表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/80

46話:別離

 夜明け前から、音がしていた。


 ルシェンは眠れていなかった。眠れないまま横になって、通りの向こうの音を聞いていた。荷車の軋み。木の箱の角が何かに当たる音。リューバの低い声。ティセラの父の短い答え。


 空が白んでくる頃、ルシェンは鍛冶場に入った。


 炉に火を入れた。火が点いた。それを見た。それだけをした。今日は何かを打つ気になれなかった。炉の前で、火を見ていた。


 炎がぱちりと爆ぜた。


 朝日が窓から差し込んできた。


 ***


 戸が開いた。


 ティセラだった。両腕に、巻物の束を抱えている。束は厚かった。手持ちのものよりずっと多い。近づいてくる顔が、眠れていない顔だった。ルシェンと同じ顔だった。


「受け取ってほしい」とティセラは言った。


 巻物の束を差し出した。ルシェンが受け取った。重かった。


「この村の記録だ。家々の名前。住民の顔。路地の幅。市場の商品の記録。祭りの次第。スポメニックの形。あなたが教えてくれたことも、全部入っている」


「俺が、持っていていいのか」


「あなたが一番、使い方を知っている」


 ティセラが言った。ルシェンは巻物の束を作業台に置いた。


 ***


 ティセラが懐に手を入れた。小さなものを取り出した。


 銀の髪飾りだった。小さな細工が施された、細い銀の飾り。シンプルだが、丁寧に作られている。ティセラがずっと持っていたものだ。渡すのではなく、ただ見せた。


「覚えている」とティセラは言った。


 それだけ言った。


 以前の約束の言葉だった。「もし全部がだめになっても。俺たち三人のことは、覚えていてくれるか」というルシェンの問いへの、「覚えている。一字一句。覚えているわ」という返答。その続きだった。今もまだ覚えている、という宣言だった。


 ルシェンは口を開いた。


 何かを言おうとした。礼でも、返答でも、ティセラへの言葉でも。何かが来かけて、来なかった。形にならなかった。金属の声は聞けるのに、こういう場所での言葉の声は、いつも来るのが遅かった。


「ティセラ」と声を出した。名前だけ出た。


 外から、父の声がした。「ティセラ。時間だ」


 ティセラが巻物の束をルシェンの手に押しつけた。指先が冷たかった。


「元気でいて」と言った。返事を待たなかった。


 戸口から出ていった。


 ***


 鍛冶場の入り口に立った。


 荷車が動き始めていた。リューバが御者台に座り、ティセラの父が手綱を持っていた。ティセラは荷台の端に座って、前を向いていた。


 荷車がゆっくりと交易路に出た。南へ——いや、北へ向かった。北の街道を行く。


 ルシェンは入り口に立っていた。


 ティセラが一度だけ振り返った。


 手は上げなかった。視線だけが来て、視線だけが去った。荷車が通りの角を曲がった。蹄の音が遠くなった。石畳の音が遠くなった。聞こえなくなった。


 交易路に、ルシェンだけが立っていた。


 どれくらいそうしていたかわからない。炉の火が勢いを増す音がして、鍛冶場の中に戻った。


 ***


 作業台の上に、巻物の束があった。


 一番上の巻物を取った。紐をほどいた。広げた。


 ティセラの字だった。几帳面で、均整がとれた字。一字一句、正確な字。その字で、最初の一行が書いてあった。


 「メシャラ村は、かつて五つの種族が共に生きた場所だった」


 過去形だった。


 ティセラはまだ村にいた頃に、これを過去形で書いた。出発する前から、終わったこととして書いた。語り部として、すでに歴史として書いた。


 ルシェンは巻物を閉じた。紐を結んだ。束の中に戻した。


 炉の火が燃えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ