57話:ファトマの教え
ベシムの背中から見る世界は、少し高かった。
ファトマは九十年近く自分の足で歩いてきた。誰かに担がれたことはなかった。だから最初は断った。しかし三日目の朝、膝が言うことを聞かなくなった。杖だけでは足りなかった。以来、ベシムの背に乗っている。
ベシムは、文句を言わなかった。重い、とも、楽だ、とも、言わなかった。ただ歩いた。担いだ最初の日、ファトマが「重いか」と聞くと、ベシムは「軽い」とだけ答えた。それで、その話は終わった。
高い位置から見ると、列の形がわかる。
先頭にルシェンがいる。いつもルシェンが先頭にいる。誰も決めていない。歩き出すと自然にそうなる。途中で休んで、また歩き出すときも、誰よりも早くルシェンが立ち上がる。立ち上がってから、他の者を待つ。
(この子が指導者になりたいわけではない)
ファトマにはそれがわかる。ルシェンは命令することも命令されることも、どちらも本質的には好みではない。しかし最も必要な場所に、いつの間にか立っている。その場所がたまたま先頭だ。
指導者というより——場所を読む者だ。
風の向きを読むように、人の動きを読む。誰がどこに立てば集団が落ち着くか。誰がどこにいると集団が乱れるか。それを、頭ではなく、肌で知っている子だった。子供の頃からそうだった。鍛冶場の片隅で、火の機嫌を見ていた目と、同じ目で、今は集団を見ている。
***
四日目の夜、ファトマはルシェンを手招いた。
他の者たちが眠りに落ちた頃だった。二人だけが起きていた。火は焚いていない。月だけが、薄く照らしていた。
「お前は、なぜ先頭にいる」
ルシェンが少し考えた。
「そうなったからです」
「それが答えだ」とファトマは言った。
「何の答えですか」
「お前の力が何かという問いへの答えだ。選ばれたから動くのではない。なったから動く。それがお前の動き方だ」
ルシェンは黙って聞いていた。
「お前は多くの言葉を持っている。多くの種族の顔を知っている。鍛冶の腕がある。地形を読める。だが、それより大事なことがひとつある」
「何ですか」
「お前はどこにも属さない」
ルシェンが、かすかに表情を変えた。
「属さないことを弱さだと思うな」とファトマが続けた。「エルフでもなく、ドワーフでもなく、ヒューマンでもオークでもない。どこにも帰属しない者の言葉は、誰にとっても外から来る。外から来る言葉は、内にいる者には届く角度が違う。届く、ということがまず違う」
夜の風が来た。北からの、少し冷たい風だった。ファトマが、襟元を片手で押さえた。
「でも」とルシェンは言った。「何者でもない者の言葉に、誰が従うんですか」
ファトマが笑った。声を出して笑うファトマを、ルシェンはほとんど見たことがなかった。
「今、三十人近くが従っているだろう」
ルシェンは答えなかった。
ファトマが笑い止んで、少し間を置いた。月の角度が変わって、ファトマの片頬だけが、わずかに照らされた。
「お前は武器を持っている。言語という武器を。観察という武器を。どこにも属さないという武器を。使え。持ったまま死ぬな」
「使う、というのは——」
「使う、と思って使え、ということではない」とファトマは言った。「使っている、と気づいたときには、もう使われている、ということだ。お前は、もう使い始めている。今夜、私と話しているのも、それだ。お前は、私から何かを取ろうとしている。取って、明日からの判断に使うつもりでいる」
「……はい」
「それでいい」とファトマは言った。「正直に取れ。礼は言わなくていい」
***
話が落ち着いた頃、ファトマが脇腹に手を当てた。
無意識の動作だった。会話の隙間に、自然に手が動いた。手が当たった場所を、軽く押さえた。眉が、わずかに寄った。そのすぐ後で、表情を戻した。一瞬のことだった。
ルシェンは見ていた。
聞かなかった。聞けば、ファトマが「何でもない」と答えるのはわかっていた。答えさせれば、ファトマに嘘をつかせることになる。それは、ファトマがしたくないことだろうと思った。
ファトマも何も言わなかった。
二人でしばらく、夜の方角を見ていた。南の空に、また光が見えた。昨夜の光より、少し近かった。明日か、明後日には、その光の元に着く。光が何であるかは、近づけばわかる。
やがてファトマが「休め」と言った。それで終わった。
ルシェンは荷物の脇に戻った。横になった。すぐには眠れなかった。ファトマの脇腹に当てた手の動きが、目の裏に残っていた。
***
翌朝、出発の準備が始まった頃、ベシムがルシェンの隣に来た。
声を落として言った。
「長老の脇腹、昨夜より腫れている気がする」
ルシェンはベシムを見た。
ベシムは何も続けなかった。ただそれだけ言って、荷物を担いで列の後ろに戻った。
ルシェンは前を向いた。
ベシムの背中の上に、ファトマが乗っていた。
ファトマは、まっすぐ前を見ていた。ルシェンの背中を見ていた。先頭にいるルシェンを、列の中ほどから、見ていた。
ルシェンは、ファトマの視線を、背中に感じていた。
歩き出した。
(持ったまま死ぬな、と、ファトマは言った)
(ファトマさんも、持ったまま死なないでください)
声には出さなかった。声に出せば、それは願いになる。願いは、状況を変えない。状況を変えるのは、判断と行動だけだ。それも、ファトマから受け取ったもののひとつだった。
ルシェンは、歩く速度を、わずかに落とした。ベシムの足が、それ以上、無理をしないように。気づかれない程度に、列全体の速度を、調整した。




