62話:訓練
最初の任務が終わった翌日から、訓練が始まった。
三つの居住区への警告は届いた。エルフ語、ドワーフ語、ヒューマン語——それぞれの居住区の連絡先に、ルシェンとベシムが、二晩かけて、回った。ドワーフ民兵の動きは未然に止まった。誰も死ななかった。
それが確認されてから、ミラはルシェンに「明日から訓練に来い」と言った。短い言葉だった。だが、その短さに、評価が含まれていた。
訓練は夜明けから始まった。
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最初の二時間は走ることだった。
シャヘルの外壁に沿った路地を、一定の間隔を保って走る。それがパルチザンの朝の習慣だった。六人が一組になって走る。先頭が速度を決める。後ろは離れないようについていく。離れた者は、自分で速度を上げて追いつかなければならない。
ルシェンは三周目で遅れた。四周目で大きく開いた。五周目では、視界の中に、誰の背中もなくなった。
鍛冶師の体は上半身が強い。金床を打つ仕事は腕と腰に来る。短時間の重さを支える力がある。しかし長い距離を走る力は別のところにある。脚の持続力、心拍の安定、呼吸の長さ——どれも、鍛冶場では使わない筋肉だった。
(改善が必要だ)
恥ずかしいとは思わなかった。できないことがあると確認した、というだけのことだ。不足を知れば補える。補えるかどうかは、やってみなければわからない。明日から、自分で時間を作って、走る練習をする。一日に四半刻、外壁の周りを。一か月で、ある程度の差は埋まるはずだ。
エルフの訓練生が遥か前を走っていた。エルフの体は、もともと走るのに向いている。長い脚、軽い体、効率のいい呼吸。それと、自分の鍛冶師の体は、競っても意味がない種類の差だった。だが、追えないとわかっていても、止まらなかった。止まれば、訓練自体が終わる。終わらせないことが、今日の訓練の目的だった。
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走った後、戦術演習があった。
ミラが地図を広げた。シャヘル周辺の地形図だった。集まったのは、訓練生十二人と、古参兵が五人。
「防衛ラインをどこに引くか。理由を言え」とミラは言った。地図のある一点を、指差した。「ここを敵が攻めてくると仮定する」
古参兵の一人が、最初に位置を示した。三十秒考えて答えた。理由が二つあった。
次の古参兵が、別の位置を示した。十五秒で答えた。理由がひとつあった。
訓練生たちは、まだ考えていた。地図の上に手を当てたり、視線を動かしたり、それぞれの考え方で、位置を探していた。
ルシェンは地図を見た。
三秒で答えた。
「ここではない」と言って、ミラが示した位置を指した。「ひとつ下げて、ここに引く。理由は三つ。一、東からの視界が確保できる。二、補給線が南に接続しやすくなる。三、撤退の経路が二本残る。前の位置だと撤退経路が一本しかない。それは選択肢が消える」
演習が止まった。
全員がルシェンの方を見た。古参兵の二人は、自分が示した位置と、ルシェンが示した位置を、見比べていた。
ミラが地図から顔を上げた。「なぜ三秒で答えられた」と言った。
「地形を見ればわかる」
「お前以外の誰も、十秒以内に答えたことはなかった」
ルシェンは何も言わなかった。前世の文字の海のどこかに、地形と防衛ラインの組み合わせを大量に見た記憶があった。具体的な本の名前は出てこない。ただ、地形を見れば、答えが先に出る、という感覚だけがあった。
それを説明できなかった。説明しないまま、答えだけが出てしまうことが、これからも続くだろう。
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四日目に、問題があった。
演習中、伝令の中継で、内容が変わる事例が頻発した。
各種族が別々の伝達符牒を使っているため、混成の部隊では伝言が途中で変わる。エルフの符牒をヒューマンが中継するとき、意味が変わる場合がある。ドワーフの符牒はそもそもヒューマンとオークには読めない。オークの動作合図は、エルフの夜目には認識しづらい。
四日目の演習で、「東に展開」という指示が、最後の小隊に届いた時点で「東を放棄」になっていた。逆の意味だった。仮にこれが実戦なら、損害は甚大だった。
ルシェンはミラに提案した。
「数字だけの共通暗号を作る。一から十六まで。それぞれの数字が状況を表す。種族に関係なく同じ意味を持つ。覚えるのに三日かかれば十分だ」
「数字だけで、十六種類の状況を、表せるのか」
「主要な状況は、その範囲に収まります。十六で足りなければ、組み合わせを使う。一と三で『前進と援護』、十二と七で『撤退と隠蔽』。基本の十六を覚えれば、組み合わせは応用で済む」
「試してみろ」とミラは言った。
ルシェンは、その日のうちに、十六の数字と状況の対応表を作った。エルフ語、ドワーフ語、ヒューマン語、オーク語、それぞれで、表を書いた。配った。
三日で全員が覚えた。四日目の演習で、伝達の失敗が出なかった。
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一週間が経った頃、ミラがルシェンに言った。
「参謀なら今すぐ使える」
「ありがとうございます」
「問題は——参謀のくせに、先頭に立ちたがる」
ルシェンは少し間を置いた。
「誰かが先頭に立たなければならないとき、他の人間を出すのが惜しいと思う場合があります」
「お前が死んだら誰が考える」
「その場合は、考えられる人間が前に出ます」
「そういう設計の組織は、すぐに崩れる」とミラは言った。「お前が考える人間で、お前が死ねば、考える人間がいなくなる。代わりが用意されていないなら、お前は死ねない場所にいるんだ。先頭は、別の人間が立つ」
「わかります」
「わかるなら、なぜ前に出る」
ルシェンは答えなかった。
「答えられないなら、改めろ」とミラは言った。
ルシェンが少し間を置いた。それから言った。
「改めます」
ミラが少し間を置いた。
「面倒なやつだ」と言った。それ以上は言わなかった。
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夜、自室で書いていた。
ティセラの巻物ではない。別の紙に、自分の言葉で書く。シャヘルの現状。各区の種族分布。バザールの閉鎖率の変化。衛兵の配置と増減。井戸の使用状況。倉庫の在庫推定。住民の心理的傾向——挨拶の頻度、目を合わせる回数、子供の遊ぶ範囲。
数字にできるものは、数字にした。数字にできないものは、言葉で書いた。書いたものが、いずれ役に立つかどうかは、書いている時点ではわからない。だが、書かなければ、ゼロのままだ。
それから、予測を書く。
(包囲が来れば——北からか、西からか、あるいは両方同時か。食糧の備蓄は最大三か月。水は地下から引けるが、水路が封鎖されれば二週間。住民二万人のうち、移動できる者はどのくらいか)
考えれば考えるほど、問いが増える。答えのない問いの方が、答えのある問いより多い。しかしそれでいい。問いを持っていれば、答えが来たときに受け取れる。問いを持たない者には、答えが来ても、それが答えだと気づかない。
ランタンの火が揺れた。油の質が悪い。シャヘルに入ってきた油の品質が、少しずつ落ちている。気づいているのは、まだ自分だけかもしれない。
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三週間が経った夜、ベシムが隣に来て座った。
「慣れたか」とベシムは言った。
「まだだ」
「俺もだ」
二人でしばらく、黙っていた。
ベシムが、何かを言いたそうな気配があった。しかし、結局、言わなかった。言わないで終わるのが、ベシムの流儀だった。ルシェンも、それを尊重した。
それだけで足りた。
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翌朝、斥候が戻ってきた。
三週間前に出た者だった。ヒューマンの男だった。北の街道を辿って、ドワーフ民兵の動きを観察するために送られていた。少し痩せて、戻ってきた。
ミラに報告した。ルシェンも同席していた。
「ドワーフの民兵が、北から二十キロのところに展開しています」と斥候は言った。「正規の部隊規模です。三百人以上。補給の荷車も確認しました。十二台。長期の駐留を前提にした配置です。野営のテントも、簡易のものではなく、しっかりした布で組まれていました」
部屋が静かになった。
ルシェンは地図に手を置いた。
北から二十キロ。補給線つき。長期駐留。それが何を意味するか——考えるまでもなかった。シャヘルへの一時的な襲撃ではない。長期間、その位置に留まる。留まりながら、何かを待つ。あるいは、何かの開始の合図を待つ。
包囲が始まる前の配置だ。
ルシェンは、ミラの顔を見た。ミラも、ルシェンの顔を見ていた。互いに、同じ結論に到達していた。




