42話:出立
鍛冶場の戸を開けると、ボグダンがいた。
朝だった。ルシェンがいつもの時間に来ると、師匠はすでに工具を一つ一つ確認していた。金槌を持ち上げ、頭を検める。やすりの目を爪でなぞる。蜜蝋の容器の蓋を締める。確認し終えたものを、布に包んで箱の中に収めていく。
ドラガンが大きな荷物を脇に置いて立っていた。
「来たか」とボグダンが振り返らずに言った。
いつもの声だった。朝一番の声で、いつもそう言う。だが、今日は何かが違った。声の中の何かが、いつもと違った。
(これは、最後の朝だ)
ルシェンには分かった。
炉に火を入れようとした。ボグダンが「いい」と言った。「今日は入れなくていい」。
炉が冷えたままだった。
***
ボグダンが作業台の前に立った。ルシェンを呼んだ。
「来い」
近づいた。ボグダンが少し間を置いた。鍛冶場の中を見渡した。入り口から炉まで、炉から工具棚まで、棚から金床まで。一通り見渡してから、金床の脇に立った。
「これをお前に渡す」
金床だった。
ルシェンは一瞬、意味が取れなかった。この鍛冶場で何百回も鉄を打ってきた、あの金床だ。師匠の槌跡が刻まれた、あの金床。ドラガンが先日、夜中に一人で触っていた、あの金床。
「師匠の金床を、俺が」
「お前の腕なら、どこでも使える」
ボグダンが金床の角を手で叩いた。一度だけ。
「炉は村のものだ。工具は持っていく。だがこれは——ここに残す方が、ここのためになる」
ルシェンは金床を見た。重い鉄の塊。でこぼこした面。年月の入った色。
「ありがとうございます」
ボグダンが頷いた。それ以上は何も言わなかった。
***
荷車が用意されていた。鍛冶場の裏手に、昨日のうちに引いてきた荷車が待っている。ボグダンの荷物が積まれた。ドラガンの荷物が積まれた。
ルシェンとドラガンが向き合った。
ドラガンが先に言った。
「行くな」
「ああ」
「でも——すぐ戻る」
ルシェンは答えなかった。
「戦争なんかにならない。大丈夫だ」
ドラガンが笑った。明るい声で。手を差し伸べた。指を曲げた——幼少期からの、三人の握り方だ。中指と薬指を絡める。ドラガンが最初に覚えた手の動き。確かファトマの縁日で習ったのだったか。
ルシェンが応じた。指を絡めた。
(これは嘘だ)
頭の中で、声がした。ドラガンが嘘をついているという意味ではなかった。ドラガン自身も、信じようとしながら言っている。しかし「すぐ戻る」は来ない。「戦争にはならない」は来ない。「大丈夫」は来ない。それをルシェンは知っていた。夢の中で見てきた断片が、前世から引き摺ってきた確信が、そう告げていた。
指を離した。
「元気でいろ」とルシェンは言った。
「お前もな」
ドラガンが荷車に乗った。ボグダンが手綱を持った。荷車がゆっくりと動き始めた。
交易路に出て、北へ向かう。
ドラガンが一度だけ振り返った。手を上げた。
遠かった。それでも——笑い方は明るかったのに、その目だけが何かを知っていた。「すぐ戻る」と言ったが、目は「すぐ戻れないかもしれない」と言っていた気がした。
ルシェンが手を上げた。
それだけだった。
荷車が交易路を進んでいく。曲がり角の向こうに消えた。蹄の音が遠くなった。遠くなって、聞こえなくなった。
***
鍛冶場に戻った。
炉が冷えていた。
朝から火を入れていない。師匠がいた頃は、夜明け前に火が入っていた。どんな日も。吹雪の日も、皇帝が死んだ日も。炉に火が入っているのが、この鍛冶場の当たり前だった。
今日は入っていない。
ルシェンは炉の前に立った。石でできた炉が、ただの石の箱として冷えている。火床に昨日の灰が残っている。余熱もない。
金床が隣にある。師匠から渡された、師匠の金床。
ルシェンは手を金床に置いた。
冷たかった。
炉の余熱が届かない冷たさだった。師匠の槌跡がある金床が、何の温みも返してこなかった。
誰の手も加えないまま、炉が冷えていく。
初めてだった。この鍛冶場が、この村にある限り、炉は常に誰かの手によって生かされていた。今日、初めて、誰も火を入れない一日が来た。
ルシェンはそのまま、しばらく冷えた炉の前に立っていた。
***
夜になって、戸を叩く音がした。
ティセラだった。
ランタンを持って立っている。その顔が、話しに来た顔だった。聞いてほしいことがある、でも言いたくない、という顔だった。
「入れ」
ティセラが鍛冶場に入った。ランタンの光が炉の石壁を照らした。冷えた炉が、初めて光の中に見えた。
二人で、鍛冶場の中に座った。炉の前に。木の台の上に並んで。
ティセラが口を開いた。
「うちの親が、来週出ると言った」
ルシェンは驚かなかった。
「そうか」と言った。
二人でしばらく、黙っていた。
炉の余熱もない。火の気配もない。ただ冷たい石の部屋に、二人だけがいた。ランタンの小さな火が、ゆらゆらと揺れていた。




