59話:都市の亀裂
滞在が三日を過ぎた頃から、ルシェンは毎日、違う区画を歩くようにした。
目的はひとつだ。頭の中に地図を作る。
買った紙の地図は地区の輪郭しかわからない。どの通りに誰がいるか、どの建物が何に使われているか、どこに衛兵がいてどこに増えたか、どの井戸が枯れていてどの井戸がまだ出るか——それは自分の目で見るしかない。毎日歩いて、頭の中の地図に書き込んでいく。
歩く時間は、毎日違う時間にした。朝、昼、夕方、夜。時間によって、街の顔が変わる。朝のバザールは昨日とは違う品物が並んでいる。夜のバザールは閉まる店と開く店がある。夕方の中央区は、職人が帰り始める。それぞれの時間の流れが、街の本当の形を作っていた。
シャヘルは美しかった。
エルフ建築の細い尖塔とドワーフ建築の重い石組みが隣り合い、ヒューマンの木造の屋台がその間に挟まる。三つの宗教の鐘が別々の音を出して、それが重なって街の音になる。複数の言語の看板が同じ壁に張られている。
その美しさに、亀裂が入っていた。
***
四日目の昼、バザールの中区画で足を止めた。
エルフの金物屋と、ドワーフの男が言い合っていた。値段についてだ。些細な話だった。一年前ならその場で笑いになっていたような程度の話だ。
しかし今日は、周囲の人間が立ち止まって見ていた。誰も止めに入らなかった。エルフの商人の隣に立っていた若い者が、腰の辺りに手を置いていた。指の動きが、いつでも何かを抜けるという動きだった。ドワーフの男の連れも、後ろで距離を詰めていた。
言い合いが終わった。ドワーフの男が去った。エルフの商人が何か言った。聞き取れなかったが、笑い声ではなかった。罵りの音だった。短くて、低くて、種族を指す言葉だった。
周囲が散っていった。誰も振り返らなかった。何事もなかったように、それぞれの方向に消えた。
ルシェンは後にしながら、頭の中に書き込んだ。「バザール中区画。午後。諍いに対して介入なし。武器所持の兆候。一年前はこうではなかったという証言あり。罵り言葉として種族名が使われた」
書きながら、自分の手が冷たくなっているのに気づいた。
こういう記録をする自分が、前世で読んだ誰かに似ている気がした。どの誰、と特定はできない。だが、似た記述を、似た冷たい手で書いた人物が、前世のどこかにいた。記憶として浮かんでこなかったが、感覚として確かにあった。
***
五日目の夜、自室に戻ったとき、記憶が来た。
映像ではなかった。文字だった。前世で読んだ何かの文字。どの本の何章かはわからない。ただ内容が来る。
(かつて美しかった都市が、最後には狙撃手の巣になった。最初は市場の棚が空になった。次に窓ガラスが消えた。やがて窓そのものが塞がれた。水を汲みに行く子どもが狙われた。通りを横切ることが命がけになった。市民は地下室で暮らすようになった)
今見たシャヘルは、まだそこまで行っていない。水がある。市場がある。通りを人が歩いている。子供が走っている。井戸の水は出る。窓は塞がれていない。
しかし——パターンが一致している。
最初は些細な諍い。介入する者がいない。武器の所持が、目立たないところで始まる。種族名が罵りに使われる。屋台が閉まり始める。混ざっていた地区が、固まり始める。境界線が、引かれていないのに、見えるようになる。
(この街が、いつか包囲される前の形をしている)
その認識が来た瞬間、ルシェンは少し、寒くなった。窓は開いていないのに、寒くなった。
ルシェンは窓の外のシャヘルの屋根を見た。まだ燃えていない。まだそのままある。月の光が、屋根の瓦の縁を白く照らしていた。
誰に言える話でもない。言ったところで、何が変わるわけでもない。「お前、なぜ知っている」と聞かれて、答えられない。「前世で読んだ」とは言えない。「観察と推測です」と言うしかない。そう言っても、信じる者がどれだけいるか、わからない。
ただ、知っている。知っているということだけが、今の自分にある。
ルシェンは窓を閉めた。閉めるとき、もう一度、外を見た。
***
六日目、バザールの端を歩いていると、若いエルフの男が隣に並んできた。
二十代に見える。旅人風の服だが、荷物が少なすぎる。本当の旅人ではない。歩き方も、旅人のものではなかった。地元を知っている者の歩き方だった。観察された、とわかった。
「お前が北から来たというのは本当か」と男は小声で言った。
「本当だ」とルシェンは正面を向いたまま答えた。
「話したい者がいる」
「誰が」
「直接会えばわかる。悪い話ではない」
ルシェンは歩調を変えなかった。
受けるか、断るか。一秒で判断した。受けない理由はなかった。「話したい者がいる」と言って近づいてくる者は、自分のことを知っている。知っている者が誰なのか、どこにいるのか——それを知る方が、知らないままでいるより、安全だった。
「わかった。いつだ」
男が時間と場所を告げた。バザールから三本入った路地。夜の第三刻。それだけ言って、男は人混みに消えた。
ルシェンは立ち止まらなかった。歩き続けた。歩きながら、頭の中の地図にその路地の位置を書き込んだ。
路地の位置は、バザールから入って、突き当たりだった。出口が少ない。罠になる地形だ。だが、罠を仕掛けるつもりなら、もっと別の場所を選ぶだろうとも思った。出口の少ない場所は、訪問者を逃さないためにも、自分たちを守るためにも、両方の用途で使える。
判断は、夜になってから出す。
今は、頭の中の地図に、新しい点をひとつ加えただけだった。




