガンはその旗を見た。
(これは俺たちのものだ)
そう感じた。頭で考えたのではない。ただそう感じた。「俺たち」というのが誰を指しているのか、自分でも明確に説明できなかった。砦の中の二十人か。ドワーフ全体か。父と自分の二人か。考えれば、答えはぶれた。だが、感覚としては「俺たち」という言葉が、しっくりと収まった。
その感覚が正しいかどうか、問わなかった。問う必要を、まだ感じなかった。
夜風が来た。松の匂いがした。風の中に、わずかに、遠い炊事の匂いが混じっていた。砦の調理場の匂いだった。それも、ドワーフの料理の匂いだった。
ドラガンは少しの間、旗を見てから、砦の中に戻った。
***
夜、ボグダンが言った。
「明朝、マルコ将軍が工房を視察に来る」
ドラガンは何も言わなかった。
「普通に仕事をしていればいい」とボグダンは言った。「見られることは変わらない」
ドラガンは頷いた。
普通に仕事をすればいい。それはそうだ。見られているかどうかで仕事が変わるなら、それは本当の仕事ではない。
メシャラでも、師匠がそう言っていた。
(師匠というのは、父のことだ。俺には師匠がいた)
今でも、隣で同じ仕事をしている。だが、ボグダンを「師匠」と呼ばなくなって、もう長かった。いつから呼ばなくなったか、思い出せなかった。一緒に旅に出てからだったか、その前からだったか——記憶の輪郭が、はっきりしなかった。
ランタンを消した。
暗闇の中で、ボグダンの呼吸の音が、聞こえていた。少しゆっくりとした、深い呼吸だった。眠っているのか、起きているのか、わからなかった。




