6話:スポメニック
村の北の外れに、それは立っていた。
交易路から逸れた獣道を十分ほど歩くと、灌木の茂みが途切れ、不意に視界が開ける。草原の中央に、白い石の構造物がそびえている。高さは大人の五倍はあるだろう。幅もそれに匹敵する。
幾何学的な形をしていた。
人の手で造られたものであることは疑いない。だが、どこの種族の建築様式にも属さない。エルフの有機的な曲線でもなく、ドワーフの重厚な直線でもなく、ヒューマンの実用的な構造でもない。白い石灰岩の塊が、互いに噛み合うように組まれ、中央に穴が穿たれ、翼のように広がった両端が空を指している。
スポメニック。
皇帝ゼノヴァルが建てさせた記念碑だった。千年紀の大戦——五つの種族が互いに殺し合った時代の犠牲者を追悼するために、連邦の各地に建てられたという。メシャラ村のものは、その中でも小さい方だと聞いた。
ルシェンは碑の根元に立ち、見上げた。午後の日差しが白い石を照らし、表面に刻まれた抽象的な紋様が影をつくっている。渦巻き、直線、半円。何を表しているのかはわからない。だが、その形には言葉にならない重量感があった。
「大きいな」
後ろからドラガンの声がした。太い腕を組み、首を反らして碑の頂を見上げている。
「前にも来たことあるだろ」
「あるけど、毎回でかいなと思う。ドワーフの坑道の入り口くらいあるぞ」
ティセラが碑の周囲をゆっくりと歩きながら言った。
「この碑は、ゼノヴァル皇帝が即位して三年目に建てさせたもの。大戦から九百年が経った年の追悼式で除幕された」
「語り部モードだな」
「茶化さないで、ドラガン」
ティセラの翠の瞳が碑の表面を辿っている。指先が白い石に触れた。
「アーリア長老から聞いた。この碑にはどの種族の名前も刻まれていない。エルフの犠牲者名簿も、ドワーフの戦死者の碑文もない。すべての犠牲者のための碑だから」
ルシェンは碑の根元に目を落とした。言われてみれば、台座にも壁面にも文字はない。名前も、日付も、種族を示す紋章も。ただ白い石と、抽象的な形があるだけだ。
「すべての犠牲者のため、か」
ドラガンが首を捻った。そばかすの浮いた丸顔に、珍しく考え込むような表情が浮かんでいる。
「じゃあ——誰のための碑なんだ?」
「だからすべての——」
「いや、そうじゃなくて」
ドラガンが腕を組み直した。言葉を探している。ドラガンが言葉を探すのは珍しいことだった。普段は思ったことをそのまま口にする男だ。
「誰のものでもないなら、誰も覚えないだろ」
ティセラが振り返った。
「どういう意味?」
「俺の爺さんの墓は西部山岳領にある。墓石にはちゃんと名前が彫ってある。名前があるから、俺は爺さんがそこにいるって思える。でもこいつは——」
ドラガンが碑を見上げた。
「名前がないんだろ。じゃあ誰が死んだのかわからない。わからなかったら、覚えようがないじゃないか」
ティセラは一瞬黙った。反論しようとして、やめたように見えた。ドラガンの言葉は粗いが、そこには素朴な真実が含まれていた。
ルシェンは碑の壁面に手を置いた。
石は冷たかった。午後の日差しを受けているはずなのに、温もりを蓄えていない。指の腹で石の表面をなぞると、抽象的な紋様の凹凸がざらりと触れた。
奇妙な感覚が指先から腕を伝い、頭の奥に届いた。
この形を知っている。
どこで見たのか思い出せない。この世界のどの建築物にも似ていない。だが、脳のどこかにこの形と合致する記憶がある。巨大なコンクリートの——いや、コンクリートとは何だ。石ではない、灰色の素材で造られた、同じような幾何学的な構造物。草原の中に立つ白い翼のようなもの。
見たのではない。写真で見た。
(写真?)
写真とは何だ。その言葉の意味がわからない。わからないのに、頭の中に浮かんだ。薄い紙の上に映し出された——いや、紙ではない、硝子のような光る板の上に——
指が石から離れた。
感覚が途切れた。残ったのは、名前のつけられない既視感と、かすかな頭痛だけだった。
「ルシェン?」
ティセラが覗き込むようにこちらを見ていた。
「何でもない。ちょっとぼんやりした」
「最近多いわね、それ」
「そうか?」
「そうよ」
ティセラの目が心配の色を帯びている。ルシェンは肩をすくめて笑って見せた。説明のしようがなかった。自分でも何が起きているのかわからない。ただ、この碑が何かを思い出させようとしていることだけは確かだった。
***
碑の周りを一周し、三人は草の上に座った。
碑は背後にそびえ、影が西に伸びている。正面にはメシャラ村が見えた。赤い屋根と白い壁が交易路の両脇に並び、鍛冶場の煙突が細い煙を空に送っている。午後の光が村全体を金色に染めていた。
「いい眺めだな」
ドラガンが呟いた。
「裏山から見たのとは違う」
「角度が違うからね。こっちの方が村の全体が見える」
ティセラが言った。
三人はしばらく黙って村を見ていた。交易路を荷馬車が一台通り過ぎ、バザールの天幕が風に揺れ、どこかで犬が吠えた。何も変わらない午後の風景。
ルシェンの口から、言葉が零れた。
「この村がなくなることって、あるのかな」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。だが、碑に触れたときの既視感が、まだ胸の底に沈んでいた。名前のない犠牲者のための碑。名前のない悲劇の記憶。この村が同じようになることが——
「はぁ?」
ドラガンが笑い飛ばした。
「何言ってんだ。なくなるわけないだろ。交易路がある限り、この村は続く。エルフもドワーフもヒューマンも、みんなここで飯食って寝てるんだ。なくなる理由がない」
「まあ、そうだけど」
「おかしなこと言うな、お前。守護精霊祭で飲みすぎたんじゃないか」
「飲んでないよ。蜂蜜酒だったし」
「子供が酒を飲むなって話だ」
「お前だって飲んでただろ」
ドラガンが笑い、ルシェンもつられて笑った。
ティセラだけが笑わなかった。
翠の瞳が一瞬だけルシェンの横顔を見つめ、すぐに村の方に戻った。彼女の完全記憶は、ルシェンの何気ない問いを一字一句記録している。
この村がなくなることって、あるのかな。
その言葉が何を意味するのか、今はまだ、誰にもわからなかった。
***
帰り道、三人は獣道を並んで歩いた。
ドラガンが先頭を歩き、灌木の枝を腕で押し分ける。ティセラが続き、ルシェンが最後尾。いつもの並びだ。
ルシェンは一度だけ振り返った。
灌木の隙間から、スポメニックの白い頂が夕日を受けて橙色に染まっているのが見えた。名前のない碑。どの種族のものでもない碑。
皇帝ゼノヴァルは、なぜ名前を刻まなかったのだろう。
その問いの答えは、まだ見つからなかった。




