表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/80

44話:ティセラの決断

 巻物を一本手に取った。しまった。


 本を一冊引き出した。棚に戻した。


 布袋を広げた。何も入れないまま、たたんだ。


 書室の荷造りを始めたのは朝だった。止まったのは、始めてすぐだった。何を持っていくべきかが決まらないのは、どこへ行くかが決まっていないからだ。北部へ行くことは決まっている——家族がそう言っている。アーリアがいない書室を一人で守るには限界がある——それも分かっている。だが何かが、手を動かさなかった。


 机の前に座り直した。膝の上に何も置かなかった。窓の外の、朝の光を見た。


 ***


 昼前に、書状が届いた。


 北部森林領評議会の紋章が押されている。アーリア・レヴィアナの字だった。師の字は小さく、几帳面だった。


 「評議会の審議が長引いている。帰還の見通しが立たない。書室の管理はお前に任せる。記録を続けなさい」


 それだけだった。


 ティセラは紙を膝の上に置いた。師の字を指でなぞった。「お前に任せる」という一文を何度か指でなぞった。


 この書室は、今日からティセラのものだ。


 その意味が、ゆっくりと形を持ち始めた。師が戻らないなら、書室に残っても師はいない。書室を閉じて行くなら、この場所に積み上げてきた記録は誰が守るか。どちらを選んでも、失うものがある。


(失うものを選ぶのが、決断だ)


 声が来た。誰の声かはわからなかった。


 ***


 夕方、ルシェンが来た。


「荷造りか」と聞いた。


「途中で止まってる」


「そうか」


 それだけ言って、壁に背をもたせかけて座った。ティセラを説得しようとしなかった。残ってくれとも言わなかった。行けとも言わなかった。


 その無言の意味を、ティセラは理解していた。


 言えないのだ。言ったら、別の何かに対して不誠実になる——残れと言えば、ティセラの安全を軽く見ることになる。行けと言えば、自分の気持ちに嘘をつくことになる。どちらも言えないから、黙って座っている。その不器用さが、ルシェンという人間の正直さだと、ティセラは思った。


 二人で、しばらく黙っていた。


 書室の窓から、村の屋根が見える。灯りのない家がある。先週まで灯りがあった家が、今週は暗い。


「ルシェン」


「ん」


「語り部として、一つだけ聞く」


「何を」


「私が北部に行って、この村のことを記録する者がいなくなったとして——この村で起きていることは、誰かが記録すべきだと思うか」


 ルシェンが少し考えた。


「思う」


「それは、私がここに残るべきだということか」


「わからない」とルシェンは言った。「お前が安全でなければ、記録も続かない。だから、わからない」


 ティセラは膝の上に視線を落とした。


 それが正直な答えだと分かった。


 ***


 夜になって、ルシェンが帰った後、ティセラは一人で書室に座っていた。


 問い直した。記録すべきものは、どこにあるか。


 エルフの評議会の中にもある。北部の政治的な動きも、歴史的な記録として残すべきことだ。それは確かだ。


 しかし——この村にもある。


 村が壊れていく過程を、内側から見ている者が、今のティセラしかいない。外から記録することはできる。だが内側から——住民として、この変化の中で息をしながら——記録できる語り部は、今ここにしかいない。


(行く。でも、記録してから行く)


 決めた。


 行く。北部へ行く。家族と共に行く。だが出発の前に、この村のすべてを書き残す。家々の名前。住民の顔。路地の幅。市場の台の数。スポメニックの形。壊れていく過程の、一つ一つを。


 すべてを巻物に残してから、行く。


 ***


 翌朝、ルシェンが鍛冶場に火を入れている時間に、ティセラが来た。


「お願いがある」


「何だ」


「出発の前に、この村のことを全部教えてほしい。あなたが知っていて、私が知らないことを」


 ルシェンが手を止めた。


「炉の温度でも、石畳の割れ目でも——鍛冶場から見えるものでも。語り部として、あなたから聞いておきたい。あなたはこの村の記録の、一部だから」


 ルシェンは炉の火を見た。少し間を置いた。


「わかった」と言った。「何から話せばいい」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ