表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/81

42話:出立

 鍛冶場の戸を開けると、ボグダンがいた。


 朝だった。ルシェンがいつもの時間に来ると、師匠はすでに工具を一つ一つ確認していた。金槌を持ち上げ、頭を検める。やすりの目を爪でなぞる。蜜蝋の容器の蓋を締める。確認し終えたものを、布に包んで箱の中に収めていく。


 ドラガンが大きな荷物を脇に置いて立っていた。


「来たか」とボグダンが振り返らずに言った。


 いつもの声だった。朝一番の声で、いつもそう言う。だが、今日は何かが違った。声の中の何かが、いつもと違った。


(これは、最後の朝だ)


 ルシェンには分かった。


 炉に火を入れようとした。ボグダンが「いい」と言った。「今日は入れなくていい」。


 炉が冷えたままだった。


 ***


 ボグダンが作業台の前に立った。ルシェンを呼んだ。


「来い」


 近づいた。ボグダンが少し間を置いた。鍛冶場の中を見渡した。入り口から炉まで、炉から工具棚まで、棚から金床まで。一通り見渡してから、金床の脇に立った。


「これをお前に渡す」


 金床だった。


 ルシェンは一瞬、意味が取れなかった。この鍛冶場で何百回も鉄を打ってきた、あの金床だ。師匠の槌跡が刻まれた、あの金床。ドラガンが先日、夜中に一人で触っていた、あの金床。


「師匠の金床を、俺が」


「お前の腕なら、どこでも使える」


 ボグダンが金床の角を手で叩いた。一度だけ。


「炉は村のものだ。工具は持っていく。だがこれは——ここに残す方が、ここのためになる」


 ルシェンは金床を見た。重い鉄の塊。でこぼこした面。年月の入った色。


「ありがとうございます」


 ボグダンが頷いた。それ以上は何も言わなかった。


 ***


 荷車が用意されていた。鍛冶場の裏手に、昨日のうちに引いてきた荷車が待っている。ボグダンの荷物が積まれた。ドラガンの荷物が積まれた。


 ルシェンとドラガンが向き合った。


 ドラガンが先に言った。


「行くな」


「ああ」


「でも——すぐ戻る」


 ルシェンは答えなかった。


「戦争なんかにならない。大丈夫だ」


 ドラガンが笑った。明るい声で。手を差し伸べた。指を曲げた——幼少期からの、三人の握り方だ。中指と薬指を絡める。ドラガンが最初に覚えた手の動き。確かファトマの縁日で習ったのだったか。


 ルシェンが応じた。指を絡めた。


(これは嘘だ)


 頭の中で、声がした。ドラガンが嘘をついているという意味ではなかった。ドラガン自身も、信じようとしながら言っている。しかし「すぐ戻る」は来ない。「戦争にはならない」は来ない。「大丈夫」は来ない。それをルシェンは知っていた。夢の中で見てきた断片が、前世から引き摺ってきた確信が、そう告げていた。


 指を離した。


「元気でいろ」とルシェンは言った。


「お前もな」


 ドラガンが荷車に乗った。ボグダンが手綱を持った。荷車がゆっくりと動き始めた。


 交易路に出て、北へ向かう。


 ドラガンが一度だけ振り返った。手を上げた。


 遠かった。それでも——笑い方は明るかったのに、その目だけが何かを知っていた。「すぐ戻る」と言ったが、目は「すぐ戻れないかもしれない」と言っていた気がした。


 ルシェンが手を上げた。


 それだけだった。


 荷車が交易路を進んでいく。曲がり角の向こうに消えた。蹄の音が遠くなった。遠くなって、聞こえなくなった。


 ***


 鍛冶場に戻った。


 炉が冷えていた。


 朝から火を入れていない。師匠がいた頃は、夜明け前に火が入っていた。どんな日も。吹雪の日も、皇帝が死んだ日も。炉に火が入っているのが、この鍛冶場の当たり前だった。


 今日は入っていない。


 ルシェンは炉の前に立った。石でできた炉が、ただの石の箱として冷えている。火床に昨日の灰が残っている。余熱もない。


 金床が隣にある。師匠から渡された、師匠の金床。


 ルシェンは手を金床に置いた。


 冷たかった。


 炉の余熱が届かない冷たさだった。師匠の槌跡がある金床が、何の温みも返してこなかった。


 誰の手も加えないまま、炉が冷えていく。


 初めてだった。この鍛冶場が、この村にある限り、炉は常に誰かの手によって生かされていた。今日、初めて、誰も火を入れない一日が来た。


 ルシェンはそのまま、しばらく冷えた炉の前に立っていた。


 ***


 夜になって、戸を叩く音がした。


 ティセラだった。


 ランタンを持って立っている。その顔が、話しに来た顔だった。聞いてほしいことがある、でも言いたくない、という顔だった。


「入れ」


 ティセラが鍛冶場に入った。ランタンの光が炉の石壁を照らした。冷えた炉が、初めて光の中に見えた。


 二人で、鍛冶場の中に座った。炉の前に。木の台の上に並んで。


 ティセラが口を開いた。


「うちの親が、来週出ると言った」


 ルシェンは驚かなかった。


「そうか」と言った。


 二人でしばらく、黙っていた。


 炉の余熱もない。火の気配もない。ただ冷たい石の部屋に、二人だけがいた。ランタンの小さな火が、ゆらゆらと揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ