54話:狙撃手の丘
二日目の午後、街道が丘の稜線に沿って続く区間に入った。
左が崖。右が開けた斜面。下に小さな谷。見通しがいい。見通しがいい場所は、こちらからも見える場所だ。
ルシェンはその感覚を、どこで覚えたかわからないが、確かに知っていた。前世の文字の海のどこかに、似た記述があった気がする。本のどの頁か、誰の手記か——具体的には浮かばない。ただ、感覚として残っている。この区間に入った瞬間、背中の肌が変わった。
歩く速度は、変えなかった。変えれば、見ている者に「気づいた」ことが伝わる。気づいたことが伝われば、相手は判断を急ぐ。
ヤンコが横に追いついてきた。何か話しかけようとした。
矢が来たのは、ヤンコが口を開いた瞬間だった。
音より先に、老人が倒れた。右腕を押さえて、草の上に座り込んでいた。矢がかすっていた。深くない。布の上に、線のような赤い跡がついていた。しかし次が来ればわからない。
ルシェンは矢の来た方向を見た。稜線。東北。風と矢の落ちた角度から逆算する——距離は二百歩前後。狙撃手は一人か、二人か。少なくとも、一人いる。
「全員、右の斜面へ」
声が出た。考えてから言ったのではない。計算が先に終わって、言葉が後からついてきた。
「走れ。谷の手前まで。止まるな」
人が動いた。
ルシェンが先頭に立った。説明する時間はない。動いた方が先で、説明は後だ。
ベシムが、座り込んだ老人の腕を取って、肩に担ぎ上げた。何も言わなかった。一言も発しないまま、老人の体重を引き受けて走り出した。老人の足が地面から離れていた。ヒューマンの体を、オークの肩が運んでいた。
二本目の矢は来なかった。
***
谷に入ってから、ルシェンは初めて息をついた。
斜面の角度が盾になっている。稜線からは狙えない。
老人がカジミルたちに支えられて座っていた。ベシムが膝をついて腕の傷を確認していた。矢は腕の外側をかすめただけだ。布で縛れば動ける。
「水を」とベシムが言った。
ヤンコが水筒を渡した。老人の口に、少しだけ含ませた。老人が頷いた。礼を言おうとして、声が出なかった。ベシムは何も求めなかった。
「どこから来た」とカジミルが、誰にともなく聞いた。
「北東。二百前後だ」とルシェンは言った。
「そんな距離から当てられるのか」
「かすらせるくらいはできる。次を狙い直す前に動いたからよかった」
「一人なのか」
「わからない。だが、一人だと仮定する方が動きやすい」
誰も返さなかった。
ルシェンは少し引き返して、倒れた場所を確認した。草の上に矢が落ちていた。一本だけだった。狙撃手は、一射しか出さなかった。外したと知って、二射目を控えた——あるいは、最初から脅しだった。どちらも、ありえる。
拾い上げた。
細くて長い矢だった。羽の色が緑だった。
(祭りで見た矢と同じだ)
守護精霊祭の射的の屋台。弓を持ったエルフの若者。羽の形まで、同じだった。あの矢とこの矢は、同じ場所で作られた。同じ手が、同じ木を削って、同じ羽を糊で留めた。
あの祭りの矢は、的を射るための矢だった。今、ルシェンが手に持っているのは、人を射た矢だった。物としては同じだった。使われ方だけが、違っていた。
矢を荷物に差し込んだ。捨てなかった。後で見るかもしれないと思った。何のために見るのかは、自分でもわからなかった。
***
谷を抜けると、街道が戻っていた。
足跡があった。
まだ乾いていない部分がある。十人以上が南へ向かっている。一日分は離れていない。半日か、それ以下。自分たちより先に、同じ道を、誰かが歩いていた。
追うか、距離を置くか、判断しなかった。まず夜営地を決めるのが先だ。
ベシムが、まだ老人を担いでいた。下ろそうとしたが、老人が「もう少し」と言った。ベシムは何も言わずに、続けて担いだ。
ルシェンは前を向いた。
頭の中で、もう一度、計算をした。狙撃手は、自分たちを止めようとして外したのか、当てるつもりで外したのか。前者なら、追跡はない。後者なら、いずれ追ってくる。どちらかは、明日になっても確定しない。だが、想定しておく必要はある。
歩きながら、配置を組み直した。先頭はルシェン、最後尾はベシム。負傷した老人は中央。子供と母親はその前後。荷物の重い者は中央に集める。それで、列の長さを短くする。
誰にも、まだ伝えなかった。夜営地に着いてから伝える。
***
夕暮れの少し前、街道の先に、別の一行を見つけた。
二十人ほどの集団だった。半分ほどは女と子供で、残りは老人と数人の男。荷物の積み方からして、自分たちと同じ難民だった。先頭にいた中年のヒューマンが、こちらに気づいて、足を止めた。互いに距離を保ったまま、しばらく見ていた。
ルシェンが、手を上げた。
「南へか」と男は言った。
「南へ」とルシェンは答えた。
「俺たちもだ」
それだけだった。
近づいて、それぞれの集団が、自然に一つの列になった。ルシェンは、新しく加わった者たちの顔を、一つずつ覚えようとした。覚え切れなかった。名前は、まだ聞いていない。聞く時間がなかった。
負傷した老人は、ベシムが下ろした。新しく加わった一行の中の老婆が、布を出して、傷の上から押さえてくれた。互いに名前を交わさなかった。「礼は、夜営地で」と老婆は言った。
合わせて三十人を超える列が、夕暮れの街道を、南へ進んだ。




