37話:選択の時
廊下に出たのは、喉が渇いたからだった。
夜の深い時間だった。水を汲みに台所へ向かいながら、居間の前を通った。
声が聞こえた。
戸の向こうから、両親の声が。低く、押さえた話し方で。
「もう決めなければ」という父の声。「ティセラはまだ理解していない」という母の声。
ティセラは足を止めた。
聞くつもりではなかった。盗み聞きをしたいわけではなかった。ただ、足が止まった。
「北部からの通達を、いつまでも保留にはできない」
「でも——」
「次は命令になる。勧告のうちに動いた方が、余裕がある」
ティセラは水を汲まずに自分の部屋に戻った。
その夜は眠れなかった。
***
翌朝、ティセラは母に直接問い質した。
「北部に帰るつもりですか」
リューバが手を止めた。台所の仕事をしていた手が、ゆっくりと器の上で止まった。
否定しなかった。
「北部評議会から、自治領外に住むエルフへの通達が届いた。正式な書類だ」
「通達。帰還の勧告ですか」
「そうだ」
「勧告でしょう。命令ではない」
「今は」とリューバが言った。「今は、ね」
ティセラは台所に入った。母の目を見た。
「私はここが故郷です。ここで育った。アーリア師匠もいる。ルシェンも、ドラガンも——」
「知っている」
「なのになぜ」
「南の方で、エルフとヒューマンの間に暴力があったそうだ」とリューバが静かに言った。「詳しい話は伝わっていないが、ここでも同じことが起きないとは——」
「ここは違います」
「どうして言い切れるの」
答えが、来なかった。
ティセラは言い切れると思っていた。確信があると思っていた。だが——言葉を探すと、根拠ではなく、信じたいという気持ちしか出てこなかった。
***
夕方、父が帰ってきた。
父がティセラの部屋の戸を叩いた。めったにないことだった。父はいつも母を通して話す人だった。直接来るのは、よほどのことだ。
「入ってもいいか」
「はい」
父が部屋に入ってきた。静かな人だ。母のような言葉の上手さはない。器用な人でもない。ただ、誠実な人だ。
「ティセラ。お前の気持ちはわかる」
父が座った。少し迷ってから、続けた。
「お前がここを大切にしていること。友達がいること。学びたいことがあること。全部わかる。お前はここで育ったし、ここが故郷だ。それは——変わらない」
ティセラは黙っていた。
「だが、お前が安全でなければ」と父は言った。「俺たちは、親として何もしなかったことになる」
その言い方が静かだったから、重かった。感情ではなく、事実として言っていた。
ティセラは返答を探した。
ここは安全だ、と言おうとした。言えなかった。言い切れなかった。
広場に旗が立った日のことを思った。連邦旗の横に、エルフの旗とドワーフの旗が並んだ日。ヴークの演説の言葉を一字一句写した日。若いエルフの女たちが「胸に刺さらなかったか」と聞いた日。
この村は安全だと——本当に確信があるか。
ティセラは、その問いの答えを持っていなかった。
***
翌日、アーリアの書室に向かうと、扉が半開きになっていた。
中を覗くと、アーリアが棚の前に立っている。棚から本を取り出し、布の袋に入れていた。几帳面な手の動きで、選びながら入れている。全部ではなく、必要なものだけを選んでいた。
「アーリア師匠」
アーリアが振り返った。表情は変わらない。いつもの静かな顔だ。
「来なさい。今日も写しの仕事がある」
「その荷物は」
アーリアが少し間を置いた。
「評議会から招集が来た。行かなければならない。三週間ほどで戻る」
「評議会の招集——北部から、ですか」
「そうだ」
ティセラは部屋に入った。巻物を手に取った。
三週間。
アーリアが「三週間で戻る」と言った。ティセラはその言葉を聞きながら、この三週間という期間が、そのまま三週間で終わるとは限らないことを感じていた。
感じながら、認めたくなかった。
筆を持った。写しを始めた。
アーリアの棚が、少しずつ薄くなっていった。




