5話:守護精霊の祝祭
ティセラの家は、村の東寄りに建つ白壁の平屋だった。
エルフの住居はヒューマンやドワーフのそれと微妙に様式が異なる。壁にはつるの浮き彫りと星形の飾り紋が施され、窓枠には緑に染めた麻の布が掛かっている。屋根の軒先に吊るされた木彫りの鈴が、風が吹くたびにからからと乾いた音を立てた。
守護精霊祭の日には、その鈴に新しい色紐が結ばれる。赤と白と緑——エルフの三聖色だ。
ルシェンが庭の戸口を叩くと、ティセラの母リューバが顔を出した。銀髪を高く結い上げ、額にエルフの祭事用の細い銀環を被っている。柔和な顔立ちだが、翠の瞳にはティセラと同じ芯の強さがあった。
「ルシェン。いらっしゃい。ドラガンは?」
「後から来ます。鍛冶場の片付けが残ってて」
「そう。上がって。もうすぐ準備ができるから」
家の中に入ると、料理の匂いが押し寄せてきた。
ピタと呼ばれる渦巻き状のパイが竈から出されたところだった。薄く伸ばした生地に白チーズとほうれん草を幾重にも巻き込んで焼いたもので、表面がきつね色に輝き、脂が滲んで香ばしい湯気を放っている。その隣では、干し肉と冬野菜を煮込んだ濃い赤褐色のシチューが鍋の中で静かに泡立ち、卓上には蜂蜜を練り込んだ祭事菓子が山のように盛られていた。
「手伝います」
「いいのよ。お客様なんだから」
リューバは言ったが、ルシェンはすでに棚から皿を取り出していた。この家には何度も来ている。食器の場所も、杯の並べ方も知っていた。
ティセラが奥の部屋から現れた。いつもの質素な衣とは違い、薄い水色の長衣を纏っている。襟元に銀糸の刺繍が施され、束ねた黒髪に——あの銀の髪飾りではなく——母から借りたらしい光葉石の簪が挿してあった。
「似合ってる」
口から出た言葉に、ルシェン自身が一瞬戸惑った。ティセラが耳の先に触れた。
「ありがとう。母のお古だけど」
それ以上は何も言えなかった。十四歳の語彙では、この感覚に名前をつけることができない。
***
ドラガンが到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
赤毛を水で撫でつけ、煤を洗い落とした丸顔は、いつもの鍛冶場のドラガンとは少し違って見える。着ている衣は明らかに窮屈で、肩の縫い目が張り裂けそうだった。
「母さんに着替えさせられた。動きにくい」
「祭りなんだから我慢しなさいよ」
「エルフの祭りだろ。ドワーフの祭りなら鍛冶場の格好で行くぞ」
「それはそれで、どうかと思うけど」
三人が揃い、庭に設えられた祭壇の前に立った。
他にも客が集まり始めていた。ヒューマンの農夫の一家、ドワーフの石工の夫婦、顔見知りの商人たち。メシャラ村では、エルフの守護精霊祭に異種族が招かれることは珍しくない。むしろ招かれないことの方が珍しかった。
庭の隅に造られた祭壇は素朴なものだった。苔むした石を三段に積み上げ、頂に常緑樹の枝と白い花が飾られている。祭壇の前に、火を灯した石の皿が三つ。炎が夕風に揺れている。
アーリア長老が祭壇の前に進み出た。白髪を風になびかせ、両手を広げる。
「我らの守護精霊よ」
エルフ語だった。朗々とした祝詞が庭に響く。
「森の記憶よ、水の記憶よ、風の記憶よ。我らはここにあり。我らは覚えている。千年の悲嘆を、千年の歓喜を。すべてを記憶する者として、今日この日を祝う」
ルシェンはアーリアの言葉を聞きながら、奇妙な感覚に襲われていた。
懐かしい。
祭壇の火、祝詞の抑揚、集まった人々が頭を垂れる姿。この光景を、どこかで見たことがある。いや——見たのではない。読んだことがある。薄い紙のページの上で、文字の列として見た記憶が、視覚と聴覚を伴って蘇ろうとしている。
(何だ、これは)
頭の奥がぼんやりと熱くなる。スラ——何か——という音が脳裏をよぎった。舌の上で転がしかけた音は、しかし形を成す前に消えた。
「ルシェン?」
ティセラが小声で呼んだ。ルシェンははっとして目を瞬かせた。
「ああ。大丈夫」
「顔色が悪い」
「大丈夫だって。ちょっと……なんか懐かしい感じがして」
「懐かしい? 去年も来たでしょ」
「そういう懐かしさじゃなくて」
うまく説明できなかった。去年の祭りの記憶とは違う。もっと遠い、もっと深い場所から浮かび上がってくる既視感。見知らぬ土地の見知らぬ家で、同じように火を囲み、同じように祝詞を唱え、同じように杯を交わしている——そんな記憶。
自分のものではない記憶。
だが、その違和感は夕方の風と料理の匂いに紛れて薄れていった。ルシェンは首を振り、意識を目の前の祝祭に戻した。
***
祝詞が終わると、宴が始まった。
庭に敷かれた布の上に料理が並ぶ。リューバのピタ、蜂蜜菓子、ヒューマンの農夫が持ち寄った葡萄酒、ドワーフの石工が抱えてきた麦酒の樽。種族ごとの食文化が一つの布の上で混ざり合い、誰の皿にも三つの種族の味が載っている。
ドラガンがピタを頬張りながら言った。
「うまい。エルフの飯は見た目ばかりだと思ってたけど、リューバさんのは別だ」
「母の料理を褒めてくれるのは嬉しいけど、他のエルフ料理を貶さないでくれる?」
「事実を言っただけだ。北部の干し苔煎餅はまずかった」
「あれは非常食よ」
ルシェンは二人の横で静かに杯を傾けていた。子供には薄めた蜂蜜酒が配られている。甘い液体が喉を通り、胃に温かさが広がった。
宴が進むにつれ、庭はにぎやかさを増した。エルフの老人が古い歌を口ずさみ、ドワーフの石工がドワーフ語の乾杯の音頭を取る。ヒューマンの子供たちが庭を駆け回り、笑い声が夜空に吸い込まれていく。
やがて、村の各種族の長が立ち上がった。
ヒューマンの長老ファトマ。エルフの長老アーリア。ドワーフの代表としてボグダン。三人が杯を掲げ、庭の宴客に向き直る。
「皆さん」
ファトマが口を開いた。痩せた老女だが、声は芯が通っている。
「今宵は守護精霊の祝祭。エルフのお祭りですが、この村では皆のお祭りです。我々は種族が違えど、同じ交易路の上で生き、同じ空の下で暮らしています」
ファトマが杯を高く掲げた。
「皇帝ゼノヴァル陛下のご回復を祈って」
庭が静まった。
ルシェンはその一言に引っかかった。ご回復。回復ということは——
「陛下のご回復を」
アーリアが繰り返し、ボグダンが無言で杯を掲げた。宴客が一斉に杯を口に運ぶ。
ルシェンも杯を飲んだ。しかし、頭の中では別の思考が回り始めていた。
皇帝が病に伏している。
それは噂としては聞いたことがある。バザールの片隅で大人たちが囁いていた言葉。だが、村の長たちが公の場で「回復」を祈るということは——噂よりも深刻だということだ。
ルシェンはファトマの横顔を見た。祈りの言葉を口にするとき、老女の目は閉じられていた。祈りなのか、懸念なのか。その表情からは読み取れない。
アーリアの表情はもっと読みにくかった。翠の瞳が燭台の炎を映し、何かを考えている。あるいは——何かを知っている。
ルシェンが視線を戻すと、ティセラが同じ方向を見ていた。長老アーリアの顔を。
二人の目が合った。
ティセラは何も言わなかった。ルシェンも聞かなかった。
宴はその後も続き、夜が更けても笑い声は途切れなかった。三つの種族が一つの庭で酒を酌み交わし、同じ歌を歌い、同じ月を見上げている。
だが、杯の底に沈んだ祈りの言葉が——皇帝陛下のご回復を——ルシェンの耳から消えることは、その夜、最後までなかった。




